カオスの弁当

中山研究所blog

「lainを好きになりましょう」について

 テレビアニメ『serial experiments lain』の、最も「平成」らしさを感じさせる部分は、「けひゃっ!」おじさん、こと、主人公・岩倉玲音の父親・岩倉康男や、劇中のテレビで放送され“中継”されるニュース番組のアナウンサーの男性が登場する部分である。というのも、あの四角い眼鏡の、背広姿が様になる「おじさん」の存在こそが、20世紀末の「平成」という日本独自の時代区分を代表するものの一つだったからである。

 

 そんな「おじさん」は物語の中では際立った活躍することもないのであるが、しかしながら、その役割はそれぞれに中々重要である。

 ここでは、その重要性が明白な「父」・岩倉康男についてではなく、「アナウンサー」の眼鏡の男性について、小稿を奏したい。

 ただ、キーワードとして「おじさん」、並びに今一人の「おじさん」である岩倉康男についても、最後の方でキーパーソンとして触れるつもりではある。

 

 所でだが、彼・アナウンサーの発した名台詞の中に、

lain(レイン)を好きになりましょう」

という有名な一文がある。

 これは、インターネット世界「ワイヤード」で起こった異変が、人間の肉体の存在する現実世界にまで波及し、現実世界がいよいよ明確に変貌した瞬間を“中継”する場面で、彼が発狂したように繰り返す台詞である。(或いは彼が発狂したのではなく、彼を含めた現実世界そのものが歪み出した結果、繰り返されているだけなのかもしれない。)

 

 映画やアニメといった映像作品の中でニュース番組が枠物語的に挿入されるのは間々ある事である。が、概ね、20世紀末の劇中のニュース番組の内容の作品内での位置付けは、『ロボコップ』(1987)に代表されるように、それは「フィクション」の側面が強調される。

 「ニュースは現実を映していない」という事が屡々、そこではお約束として暗黙のうちに設けられ、その虚報の代わりに物語が「真実」として視聴者に伝えられる訳である。

 

 そして、屡々こうしたテレビ局や新聞などの報道者は、物語の最後ら辺で、自分達が好き勝手に編集して上手いことネタにしていたものによって滅ぼされる。

 『ロボコップ』もそうだが、『lain』と同時期に公開された映画「007」シリーズの『ワールド・イズ・イナフ』(1999)も、グローバルなテレビ放送網を獲得した通信社が黒幕となり、通信衛星を用いた情報操作によって国家間の戦争を勃発させようとして、ジェームズ・ボンドによって退治される筋書きとなっている。

 

 『lain』も概ね、こうした時代の産物である事から、同時代の視聴者にとっては自明の理である所の文脈というのは、果たして今更筆者が小稿を認める事柄でもないように思われる。

 だが、既に放送から20年が経過し、更に言えば筆者のような「非ーリア」勢も多くなった今日の状況を鑑みれば、ここに拙いながらも、そうした文脈が存在した事自体を記す事は幾らか読者公共体に資する事も有るかも知れないと期待するものである。

 

 さて、そうした同時的文脈の中で、『lain』でも例に漏れず、報道関係者は自分達がニュースとして扱って来た事項によって滅ぼされてしまう。

lainを好きになりましょう」

という台詞は、劇中のアナウンサーが発した台詞として今一つ、非常に知られたものとして、本多猪四郎の映画『ゴジラ』(1954)の

「いよいよ最期! さようなら皆さん、さようなら」

に並ぶものである。

 

 今日のテレビという娯楽の有する影響力は、20年前と比べると著しく低下したものであるが、故に2020年代初頭に於いて、1990年代末のテレビアニメに於ける映像ニュースの汲まれるべき影響力というものは、想像以上に大きい。

 さて、そんな訳で『ゴジラ』では生中継をしていたクルーは、その為にゴジラによって無惨にも殺害されるに至った訳だが、『lain』に於いて彼らがワイヤードからの「侵略」によって改変されてしまったのは、無線通信による報道を行っていたからに他ならない。

 

