カオスの弁当

中山研究所blog

回数券雑景

2020/10/24

 Mのドリンク回数券、6枚綴り今日使い切る。最後に飲めるコーヒー、やけに上手く感じる。白き泡浮かぶ。口当たり良し。

 先日都内散策中に足の裏傷める。翌日、翌々日も痛むが、日中ずっと机に向かっているばかりなら、痛むのにも気付かず。立ち上がり、コーヒー淹れたり用を足そうとすれば気になるなり。散歩は三日ぶりか。図書館に寄り、本貸借。

 往来雑踏繁盛を見せる。五時前だが、店が早く閉まるのでこの時間が最も混雑する様子。

 時々路肩に立ち止まり、建物や電柱の写真を撮る。余所見する間、暫時コミュニケーションから離脱する。何枚か撮影して復帰する時、無性に人心地して妙に感動する。

 本屋に入る。今更、一番売れる場所に漫画が一番多く犇いていることに気がつく。最早メインは漫画也。旧時代の遺物が避けては、店の隅に追いやられて悲しいのも自業自得と反省する。大人しく一冊買って帰る。『風太郎不戦日記』。

 古本屋にも行く。通りから、びっこ曳きながら行く所為か、店の中が通りの延長線上に感じられる。屋内というよりかは、地下鉄の通路や駅の附属施設の中のような印象。出入り口が開け放たれているから余計にそう感じやすいのか。

 普段よりかゆっくり歩くより仕方ないから、其の所為で何だか異時空間に入り込んだような心地がする。タイムスリップした気分だ。

 歩幅が狭まり、せかせか歩くから子供の頃に戻ったような、或いは老人になった風でもある。兎も角、速度の違いは住む世界の違いでもある。そういえば、足の方ばかり気にする所為か、今日は図書館で子供に追突された。自分もしゃがんで棚の下の本を見ていたのだが、子供はカートを押していて前が見えていなかった。五才かそこらか、カートよりも背が小さいのだから、親も子供の方ばかり見ていたのだろう。自分も本ばかり見ていた。勿論、館内に交通整理員なんていやしない。

 幸い、満帆のリュックサックを背負っていたからダメージはまるで無し。双方に取ってこれが最大の利益也。

 Mに入る。老人が頑張って「フィッシュ」と発音しているのを小耳に挟む。いつか自分も難儀な日本語を話すに違いない、と感じる。それが少し楽しみでならない。

 揚げ物の香りを嗅いでいると、高幡不動に行きたくなる。大学時代、時々行った所為もあろうが、丁度今時分の不動尊を観に行くのが一番好みである。

 今年は灯篭祭りも紅葉のライトアップもないのであろうが、一人で行く分にはいつでも行っていい気がする。どうせ閑暇な身である。

 足を痛めたので単発の仕事にも入れなくなり不安はあるが、通りを歩いているとそれも忘れてしまう。回数券がなくなったのは痛手だが、それも左程煩いではない。使い切れた、という満足感が僅かに勝る。

 余り使う客が少ないものだから、特に新人の店員が戸惑うものが回数券だ。切符とかチケットというのは配る方は気楽かも知れないが、使う方はやけに気遣うものなのだ。

 然し、これは飽くまで切手である。にも拘らず相手の方は余りそうとは思っていないようだから困るのだ。自分は切手とサービス、両方買っている訳なのだが。

 古本屋に本を持っていこうかな、とも考えるも、いざ頭の中でピックアップしてみると何れも惜しくなってダメだった。馴染みの古本屋がなくなって、こういう時に頼れる相談相手がいないのは誠に心細い。

 その所為か、何処にいても屋外に居て憩いているような感じがする。居心地が悪い訳じゃないチグハグな印象であら。殊に店にいては、歓待されるので更にである。どうせならシュラフでも持ち歩こうか、という気分になる。

 「勝田文」氏は「かつた・ぶん」氏である由。以前、永井荷風を「にふう」と読んでいたのを思い出す。著者名を音読みするのは何か懐かしい感じがする。

 そういえば、以前本名を音読みされた、こそばゆい事があった。名札のふりがなにそのまま刷られていたので記念に持って帰った。其れも居室の何処かに潜んでいる事だろうが、何処だったか。

 道端に起伏ししている感じが不精を興進させる。良くない事だが、そういう性分なのだ。故に現金は持ち合わせず、切手や回数券に交換してしまう。融通出来る形で手許に置いておく事に不安を感じるのだ。

