カオスの弁当

中山研究所blog

如是閑と文化勲章

 

 毎年自ずとこの時期になると筆者(本稿筆者)が心身共に調子良くなるのは、文化芸術の秋云々の刷り込み教育の賜物であろう。学校教育の効果を、この歳になると熟感じる。

 また、この「秋」は、自尊心の回復期に当たる。幼少期の刷り込み教育のそれと対になるのは、常日頃からなる被害者意識の鬱積であろうが、それは個人がそう意識するとしないとに拘らず、用意された環境の影響がそういう意気消沈と浮揚を齎すものだろう。さもなくば、文化芸術に無縁な自分がこんなに燥ぐ謂れはない。

 

 それ祭りの異常なのは費やされる資源の所為だろう。その使い途、高やらが全く実際的な利益を度外視していればいる程、贅沢で心地よい。

 勿論、どんな手品にもタネがあるように、例えば、軍隊が使用期限を迎えた火薬の類を処分するのに、折角だからショーの花火にして人民を楽しませようとするのは、元を辿れば家庭で死蔵されていた小麦粉やら上新粉やらを使って、パンケーキや団子を山ほど作るのとそう変わらない経済感覚で理解出来るものだ。

 

 見せる側の思惑は、結局それが遊びとして、理解し得るだろう人間の感覚に対する信頼によって成り立っている。実際的な勘定の詰まらなさと、審美的な感情の面白さを両立出来る分別の有無が人間精神の成熟度合いの指標だとしたら、この信頼の出来る・出来ないの問題は、その精神の発達に少なからず関係してくる問題だろう。

 さて、そんな信頼の問題から長谷川如是閑(1875-1969)の活動を見てみると、多分に彼はその問題でよく蹴躓いて転んでいる印象が看取される。特に文芸作品に於いて、彼はこの躓き石を執拗に蹴飛ばそうとしては、転んでいる。ただ、彼自身はその障害を取り払おうとは、文芸作品を通じては、しなかった。代わりに、よりアクチュアルな方法として、メディアを通じた民間からの政府への働きかけによって、乗り越えようとしたのであった。

 

 1948年に文化勲章を受賞した長谷川だが、この叙勲が占領統治下での新しい時代の幕開けを祝う儀式の装飾として行われたものだったーーというのは、意地が悪いかも知れないが、当たらずも遠からずだろう。もっとも、既に当時で古希を超えた老人に対して、そうした御輿的な姿勢が相応しくなかったという批判は今日からでは余計当たらないものだ。

 兎も角、既に文芸作品(随筆を除く)の執筆からも手を引いて、世間を遊歩し漠然と抱いたビジョンを創作活動で昇華していた文筆家から、文字通り諸国諸外国を漫遊する栄誉ある批評家へと変貌した彼を同じく扱う事は困難である。

 よく知られるジャーナリスト・批評家・思想家としての彼の側面は、この信頼の問題を飄々と克服しているかのようにみえる。だが、一方で文筆家、殊に作家としての彼の著作を読んでみると、良い歳していつまでも拘泥している人間像が見出される。

 勿論、作品と作家の人格は擦り合わせて理解する必要はない。

 だが、それこそ本人が否定しようとも、著者と著作を繋ぐ関係も信頼の問題である。

 また、その媒介としての言葉に対する如是閑の関心は、自分の思考を直接他者に伝えることが出来る装置を登場させた戯曲形式の小説で(『無線電心機』1920年)、わざわざ思考を「文字に起こす」という一手間を加えさせていたりする。また、小説を含めた「口語」への関心は昭和初期の日本語研究(『話言葉の文化』1941年、『言葉の文化』1943年、共に国民学術協会)に繋がり、こうした関心は万葉文学への関心と合流して、戦後、インタビューで明言するようにもなる「文化的デモクラシー」の提唱にも繋がったろうと考えられる。

 文化的デモクラシーとは、曰く、日本では昔から全階級的に文化が共有されており、ある特定の階級だけが持っていたのではないとする彼の認識に基づく、日本の伝統としての民主主義なのだそうだ。

