カオスの弁当

中山研究所blog

ぼっち・ざ・lain

 『ぼっち・ざ・ろっく!』は実質『serial experiments lain』だーーという怪気炎にTwitterで接して、それならば……と視聴した所、これが大変面白かった。とても面白かった。

 それより前から再三、友人連中からも見ろ見ろと勧められていた手前、観るのは少々癪であったが、実際第一話の冒頭、のっけから自分の音楽の趣味に合い、一気通貫した。

 

 

 『ぼっち・ざ・ろっく!』(以下、作品名は『ぼっち』、主人公を「ぼっちちゃん」と記す)と『serial experiments lain』(以下、作品名は『lain』、主人公は「lain」と記す)の第一の共通点は、インターネット世界で活躍する超能力者の少女が主人公であるーーという点である。

 超能力といえば大袈裟だが、才能(タレント)といえば有り触れている題材である。

 『lain』が元々、超能力(エスパー)バトルものを下敷きに構想された物語であるのを踏まえれば、『ぼっち』はややマイルドにはなっているが、所謂、「魔法少女もの」の系統と比較して見るのも面白いかもしれない。(ただそんな事言い始めたら、大風呂敷もいい所だが…)

 学校では冴えない女の子が、実は放課後は人知れず覆面を付けて大活躍している……という設定はいつの時代もどんな職業であっても一定の人気は博すものであるのだろう。

 

 とはいえ、『ぼっち』が『lain』と似ているといえる一番の理由は、かれらが自身の友人の為に自分らの能力を自身のテリトリーの外で発動し、世界の改変を行う点にあるだろう。更にいえば、それには単なる自己犠牲を超えた意義をかれら自身が見出している点も指摘出来る。

 そうして何をしているのかといえば、両者共、「思い出」作りに専心しているのである。

 

 そんなかれらの活動の動機は、今風にいえば、リアル・ワールド(しばしば“現実”と呼ばれる)で、無数に存在する他人の中から、自分でこれぞと思える「推し」を見つけたからであり、その発見に端を発するかれらの行動は「推し活」と呼べそうだーーと書けそうではある。

 が、そもそも、その「推し」という概念自体、筆者自身十分に把握し得る所ではないし、それ自体について大分の稿を費やす必要があると思われる。なお、「推し」や「推し活」に比較して挙げるならば、『serial experiments lain』という作品(ゲーム・TVアニメの両方を含む)が置かれる1990年代後半の特殊文脈としては、「テレクラ」「援助交際」(今日では「人身取引」といわれる)などがある。

 ……とはいえ、そうした時代背景に関する情報は作品の鑑賞に不可欠な知識ではない。そうした「流行語」の知識は鑑賞者それぞれに偏りがあり、その偏差こそが作品を通じて鑑賞者が単なる「消費者」の域を超えて、能動的に作品を享受し得る前提だろう。

 故に、ここでは『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品を鑑賞する上で2020年代初頭に於ける特殊な文脈として、「推し」及び「推し活」という概念が存在する事を指摘するに止め、それらとの連関についての分析は後年の(取り分け、そうした概念や21世紀初頭という時代に関心のある)視聴者諸賢に委ねるものとする。

 蛇足ではあるが、備忘的に記したまでの事である。

 

 さてーー、『lain』との比較、という点に重点を置いて『ぼっち』を見てみると、未完の作品であるという留保は必要であるが、注目し得るのは寧ろ、物語本編の「おまけ」として描かれるエピソード(所謂「日常回」)であろう。

 『lain』という作品における主人公・岩倉玲音の価値観を端的に示す言葉に

『記憶なんてただの記録』

がある。この「記憶」は敷衍すれば「思い出」といえるだろう。中学生の「lain」と高校生の「ぼっちちゃん」の性格を比較するのは容易ではないが、二人ともそれぞれ、「思い出」作りには積極的であるのは共通している。

 但し、自分一人で容易に他人の記憶をも創造・改変し得る神の如き力を有する(それ故に孤独な)「lain」とは違い、「ぼっちちゃん」の孤独は一学生、アーティストとしてのそれに留まるものである。そのお陰で「ぼっちちゃん」は「lain」程にはニヒルでもないし、豹変したりする事はあっても人格が幾つにも分裂する様な事態には陥ってはいない。