 何か大切なものというものは持てば不安になる。就中、我が身もそうである。ならば大切にしなければ不安は、単に動物的な極即物的なものしかなくなる訳である。勿論、其れは貧しさと表裏一体だ。

 価値あるものを直に地面に転がしておく訳にはいかない。小銭一つとってもそうなのである。自分が知る地面は全てストリート許りだから余計に、だ。そうではない土地は、誰かの家屋敷の敷地であり、駐車場である。価値あるものが其処に保管されている場所だ。

 兎角、置き場所のない代物には値打ちがないーーというのが、都市圏の価値観だ。これは存外一般には意識されてはいないが、無意識的に共有されている価値観だ。却っていえば、価値あるものは置き場所が与えられる。其の置き場所の値段というのが、保管されるものの値打ちを反映していたりもする。そして、都市においては如何に価値あるものでも、其の場所に留まり続ける事は更に難しい。ものを引っ切り無しに移し替えるーー畢竟、都市における仕事というのはコレが全てだ。

 その仕事の為の場所が都市である。だから、本当には自分のようなのが最も、都市生活者としてあるべき姿を見せているのかも知れない。誇るべきか、否かーー。然し、この見窄らしさは如何にも頂けない。貧しさや侘しさは、古刹の境内の紅葉も物悲しく見せる。

 物悲しさは畢竟、都会の辺縁にあって、ただ用もなく生きて其処らを彷徨いている事に因むのだろう。他の交通者は皆、用があって此処に来ているのだ。自分は何ら目的なく街路を彷徨っている。それが目的とも言えない。だから、他人の悲喜交交を見るにつけて、自分の所在なさを自覚させられて居た堪れなくなるのである。

 店先にも路傍にも、皆用があって其処にいて、更にいえば其の用事というのは些末なものであって、その上にはもっと大きな目的があって動いている。車で道路を走るのは道路を走る為ではない。だが、歩行者は道路にしか居られないのだ。落ち着かずにブラついて、疲れ切った時点でバッタリ倒れて、其処に暫く止まるのだ。

 楽しくて其処にいるのではない。然し、其処にいて楽しいのも事実だ。其処から脱け出せないのだーー否、脱出方法は承知しているのだが、如何にも其れが消極的なので、余計に気後れしているのだ。

 回数券は、財布の中のその他のカードと同じように、所在ない人間の履歴を示す手形である。其処には住所なんて記されたものは入ってなくて、其奴がいつ、どこで恐らくは何をしていた、という事を仄めかす記録がパンパンに詰め込まれている。

 其れが捨てられてないのは、其の財布が自分の所在を示す唯一のものだと、意識下ではっきりと分かっているからだ。これをすっかり掃き出してしまった後に残るのは、定住者としての持ち物は何もない一個の人間だけなのである。其の事実に尚一層、居た堪れず、レシート集めに文字通り奔走しても、人間の構造がただ一本の管に還元される以上は、無駄な骨折りである。

 軽佻浮薄な人間の悲しさは何処か電線や電柱に引っ掛かりはしていないかーーとか、ファンタジックな修辞を自分は好む訳だが、マタサブローなり、カンタローなり、そんな奴らは定住者の前にしか現れないと決まっている。幽霊が見たいと思った人間の前に現れる事は極稀だ。

 そういう何か、自分と似たようなものを探す時、この手の輩は、野良猫や烏に友達になって貰おうとする訳だが、これは全く相手が定住者である事を見て見ぬ振りをした愚挙である。彼等は立派に生活者である。さもなくば生きては居られまい。

 甘んじて、諸々の事共に感傷し耽溺し、一喜一憂する、其の性を引き受ける覚悟が固まるまでは、路上をぐるぐる回遊するのも仕方あるまいーーと、自分に言い聞かせるのも、良い加減にしなければなるまい。

 ……そんな観念的な言葉を並べ立てていたら、コーヒーとゲートル、というモチーフが二つ並んで降ってきた。

 何だと考えて、「何方も、ぐるぐる回るもの」というしょうもないオチが浮かんだ。自分でもクダを巻き過ぎた自覚が浮かんだのだろう。

 マスクしていると息も思念も如何にも内向して仕方ない。

 二杯目のコーヒーはSuicaで支払った。お代わりは百円なのだ。随分、得した。

 

(了)