 正直、だいぶ怪しげな主張として筆者には受け止められるものだが、これは果たして、彼なりの他者理解の終着点だったのだろうーーという風に現段階では性急かも知れないが理解していたりする。

 

 如是閑の立場として、彼が青年期に陸羯南ら、“当時の”国粋主義(曰く「トラディショナリスト」)的な活動へシンパシーを感じて、ジャーナリズムに身を投じたのはよく知られた話である。そんな青年が紆余曲折を経て、壮年期に至って日本へ「回帰」したのは、ある意味で一貫性のある行動として、今次では評価し得るものだろう。

 当然、ここでも留保は必要である。何せ彼の人生は93年にも及び、かつジャーナリストとしての活動期間も70年近い。しかし、少なくとも彼のジャーナリストとしての活動と並行して青年期から壮年期まで続けられた文芸作品の執筆活動を、ここに今一つの彼の立場を知る材料として読むことによって、その変遷の掘り下げられるだろうと筆者は踏んでいたりする。

 

 如是閑の主著として目される『日本的性格』(1938年)の当時的評価は今日中々掬くし難いものであるが、ただ、続く彼のキャリアを考える上で、これがステッピング・ストーンになった事は明らかだ。

 所で、これによって彼が占めた地位は、批評家・思想家なのか、それとも作家・芸術家なのか、については今日、前者が専ら採用されるであろうが、筆者としては後者を推したいものである。

 「性格」という言葉が使われていることにも注意したいが、ここではそれを喚起するにとどめる。

 果たして彼が如何にかして掬い取ろうとした、曰く伝統であるとか常識というものは、科学的な装いで欺瞞しようとしても困難な、情緒的な色を多分に有しており、その情緒の産物である諸々は、彼が努めて距離を置こうと試みたロマンチシズムに他ならないのではないか、と思われるからである。ただ、例えロマンス・夢幻といえども、”分別ある大人”が嗜む分には、実際的な仕事に他ならなかったのだろう。

 

 本稿筆者は、何となれば、『日本的性格』は彼の日本という他者の理解の終着点であり、以降の活動は此処で得た世界観・そこで生きる人間像に基づく思索が主となったーーというのが(性急ではあるが)、ひとまずの理解としている。そして、本書執筆と相前後して衰微した小説や戯曲などの文芸作品の執筆から、この時期を彼の変化期として目している。 

 如是閑の文芸作品は、彼自身の創作姿勢によって中々評価が難しいものであるが、今此処で仮に示したいのは、彼自身が内省と其の表現手段として小説や戯曲などを選択する事に躊躇っていた事が窺えるーーという点である。

 度々、彼自身が言及する所ではあるが、彼自身の自己評価は、取るに足らない、語るところの少ない、「歴史に乏しい生涯」というものである。「歴史に乏しい生涯」という言葉は、文化勲章文化功労者の受賞後のインタビューでの発言であるから謙遜もあるだろうが、就中注意したいのは、此処で述べられている「歴史」という語の重みである。

 中村吉治(1905-1986)が東京帝国大学在学時に卒論指導を仰いだ平泉澄(1895-1984)から『豚に歴史はありますか?』と畳みかけられたのが1920年代の後半であり、かつ世代的には二つ程上ではあるが、平泉に近い如是閑が「歴史」と言った時に、それが今日の意味合いとは異なるものであろう事は留保されるべきであろう。

 歴史に乏しい「溝のボウフラ」(『ある心の自叙伝』1950年)という劣等感が彼にあったと考えられる事は、既に指摘されている所ではあるが(『大衆社会化と知識人: 長谷川如是閑とその時代』古川江里子、2004)、それは青年期の不遇の時期にとどまらず、寧ろ、そこから継続して終生影を落とし続けたものであろう。

 それが民間人としては恐らく今日でも最高の栄誉である文化勲章文化功労者の授与を以ってしてもーー否、その栄誉が授けられれば愈々以て自覚せられたものであるまいか――? 稍ヒロイックな推測であるが、彼の意識は異なる階級との交通の中での居心地の悪さに加えて、彼自身の世間(社会)における居心地の悪さの板挟みの中で、所在ない境遇にあったと考えられるものである。今ならネットがそういう寄る辺のない人間の受け皿になるのであろうが、如是閑若かりし頃は、果たして新聞や雑誌がその機能を有していたのであろう。