 だが「ぼっちちゃん」がその様な「思い出」作りという行為を通じて感じる他者に対する恐怖や苦痛に怯えて震撼しているのに対して、認識改変能力を持つ絶対的強者である「lain」はアニメ版では最後の最後までそれはやって来ない。

 かてて加えて、やられた分やり返す、その反撃力に気付かせたのも又、彼女の曝された「見る暴力」であったのに対して、音楽は「ぼっちちゃん」たちのみならず、不特定多数をも扶ける力として描かれているのが『ぼっち・ざ・ろっく』を、基本的には安心して観られる作品に仕立てている“ご都合”である。

 だが、そんな才能に潰されないどころか、それを上手く使う場を得た所から始まる「ぼっちちゃん」のストーリーは見る者に罪業感を余り感じさせない、そういう意味でも「いい」作品であるのは疑いの余地もない。

 

 「記憶」、「思い出」に限らず、『lain』の物語に於いて「真実」と呼べるものはどれも不確かである。だが、それらは最終的に「lain」という存在と関わりを持った人物の胸中にそれぞれ、強度を持って記録される事により、メタ的な情報が付与されるそれがメタ的な情報である事は明かされないまでも、「詰まりそういう事」だとして物語は締められる。

 それは音楽の良し悪しにも通じるものなのかもしれないが、残念ながら、音楽は本当にチンプンカンプンな筆者には、ロックに限らず、音楽を聴いても、それがどの様な訳で優れているのか、何故にそれが「よい」のか自分にも不明な身の上である。況してや、“ロック”とはそもそも何なのかーーという事自体が感覚的に分からない人間にとって、青春・学園バンド物(?)の醍醐味といえる「音楽の心地よさ」が分からないので、これについては全て仮定で論じなければならないのが、甚だ不誠実である気がしてならない。

 そうであったとしても、幾分、此の耳に「心地よい」と一応は感じられた手前、筆を割く用意はあるものと思って書き進めるが、蓋し、劇中バンド「結束バンド」の演奏に、メタ的な情報が付与されるのは、「ぼっちちゃん」がずっと目の敵にして避けている“他者との一体感”が、“個の存在”と矛盾する事なくそこに成立しているからであろう。

 より踏み込んで考えると、「ぼっちちゃん」が求める活動の内容は、具体的には他のアーティストとのセッションや生身のオーディエンスとの相補的交流であって、それ自体は現実的に考えれば、インターネット上の活動を通じてもその為の相手を探す方法が妥当な選択肢に上がるのが今日の状況である。

 然し、それでも、原作の「学園・部活もの」の路線を踏襲する位置付けを抜きにしても、人間同士が生身で、かつ偶然のきっかけから共同の活動が開始する事への憧れと期待が前面に描かれているのは、本作のみならず、基本的に「王道」と呼ばれる作品の根底にあるもののように思われないでもない。

 一言にして、その要素とは「人間性への信頼」ともいうべきものであろうが、それを描く為に音楽活動、取り分け、バンド活動は格好の題材なのだろう……。

 

 これに対して、『lain』という作品の通奏低音として存在するのは、「十代の少女」というステータスとそれが持つ価値である。それは単に民俗学的な見地から指摘される、神霊的力を具備している云々の文脈より更に世俗的な文脈に於けるかれらの「値打ち」が、かれら自身の認識、世界=他者に対する信頼の不安定さの遠因となっている。

 尚且つ、物語の基底となっているのは、矢張り、人間性への、他者への期待と憧れであろうが、何よりかそれは他人を信頼する事自体への憧憬と挫折といった要素が大分を占めている。

 「ぼっちちゃん」の状況はこの前段階にあると言っても構わないだろう。が、これは現在のインターネット・ユーザーの一般的なインターネット・コミュニケーションに対する評価とみても凡そ外れないものでもあるだろう。ただ、これは『lain』と『ぼっち』のそれぞれが描こうとしているビジョンの違いに因むものでもあって、何方かがより一方に対して優れているーーという主張の根拠たり得ない。

