カオスの弁当

中山研究所blog

ノスタルジックになるまで/日本アニメ電線・電柱考

 

はじめに:

 コミュニケーションの道具というのは、人やモノの交通を援けると同時に、妨げるものでもある。「電話」もその一つである。もっと言えば、言葉それ自体もそうである。

 また、交通はそれが直接的であればあるほど、その暴力性を露わにしていく。時空間的に同期していればしている程に、交通は直接で乱暴なのである。

 

 電線とそれに付随する電柱――これは、コミュニケーションを支持する構造体としてそれらを見た場合の主従関係である――は、加えて電力というエネルギーを供給する設備としてのもう一つの顔を持つ。そのパワフルな印象が、狂気じみた交通の暴力性と二重写しになる事で、アニメに出て来る電線と電柱は時に恐ろしい外部・他者の表象として立ち振る舞うようにもなる。

 

 電力と電信(電気通信)が及ぼした影響は「世界改変」と呼んでも構わないもので、その影響と変化はエネルギーや技術を以って人間が人間に対して齎したものである。従って、電線と電柱は人対人の緊張関係のシンボルとして登場する。ただ、その緊張関係は、必ずしもネガティブなものとして扱われる許りではない。

 其の場合、詰まり緊張関係がポジティブに描かれる場合に於いて選ばれるモチーフは、人やモノといった有形物を運ぶのであれば鉄道や自動車などが、声や映像といった無形物――もとい情報それ自体であれば電線と電柱が選ばれる。とはいえ、後述するように、電線と電柱が担っていた電話のシンボルとしての機能は、今では時代がかったものになっている上に、飽く迄、音声や画像といった信号は電話機やモニターで漸く、確認出来るものであるから、それら末端の装置ほど”ライン”は「映える」ものではない。

 何処までも、それ等は物語の辺縁にある脇役である。

 

1:同期について

 同期の恐ろしさを描くもの――と言えば、就中、幽霊やストーカーの登場するホラー作品である。その場には自分しかいない筈の私的時空間に於いて、何処からか侵入してきた何ものかがそこで何かしている事を示す描写の凡例は様々であるが、室内で勝手に点滅する「電気」は、映像作品では”お約束の描写”だろう。

 所で、意外とアニメで立ち回りの少ないモチーフに水道(上水道)がある。ホラー映画では、締めた筈の蛇口から勝手に水が迸る等の現象が他者の存在を仄めかしたりするが、それは扨おき、筆者自身特に意識して観て来た訳ではないので見落としていたりするのであろうが、特に「水道の水」は、電気・ガスと並んで今日の日常生活を描く上で欠かせない。これについては、又別の機会に筆を割きたいものである。

 閑話休題

 専ら、日本のアニメ作品に登場する電線と電柱の意味づけについては、前回紹介した、物語に無関係な道化的なオブジェとしてよりも、情報化社会に生きる人間を取り巻く交通環境を象徴するオブジェの一つとして『エヴァ』や『lain』といった具体的な作品の名前と共に紹介される。自己の意識(私的な時空間)に侵入して来る他者の脅威を描いた作品の例には『パーフェクト・ブルー』や『パプリカ』もあるが、殊、電線と電柱というモチーフと縁が深いものを挙げると矢張り前二者という事になる。

 

2:ある時代の名残として

 特に通信手段としての電話、ポケベル、ケータイ、インターネットの準・象徴としての電線については、それ等が使用された種々の事件や社会問題の記憶も、アニメ作品の中に反映させる為のゲートとなった。作品内で同時代の象徴として電線と電柱が登場するに及んで、それ等は後世に於いては当時の社会の価値観を垣間見る指標にもなっている。

 2017年のGigazineの記事にコメントを寄せていたスタインバーグの指摘は、90年代のテレビアニメに登場した電柱を、公衆電話や玄関口、鉄道の踏切などと並んで、当時の日本の日常生活に登場するオブジェの一つとして数えている。とりもなおさず、そのオブジェは皆、交通の道具であり、電話は言うまでもないが、玄関口には恐らく郵便受けや新聞受けが、表札と共に置かれているのであろうし、何ならガスや電気のメーターもその直ぐ脇に設置されている。集合住宅なら、玄関は連絡通路で接続されている。都市では極端化されているが、それは郊外でも事情は変わらない。

 例えば、郵便受けからは桁を増やしていく郵便番号と、それに伴う情報の増大と、この背景となった大規模な開発の記憶の残滓が読み取れる。情報の洪水は、温暖化に伴う海面上昇よりも遥か以前に、既に玄関先まで昂進していた訳であるが、それが脅威と見做される一方で、それは当時の豊かさの象徴として描かれていたであろう事は見て見ぬ振りをされるべきではないだろう。

 煩瑣な画面は、それ自体が魅力だった訳である。それ等は混沌としているように見えて、実際は並一通りではないアルチザンの技量で以って理路整然とした迷宮として構成された映像であった訳で、90年代の視聴者は喜んで迎え入れたのである。

 

3:ノスタルジックな電線と電柱へのシフト

 衒学的で香具師的なエンターテインメントとして色彩を基調としながらも、丹念な観察に基づく描写や、種々の専門知識やそれらを活用する都市論や文化史といった知識を活用した作品が20世紀末に傑出した事で、続く21世紀の作品はその手法を謂わば所与のものとして活用する事が出来るようになった、と筆者は考えるものである。

 2000年代に於いては、一例として道路標識や鉄道の表象が90年代の電線と電柱のニッチを埋めていった――と断言するのは勇み足だろうが、例えば交通のシンボルとしての電線と電柱が、そのニッチを占拠し続ける事が通信技術の進捗に応じて難しくなると、それに代わるシンボルと、それ等が適切に置き換えられたと筆者は考えるものである。そして、同時代的表象として捉えられて来た電線と電柱を制約から解放して、それ自体を道具として用いる工夫が生産者の中でなされるようになってきている――というのが近々の所見である。

 それが、昨今謂われる「ノスタルジーを喚起するもの」としての性質を電線・電柱が帯びるようになった事情であると考えられるものである。それは時代の趨勢に伴う帰結ではあるものの、その変化は勝手に起こったものではなく、相当に人為的なものであろう。

 

 

(続く、2020/10/20)