カオスの弁当

中山研究所blog

22世紀外観

 タラップから降りた人間は、単なる人間である。馬の上の人間は単なる馬の上の人間に過ぎず、それがどんなものかという経緯については、さして誰も関心がない。

 概して人間という奴の関心が行く場所は決まっていて、やれ鼻の高さはどうだった、だの、目の色は何色だったか、だの、そんな事ばかりが気になって仕方がないのである。

 故にか、そういう人目につきそうな部分を装飾する事で人間は自身を、他人にあれこれコントロールされないように防御する訳だが、それが結局、お呪いとそう変わらないのは、有志以来ヒトはヒトのまんまだからであると言えよう。これが人間が蜘蛛の糸を吐き出すようになるようになったとかすれば話は別だが、精々が所、生身の人間が出来る事とするならば、煙を吸い込んで吐き出すとか、其の程度の事でしかない。

 牙の代わりにタバコを加え、目の色を隠す為にサングラスを掛けてみたりーーと、あの手この手で人は外敵を寄せ付けないようにするものだが、其れは誠に動物としての習性であり、これが重要な限りに於いて人間は、バーチャル空間に受肉したとしても、ヒトであり続けるだろう。

 ヒゲもマスクもカツラもファンデーションも、所詮はそんなお呪いである。かつて装いが、それぞれ呪術的な意味合いを帯びていたのが、今更何か変わった訳では全くないのだ。

 寧ろ、前世紀から続く「科学」は、これらお守りのご加護を徹底的に肯定して、其の効用を制約から解放したのである。特定の信仰、即ち物語からアイテムを他所に持ち出せるよう、融通の効く形へ改造したのである。

 それでも、結局、流通させるーーという段にあっては、従来通りの手法で、即ち、お守り・お呪いに再び作り替える必要があるのは、何故かと言えば、それがヒトにとって至極、受け止め易いからだろう。況や、其れは使用に際して、「所詮、お呪いであるから」「作り事であるから」という、心から其のお呪いの効き目を信じていないから、何かあっても自分は関係ないーーと、安心出来るからである。此の無信心の効能は、裏返せば、信心への信頼の未だ厚い事の証左である。

 思うに、日々の労働でゴリゴリと摩耗していった精神が行き着く先に、果たして、此処200年ばかり、一部の人間が願った「解放された精神の世界」があるのではないか。

 即ち、それはただ外部からの刺激に機械的に作動し続ける呪動的機関の産物であって、そこでトランス状態に陥った人間は、今日の様な気の滅入る生活からは隔絶される筈である。

 既にして明らかなように、労働は肉体から精神を自由にする有効な手立てである。其の最中で、解離した肉体と精神の一方が、或いは其々が破綻するかも知れないが、果たして其れは未だ其の心霊技術が未熟な故に起こる事であって、今世紀中には肉体は精神と永久に分離する事が可能となるであろう筈である。そして、其れは前世紀からの継続して今世紀に至り、今後益々発展していくであろうお呪いの科学によって実現される事と考えられるものである。

 今でこそ、果たして其れは恐怖として語られようものであるが、いづれは現在も、今日の中世“暗黒時代”同様に、否定的に語られる時が来るに違いない。……とはいえ、其れは寧ろ、資料がポッカリと抜け落ちた、或いは尽く黒く塗り潰された、という意味に於いての暗黒時代かも知れないが、兎も角、人間は、己が幸福になる為に、各時代各時代に於いて最善を尽くそうとする生き物である。其の結果として、大抵の場合、開始時点からすれば頽落としか思えないような状況に進んだとしても、其れは紛う事無き適応の一形態なのである。

 斯くして筆者は人類史に於いて、22世紀は今世紀同様に光輝に満ち溢れているものと考える。

 

(2020/09/01)