 余計な付言をすれば、「ぼっちちゃん」は甚だ手厚く家族に保護され、また本人もその庇護下にあって順応し、家族と上手に関係を構築し得ている。それ故に、「ぼっちちゃん」のバンド活動やバイト・デビューなどは家族の記念すべきイベントとなって祝福され、本人もまた、それを不器用に「思い出」として享受する選択を自然と択べる物語となっている。

 これに対して、「lain」の暮らす岩倉家は全く信頼出来る環境足り得て居らず、少なくとも表面上は彼女の居場所として設けられている様ではあっても、それらは信頼しようとすればする程、頼もしさが失われる虚構(見掛け倒し)の世界である。

 

 インターネットを用いた自身の居場所作りは、20世紀後半のジュブナイル作品であれば、これは「秘密基地作り」と呼び得ただろう。

 にしても、「ぼっちちゃん」が父親からアカウントを引き継いで動画を発表し始めたのに対して、「lain」は父親から据え置き型端末機器・NAVIをプレゼントされる所から始まっているのも大きな違いである。

 「lain」にとってのNAVIは、対応するアイテムでいえば「ぼっちちゃん」にとってのギターである。このギターも、「ぼっちちゃん」は父親から譲り受けたものであるが、二人の主人公がそれぞれ自分達の居場所となるデバイスを父親からプレゼントされた点は、必ずしも偶然だと言って捨てるには勿体無さを感じる。

 「lain」においてそれは、「かつての少年」から息子への承継の“オマージュ”であって、それは通過儀礼の一種とも見えるのに対して、依然、蓋然性は残るものの「ぼっちちゃん」へのギターと動画共有サイトのアカウント移譲は謂わば「保育」の延長に位置付けられよう程度のものであろう。

 ただ、これも深読みすれば、それくらい大事にしなければーーと家族に心配される程に深刻な事情を有する「ぼっちちゃん」のキャラクター造形の一部であり、片や、「lain」の場合も同様であると読めるものだろう。『lain』では「lain」を、その心中が読めないミステリアスなキャラとして描く為に家族を始め、周囲の人々の行動や記憶・視点が具に描かれていたりもする。(なお、約四半世紀の隔たりを有する両作品の比較を通じて、筆者は別段、その間に変容した社会・家族観の変遷を論じたい訳ではない。)

 ……よくある設定といえばそれまでだが、それらによって自身の能力を開花させた主人公たちが、各々、自分の選んだ友人らを助ける為に力を発揮する行為も、その為に事前に必要だったものを用意していたのも、〈本編ではかれら個々人の活動には余り関与して来ない〉父親である点は、かれらの行動のアーキタイプを探る上で一役買う情報であるだろう。

 突き詰めれば、かれらの父親は〈偶然性〉の化身とでも言えそうなものであるが……此の話は本筋と関係ないので以下、省略する。

 

 

 所で、「思い出」という観点から物語を見てみると、『ぼっち』に於いても『lain』に於いても、かれらが“無双”(快刀乱麻を断つ活躍を見せる)する舞台である、インターネット上での活躍の描写というものは本編では余り、というか殆ど描かれていないのは、或る意味で必然的と言える。

 『lain』の場合は然し、「lain」の活動自体がインターネットを介してリアル・ワールドに及ぼす影響がメタ的演出で描写されている。

 それは「lain」が、肉眼には見えない形で徐々に現実を蝕んでいく様子は、彼女が世界に蝕まれていく過程とネガ・ポジの関係にあるからだが、こうした「描かない」演出が意味するところは、かれら主人公たちにとってのインターネット上での活動実績というものの評価それ自体を反映しているものーーと解釈し得るものでもあるだろう。

 但しそれは、“所詮はネットの評判だし…”という投げやりな、主人公ら自身の活動への評価の反映であると同時に、その活動自体にプライベートが侵食されてしまう事への防衛策として「思い出」作りが積極的に評価される傾向がある事を示唆しているものと考えられる。