 

 さて、話は変わるが、毎年11月3日・文化の日親授式が行われる文化勲章の授章者であるが、生前授与される栄典であるだけに、授章者が物故した後には、彼らの事績は文化の日に託けて回顧されることは少ないのではないのだろうか。実際、個(故)人の功績を顧みるのには他に、誕生日や命日というよりパーソナルな日が存在するので、余計に態々縁が付きづらいのであろうが、筆者は偶々、自由研究の対象としている人物が受賞している所為で、文化の日が近づくと「そういえば……」という風に思い出したものである。

 そんな風にして、文化勲章自体が顧みられる事は、受章者が受章者だという理由で顧みられる事よりも稀であろう。

 だが、一方で「文化芸術の秋」という刷り込み教育が功を奏した事を実感する身としては、何となれば、そんな制度自体に無関心でいられる自分の楽天的無意識的態度自体が、蓋し制度設計者たちの思惑通りであろう――という風にも考えられて、如何にも妙な気分にもなったりする。とはいえ、それも長続きするような代物ではない。自分は単に、このシーズンの空気と、同時に其れに合わせて行われる祝祭の雰囲気に酔い痴れ、楽しんでいるのだ。

 その分別が出来ている限りに於いて、例え見境のない人間が故無く何かを祝おうとしても、それに自意識過剰な反応をしないでは済むのである――が、然し、そんな縁故もない人間の見境のない祝祭というものを見て、何をか寂寞の情を抱く自身の性質に気付かされる季節というのが、この秋という期間である。

 蓋し、如是閑の文芸作品に通底するのは、この自意識過剰に因んださびしさやら悲しさとどう向き合おうか、というテーマである。その点で彼は、漱石とも並び得る水準にあると言えようものであるが、彼が文豪足り得なかったのは、そのさびしさやら悲しさを、乗り越えられもしなかったが、かと言って、それで大怪我もしなかった点にあるものだろう。

 確かにしょっちゅう足を取られてはいたが、それで彼は死にはしなかったのである。死にそうな程の精神的煩悶を彼は相当気遣って回避し続けたのである。飄々とするのに全力を尽くした――というのが、果たして彼の処世であろう。態々煩悶を背負わずとも、彼は十分に心身共に逼迫していたし、生活者として常に危機感を抱いていたのである。病弱であったにも拘わらず、長生きしたのも結果としては偶然だったのかもしれないが、常頃の配慮が相当に功を奏したとは十分考えられるものである。

 その意味で、彼は文学者になる余裕はなかったものと言えるかもしれない。ただ、生き様それ自体が一個の文学である、と評する事は中らずと雖も遠からず――ではないだろうか。それこそ、生活の中で作り出される諸々に重きを置いた彼自身の態度ではないが、それが彼の自己肯定であったにせよ、それが特に戦後に於いて一時期評価されたのではないか――と筆者には考えられるものである。数多世に出回っている自己啓発本の例に同じく、他人が参照して役立てられる事稀なものであるには違いないが、彼の著作を読む上では此の事は幾らか役立つ知識であるとは思われる。

 結局、反骨のジャーナリストは文芸作品に於いて、真にツッパってみせたのである。そして、それが如何、評価されたかというと、今日既に明らかである。

 

 最後に、精神を危機にさらさない老獪さを若い頃から修練して身に着けた如是閑「叟」に学ぶところがあるとするなら、何よりその賢明さにあるだろう。だが、これをあんまり強調しすぎると筆者の「性格」に悪印象が生じるだろうから、これくらいにしておく。

 勿論、そんな処世術が学び得る代物かどうかも怪しいのだが、ノーベル賞受賞者が何はさておき偉人扱いされ、手本とさるるのを良しとするのであるならば、彼をその人柄的な点で評価しようとするのは通俗的には良しとし得るものだろう。

 

(2020/11/03)