カオスの弁当

中山研究所blog

新書横断① 「新書」と「ペンギン」の謎

 唐突だが、これから散発的に趣味についての記事をこのブログで書いていこうと思う。

 別に構えて書く必要もないのだけれども、体裁を気にするのが、多年患っている著者の悪い癖である。

 前置きはさて置き、その趣味とは「古い新書集め」である。別に新刊を全く買わないかといえばそうではないのだが、刊行から14、5年以上経った新書をここでは「古い新書」と呼ぶことにしたい。

 

 「新書」とは、アレコレ辞書を手繰ればーーと言っても、これは飽くまで修辞的表現に過ぎないーー“新書版の叢書”という意味であるらしい。「新書」の語は、日本国内ではこの“新書版の叢書”の草分けである『岩波新書』がそう銘打って世に出たのに因むそうだ。

 すると「岩波新書」の名前の由来にも当たらないと、何故、新書(及び新書版)が「新書(版)」といわれる理由は明らかにならない……。

 

 そんな新書に纏わるミステリーには、今一つ有名なものとして、『ペンギンブックス』のペンギンの由来が挙げられる。

 言わずと知れた、“新書”の元祖(とされる)イギリスの老舗レーベル『ペンギンブックス』のロゴマークは飛べない鳥の代名詞・ペンギンである。

 他にも「ペリカン」や「パフィン」といった鳥類の名を冠したシリーズが同版元から出ていたようだが、今日いまだに名指しされるのは「ペンギン」ばかりである。

 謎ーーというのは、そのペンギンの「意味」である。

 ロゴマークになるくらいだからそれなりの謂れがあるはずだろうに、筆者の調べ方が如何にもいけないから、日本語の記事では「誰が描いたか」という条は見つけられても、「何故、ペンギンなのか」という謂れについて言及した部分は見当たらなかった。

 

 そこでアプローチをかえて、ペンギンがヨーロッパでどの様な図像的意味合いを持つか調べてみたら、『ペンギンは歴史にもクチバシをはさむ』(上田一生・著、2006年、岩波書店)という本に辿り着いた。

 生憎、同書は近隣の図書館にも見当たらず筆者は未読なので、得られた情報は同出版社のHPに掲載されている書籍情報の範囲に限られている。

 曰く、ペンギンは大航海時代以前から、「未知の海域」「白い大陸」、「未知の南方大陸」を象徴する生きものとして扱われて来たのだという。そこから思量するに、ペンギンブックスにペンギンが採り立てられた理由に、来る読者層にとり未知の領域が目前に展開される事を示すシンボルとしてペンギンが好都合だったからだろうーーというストーリーが割合容易に脳裏に浮かぶものである。

ペンギンは歴史にもクチバシをはさむ - 岩波書店

 

(なお、同書の著者・上田氏による新書『ペンギンの世界』がある〔本稿執筆時点で記者は未読である〕。)

ペンギンの世界 - 岩波書店

 

 折角なので、「新書」と「ペンギン」というキーワードに託けて、何冊か手元の新書を紹介したい。

 そのものズバリ、ペンギンについて書かれた新書は前掲・上田氏の著作(『ペンギンの世界』2001年、岩波新書)がある事は、本記事の執筆するに際して知ったので、ここでは恐れながら割愛する。飽くまで己の趣味について記すのであるならばーーと思うので、本稿執筆に際しては執筆時点で既に記者が入手し、その書架に収蔵した新書について言及するのを基本としたい。

 

 ペンギンといえば日本では概ね、野鳥というよりかは水族館のマスコットである。そんな水族館の歴史について、より身近な日本の水族館の発展や試みについて多くページを割いた一冊が、堀由紀子・著『水族館のはなし』(1998年、岩波新書)である。

 水族館で飼育されるイルカのトレーニングの様子を図解したページ(p.128-129)の挿絵は、“ゆるい”イルカの絵がチャーミングである。

水族館のはなし - 岩波書店

 

 お次は、クレヨン画で描かれた表紙絵が可愛らしい『探検と冒険の物語』(松島駿二郎・著、2010年、岩波ジュニア新書。表紙画・もろはら じろう) である。因みに、岩波ジュニア新書の英語名は“IWANAMI JUNIOR PAPERBACKS”である。

 探険と冒険の物語

未知の土地,人間,動植物を見てみたい!