 ただ、ネットのアイドル的存在が自己防衛の為に行う活動ですら、『ぼっち』や『lain』という作品自体がそうであるように、「楽屋ネタ」として鑑賞的娯楽の対象となる点を踏まえれば、かれらの活動自体が何処までも自身のペルソナに隷従的な、消極的活動であるという評価も下せなくもない。ーー稍、強引とも言える向きかも知れないが、然し、その様に充足せねばならない“リアル”ーー言い換えれば、「リア充」を指向せねばならない、とかれらをして思わしめる環境そのものーーの外圧に対して、かれら自身が自己を防御する為に内からプレッシャーを加える必要を見出している限り、それに基づいている限りに於いて、その意思や活動は一種の強迫観念に囚われたものである点は指摘し得るものだろう。

 その様な“退避行”に努めれば努める程、隘路が狭まるのは、『lain』の作中、トカゲの尻尾切りにあった「黒の男たち」(MIB1、2)のセリフに「反転」されていたりする。

〈…〉

MIB1『逃亡しろと? どこへ』

男 『(苦笑) そうだね、電話も電線も無くて、衛星もカヴァーしてないエリア』

MIB2『この地球にそんなところある筈ねぇだろ?!』

男 『逃げるんだとしたら、そういうところを探すしかない』

〈…〉

ーー小中千昭『scenario experiments lain / the series』p293-294、1998年

ーーなお、「ぼっちちゃん」が「lain」程まで追い詰められていないのは、インターネット上での活動を制限している為であろうが、その制限はギターの練習の為に自ずと生じている制約が働いている為だろうと推測される。果たして、「芸は身を助ける」という諺があるが、「ぼっちちゃん」の場合には全くそれが当て嵌まり過ぎている。そして、『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品の「安心感」も蓋し此処に在るーーといえるのだ。

 

 余談だが、『ぼっち』に於いても登場する電線や電柱といった表象は、それらが上に引用した『lain』のセリフに代表される様に、個人のプライバシーを侵食し、最終的にはその個人さえも破壊さえしてしまう「観察・侵入して来る他者」のメタファーとして屡々、20世紀末から21世紀初頭の今日のアニメ作品に登場して来る。

 これは、「電話」や「(人工)衛星」と並んで挙げられている事からも分かるように、情報通信、古くは「交通」と呼ばれたコミュニケーションのツールやシステムの一部として認識されている為である。ニーチェの言葉として、最も知られる

『深淵を覗くとき、深淵も又、此方を見ているのだ』

というそのままに、上の引用では、それまで衆人環視の下に曝されていた対象(「lain」)が、あべこべに、世界中の人々を監視する側に回る様子を述べている。

 だが、『ぼっち』では、「ネット」と「リアル」の程よいバランスを主人公がプライベートを通じて構築していく様子が描かれている。そしてそれが何だかんだで上手くいく様子が描かれていく以上、窃視壁のある観客=他者の記号たる電柱や電線がシンボリカルに登場する余地はないのであろう。

 

 閑話休題

 さて『ぼっち』では、上記の脅迫下に於ける意思表示と行為と、そうではないそれらとがきちんと区別して描かれていたりする。そして、「ぼっちちゃん」が自身の実力を発揮するのは後者のシチュエーションである。

 それに対して周囲のバンドメンバーたちは引き摺られる形にもなるのだが、彼女をバンドに誘った友人・虹夏は、そんな「ぼっちちゃん」の活躍に、自身がバンドに託した願いが達成される可能性を見出したりするのである。

 ……大体、ここまで書くと筆者個人的には矢張り、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(以下、『エヴァ破』)とも『ぼっち・ざ・ろっく!』を比較してみないではいられないのだが、ここで両者の媒介項として辛うじて挙げられるのが、『serial experiments lain』である。

 完全に蛇足ではあるが、ここで三者を比較するなら、それらの共通点は「人付き合いの下手な子供が、〈大人たちの用意した環境と機会と道具とによって〉自分で友達を作る過程が物語の一つの軸になっている」点であろう。それは飽くまでも、十代の少年・少女を主人公にしているが故の共通する設定とも言えるが、其々異なるのは、結局、かれら主人公達を囲む大人たちの思惑であり、そこからの〈逸脱〉こそが、真にそれぞれの物語が結末に至るまでに必要な契機であったりするのだが……これは全く余分な話である。

 

 とはいえ、その〈逸脱〉の一例が、『ぼっち・ざ・ろっく!』の場合、第9話『江ノ島エスカー』に於ける江ノ島日帰り旅行であり『serial experiments lain』にあっては、第2話(layer:02)『GIRLS』での「クラブ・サイベリア」行である。

