カオスの弁当

中山研究所blog

カント時計の謎

 カントの規則正しい散歩についての逸話は恐らく創作だろうが、彼自身の散歩の習慣については、実に最もらしく思われる。

 ただ、その散歩をしていた時期がいつなのかは甚だ怪しいが、これは創作者の爪の甘さ、設定の不確かさに由来するものだろう。

 鬱屈とした気分を晴らすのに、散歩はうってつけだという事は、今日世人も知る所である。果たして、名うての学者の散歩は、彼の業績よりかは幾分も理解されるものであろうが、果たして、彼の正確な散歩というのはどのようにして可能かについては、一考の余地がある。

 この逸話は、カントが暮らしたケーニヒスベルクの人々は、散歩する彼の姿を家の中から見て、時計を合わせていたーーというものである。これと似たような物語には、日本の鉄道の時間の正確さを讃えるもので、その話ではカントに代わってホームに到着する列車が登場する。

 所で、後者のエピソードは鉄道会社のサービスを称賛するものである。だが前者の哲学者の散歩ついては、彼の散歩は市民へのサービスではない。然しながら、その正味な部分では、このエピソードは、そこに登場する市民にとって、この哲学者と彼の業績がどのように映っていたのかについて、些か辛辣に示唆していると考えられる。

 市民への貢献という評価に立てば、カントの仕事は散歩をして時間を報せる程度のものだった。

 当時の時計の性能や、それに付随する現在との時間に対する正確さへの要請を考慮したにせよ、果たしてそれは然程役に立っていたとは思われない。というのも、ケーニヒスベルク位の都市には時鐘はあったと考えるのが妥当だからである。

 当然ながら、彼の散歩というのも又、彼の時計同様に教会の鐘によって調整されていたに違いないのであるが、そうした背景を踏まえて、彼の市内の規則正しい散歩についてのエピソードを改めて読むと、そこには更に辛辣な皮肉が込められているように読める。

 「ケーニヒスベルク」という名前からして、それは暗示的なのだが、彼はそんな『王の山』の中でカラクリ時計の人形の如く、散歩していたに過ぎなかったーーというのが、即ち明らかになるのである。又、それは彼の思想信条、性格とも矛盾するものではないから、ますますを以って、シニカルである。とはいえ、カント自身も大概シニカルであり、又、講義も中々にそうした趣であったという。

 

 散歩するカントの逸話は、カントに対する皮肉が読み取れると同時に、彼の暮らしたケーニヒスベルクの住人の「お国自慢」も垣間見れるだろう。

 荘厳な教会やその鐘の音は屡々、その都市民にとっての誇りと成り得るが、それに準ずる、もとい、従属するカント教授はケーニヒスベルクという都市のシンボルとして機能していた事が、逸話からは見えて来るものである。

 容易に想像出来ようが、このエピソードは、他所に出掛けた当地の出身者が、世界的に名高い学者の出身地である故郷と、そこの生まれである自信を誇るのに持って来いの逸話なのだ。カントの哲学は難解で説明出来なくとも、彼の性格の一端を自分や自分の先祖は垣間見たのだーーという自負心が、話者の中で捏造される。

 劣等感を背景にしたこの手の自慢話への批判は、内容に関する批判もすぐさま、物語の伝承者達によって、その舞台となった場所への批判へとすぐさま擦り替えられるものだが、それはこうした訳である。

 

 さて、改めてカントに注目すると、物語に出て来る彼の内には、そんな市民の劣等感が看取されるものである。几帳面な性格は一面で排他性を帯びて、彼を余人の近寄り難い学者として、世間から隔離してしまっている。又、そのキャラクターには、後年、彼を崇拝した無数の人々の鬱憤も反映されていると見て間違い無いだろう。

 史実に於いて、カントは相当に社交家であったという。馬具職人の家に生まれた彼が、単に其の頭脳の優秀さから引き立てられたーーと考えたがるのは、彼の追蹤者を(本人は秘かに、と思い込んでいようが、果たして外目からは明白に)自認する人達の境遇がそう仕向けるのであろうが、生憎と運と知能ばかりでは如何にもならないのが、古今東西、世間である。

 カントの人となりについては、残された資料から見るにつけて、変わり者に相応しい容貌であった事も分かっている。それも又、彼を「名物」にするに貢献したのだろうが、兎も角、今日彼の名はその物語を表すものであって、彼自身を語るものでは殆どない。それも又、世の常であろう。

 

 所で、筆者はそんな彼に因んだ時計のアイデアを持っている。それは、決まった時間に、決まったルートを規則正しく巡回する、人間をムーブメントとした時計である。

 その姿を見て、近隣住民は時計を合わせる訳だが、それは道路から観測者の目までは光の速さで届く訳だから、時報を聴くよりも正確であろう。

 大体、そんな暇そうな人間は町内に一人くらい居るものだから、其奴に散歩序でにフロックコートと帽子とステッキを持たせて歩かせてやれば、十分本人も満足するに違いなかろう。

 其の肩の上には、カントの幽霊が下りているかも知れないが、所詮其れは空想の産物に過ぎないので、安心して構わない。オリジナルの霊魂(そんなものがあるかはさておき)は、遠い異国の地の底か、深宇宙の辺縁に眠っている事だろう。 

 

 ーーさて、こんな風にして、筆者は得意げに書いてしまった所で、はたと既にしてそんな事を黙々としているかも知れない人達の居るかも知れない事について、気が付いてしまった。

 然しながら、そんな事は何か心配するような事では一切無い事にも直ちに思い至った次第である。というのも、誰も他人の頭の中の事なんぞ、関心の無い事だからである。窓の内からも外からも、カーテンの向こう側の事なんぞに気を揉むような精神状態というのは、其れこそ、散歩でもして改善した方が、余程現実的に健康的であるというものだからである。

 

(2020/09/01)