そんな好奇心や欲望が人を探険や冒険に駆りたてた。熱帯の観察から進化概念を見つけたダーウィンやウォレス,新大陸や太平洋の島々を世界史の舞台に登場させた

マゼランやクック,極限の自然に挑んだアムンゼンやスコット。彼らの物語は,私たちの心を熱くかきたててくれる。

 裏表紙の文言は上の通りである。本が出た時代的にも大分大仰な、時代劇のオープニングの前口上の様な感すらある謳い文句である。それに相応しく、本文もやや勿体ぶった「読本」風の書き振りである。

 又、表紙にも描かれている事から明らかな様に、本書が示す新大陸や太平洋への探検や冒険のシンボルはシロクマであり、ペンギンではない。

 深読みするなら、これは新大陸や太平洋、北極圏の自然の荒々しさ・崇高さのシンボルとして採用されたとも読めるものだ。更にそこに、シンボルとしてのペンギンからも見て取れる、ヨーロッパ世界の眼差しに対する批判が含まれているかも知れない。ーーこう、あれこれ妄想するのも果たしてこの趣味の範疇であろう。

 

 ーーと、ここまで「新書」と「ペンギン」に託けて紹介した2冊であるが、お察しの通り(?)、本の中ではペンギンについて余り触れられていない。『探検と冒険の物語』に至っては最早、別の動物がシンボルである。

 だが、探せば矢張りあるものでーーいや、“あった”もので、先日友人に分けた本の中に入れてしまった新書が、正にペンギンを表紙にした一冊であったのを思い出した。

 岩波ジュニア新書『骨と骨組みのはなし』(神谷敏郎・著、2001年)である。

 本の内容がこれほど判明な表紙も珍しい、と思われる新書の一冊である。

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 (書影/Amazonより)

https://amzn.asia/d/94LuVdL

 ……お分かりいただけるだろうか。

骨と骨組みのはなし - 岩波書店

 動物の体に備わった骨が果たす役割を解説する本書のキービジュアルとして採用されたのが、ご覧の通り、ペンギンの写真2葉である。

 生きている内の姿と死後の姿を隣合わせに配置するのは、ヨーロッパの伝統的解剖図譜の構成に則ったものであり、そこには当然、“メメント・モリ”(死を思え)の寓意・教訓が含有されているものであろう。だが、そんな絵解きや読解は抜きにして、この2葉の写真の対比は即座にその妙趣を得るのに苦労するくらいのインパクトがある。

 というのは、ペンギンが実はこんな骨格をしているとは、そのシルエットからはなかなか想像し難いからである。概して、鳥類はその羽毛によって姿形を「欺いている」節がある。

 中でもペンギンは、フクロウやミミズクの類と並んで意想外の骨格をしている。

 

 故にか、この「ペンギンのガイコツ」は自然科学系の、特に生物の進化について触れる本では度々掲載される有名な事例である様だ。

 その一例として、講談社ブルーバックス『死なないやつら 極限から考える「生命とは何か」』(長沼毅・著、2013年)は、 第3章「進化とは何か」において「なぜペンギンは凍死しないのか」と題して極寒の地に生きるこの鳥類の環境への適応ぶりを、全身骨格の画像と共に紹介している。

 極寒の環境をヨチヨチ闊歩するペンギン達が如何して「裸足」でも平気なのかーーという設問に始まり、『骨と骨組みのはなし』でも紹介された、驚くべきペンギンの全身骨格写真を示して、その理由(“進化”〔近年では、「適応」という語が使われるようになって来ている〕の過程で獲得した耐寒システム)を解説する条は、蓋し、ペンギンという生き物が大変に有名である証左でもあるだろう。

 

『死なないやつら』(長沼 毅):ブルーバックス|講談社BOOK倶楽部

 

 

 以上、ここまで紹介した本に掲載されている情報や内容、文体等については、最初に断った通り、刊行から十数年以上が経過している本ばかりを選んでいる関係から、2020年代の今日にあっては読んでみて眉を顰める人があるかも知れない。けれども、時流とは目まぐるしく転変するものである事を踏まえて、紹介者として記者からは悪しからずご容赦願いたいところである。

 勿論、本音としては、その「ギャップ」に直面する時こそ、「古新書」を読む醍醐味だと思う次第である。が、こればかりは人の好き嫌いの問題であるから致し方ない。

 とはいえ、一個余計なことを付け加えるとしたらば、古い新書をわざわざ読む事について、テーマも着眼点も情報も古いばかりで読むべきものなんかありはしないーーと思っている人が世間にはあるかもしれないが、記者はそれを通じて得られるところの、自分の周囲にはまず見られない「未知の領域」への端緒を得て嬉々とする者である。異なる時代・トレンドの中で編まれた新書の中にこそ、それら“並行世界”への入り口が隠れていたりするものなのだーーと期待している者である。

 但し、それらは飽くまで「端緒」であり、大洋の向こうに見える陸地の影の如く朧げである。だが、当て所なく太洋を進む船人の如く読者にとって、世界が今ここにある板一枚のみではない事を覚るには充分である。その一事がどの様に受け止められるかは、全く読者各人それぞれも心の持ちよう次第であろう。

 だが、忘れてはならない事の一としては、新書を開く時、我らは常に「ペンギン」と共にあるのである。目に見えずとも、触れられずとも、確かにそれらは(今)「ここ」にある。

 

 能書が長くなってしまったが、どうせ趣味の話である。概してそんなものであろう。以降もこの様な調子で縷々冗長の筆を執るつもりである。悪しからず、ご了承願いたい。

 

[続]

(2023/06/15)