 こうしたイベントも、民俗誌的に見れば、大分その形式は変わったとはいえ、凡そ半世紀以上前には各地に存在した若衆組・女組などの地域コミュニティに存在した組織的活動のなれの果てとみて可であろうーーが、兎も角、それらの旅行自体が歴としたイニシエーションであるという評価は今日に於いても妥当であろう。

 (果たしてこんなのはわざわざ書くまでもない様な内容なのかもしれないが…)

 

  「ぼっちちゃん」が「lain」と対照的なのは、「lain」がそうした通過儀礼に関心を示さないのに対して、過剰な迄に積極性を示す点でもある。ただ、そうして意識はしつつも自分をそれらの蚊帳の外に置こうとするのは、言うまでもなく、自身の得意・才能に自覚的であるが故にである。

 他方、「lain」はそうした社会的慣習には興味を示さないのは、結局、文字通り〈異次元の存在〉だからであるが、クラブに連れて行かれた事で彼女は自身の〈影響力〉を自覚させられるのである。然し、それは彼女の〈能力〉の影に過ぎない訳でーー……故に、『lain』の物語は難解とも評されるのだが、こればかりは致し方ない物語の宿命だろう。

 

 今一つ、『ぼっち』に於ける主人公の大きな〈逸脱〉は、第6話『八景』に於ける酔いどれバンドマン・きくりとの邂逅と路上ライブだろう。寧ろ、〈逸脱〉ならば此方を先に示すべきだという向きもあろう。

 筆者はこれは「ぼっちちゃん」がそれと知らずに経た〈逸脱〉として、これを本稿筆者は数に計上しない立場である。が、然しそれが明白にイニシエーションであったのは、チケットが売れた事を報告した際のバンドメンバーや、ゲリラ・ライブを経た後の「ぼっちちゃん」の様子を観察したかれらの反応からも明らかであり、何より、その経験を積んで臨んだ「結束バンド」の初ライブでのパフォーマンスが、後藤ひとりという一人の音楽家が自身の活動の基盤を堅めたものであったーーという説を論じたいものである。

 

 そうして漸く、晴れて(?)友人たちと「思い出」作りの為、夏休み終盤ではあるが繰り出した先の江ノ島の景色の中に登場する電線や電柱は、かれらに関心を示すもの達の姿ではない。

 寧ろ、かれら「結束バンド」一行にとって「思い出」作りは特別なことではなく、それは「ぼっちちゃん」も例外ではない。ただ、裏返せばそれは、その様な形式的活動を必要とする位には成長した組織としてバンドがより強固になったーーと見做し得る指標と言えるだろう。

 そして、『lain』にあっては、殊の外、こうしたアクティビティに関心を寄せない主人公のキャラクターが禍して(?)、他のキャラに思い切り転嫁されたきらいがある〈生身の身体〉感覚は、『ぼっち・ざ・ろっく!』では主人公がきちんと受苦している。

 一見、馬鹿馬鹿しい下りではあるのだけれども、これを『lain』の最終話(layer:13 EGO)と比較した際の両者の間に生じるコントラストは鮮烈なものになる。日帰り旅行の翌日に全身筋肉痛で悶絶する「ぼっちちゃん」は、果たしてきちんと「思い出」作りに成功した訳である……。

 他方、「lain」はといえば、『serial experiments lain』という物語自体(ゲーム、アニメ作品両方共に通じて)が彼女自身と彼女の周囲の人々の「思い出」であり、それが彼女の全てである。

 それはメタ的に視聴者に対しても示されているが、却っていえば、その全てが他に開かれてしまっており、ただそれ故に、彼女はこの世界に遍在していたりするのでもあろう。

 

 或る特定の方向への志向性を有する前の漠然とした期待と不安の併存する薄明薄暮の間に流離うものが「lain」ならば、「ぼっちちゃん」は惑いながらも既に動き出した乾坤の間を曙光に向かって歩み出したものである。

 

 比較という程の比較もしたものかは分からないが、取り敢えず『ぼっち・ざ・ろっく!』第9話までの筆者の感想は以上の通りである。

 

(2022/12/14)