 『lain』という物語は、言うなれば、深海底や未知の大陸の奥地など、人跡未踏の、未だ多くの謎に包まれた領域として、無線通信の領域を描いた作品である。

 その領域は、人類がインターネットやパソコン(「ナビ」)、個人携帯端末、電話やテレビ、ラジオなどを通じてでしか知覚出来ない領域であるとされている。そして、それらの技術を使って漸く「アクセス」出来るようになった広大な領域の一部を開拓して、築かれたのが「ワイヤード」という訳である。

 だが、飽くまでそこは人類が現在、アクセス出来る極限られた領域に過ぎず、それ以外の領域には未だ何が潜んでいるのか分かっていないーーというような設定が基層に横たわっている。

 丁度それは、19世紀の古典的なSFである、ジューヌ・ヴェルヌの科学冒険譚や、ポーの影響を受けたラブクラフトの20世紀の怪奇文学、そしてそれらを踏まえた、特撮ホラー映画『遊星からの物体X』(1982)からの文脈を引き受けたものであろう。

 それに加えて、1899年に発表されたコンラッドの小説『闇の奥』を翻案した映画『地獄の黙示録』(1979)などの「人間心理の闇」とでも言えるような要素についても、言い換えれば、人間の内面というのを、人間自身にとり、未解明な謎の領域として措定するような考え方は、当然『lain』にも引き継がれている。

 

 『lain』の場合は、来る新世紀を踏まえて、新たに人類が進出した領域として、それまで知覚されて来なかったーーその存在すら、実在すると認められて来なかったーー“サイコ”な領域を舞台にして、そこに進出した人類を見舞った、ある種の災難、そこにいた未知の存在とのエンカウントを描いた、「古くて新しい物語」だったと呼べるだろう。

 

 絵柄こそ比較的穏便であるが、『lain』は『エイリアン』や『物体X』と実のところ、同列に扱われてもおかしくはない作品なのである。

 とは言え、ご存知の通り、『lain』という作品は比較的穏便な幕引きを迎える。が、それは例えば『ゴジラ』がそれだから内容も穏便だったかといえばそうではないように、この手の物語の一番の恐怖は、実はそんな訳の分からない、理解を超えたものが潜んでいるかもしれない闇そのものが存在するーーという事を読者や視聴者に植え付ける点に存するものである。

 

 話をアナウンサーに戻すと、古典的な冒険譚の比喩でいえば、彼は丁度、探検隊に同行して中盤から最後らへんにかけて死亡する「シーフ」の立ち位置にあると言えるだろう。

 途中までは何とか上手く立ち回れるのであるが、矢張り履いている靴が違う為に、それで身を滅ぼすーー宿命を背負った狂言回しである。

 

 ただ、彼ら狂言回しの役割は、劇中に於ける視聴者・読者のアバターという重要なものがある。それは彼らが物語の中で「嘘を嘘であると知りながら、それを本当だと白を切り通す存在」だからである。

 そして、観客は、彼らが怪物に食い殺されたり、災害に巻き込まれて破滅した後にも生き残れる、或る意味で最も狡猾な「泥棒」な訳であるが、そんな身代わりを立てる事によって、観客は、正直者にしか辿り着く事の出来ないトゥルー・エンドに到達し得る訳である。

 

 それは正に、自覚すれば後味の悪い事なのであるが、この後味の悪さーーというのも、果たして、20世紀後半に屡々、情報の消費者に自覚されたものであったと言える。

 戦争や災害、危機に瀕した場所から伝えられる情報を得て、それに接していながらなす術がない事に対する遣る瀬無さを、現地でカメラを構えて取材をしていた人間にぶつける事例が現実に於いて屡々あるとするならば、謂わばその消費者の内に潜む罪悪感というものを浄化する役割が、劇中で逆襲されてしまう報道関係者という存在に託されているのかも知れないと、筆者には想像されたりするものである。

 

 殊に、20世紀末の1990年代後半には、通信の発達などで、リアルタイムで戦争や災害の様子がカラー映像等で克明に伝えられるようになった事もあり、こうして得られるようになった情報を、「観られるからと言って、それは本当に観て良いものか?」というような疑問を、テレビの前にいる消費者が考えてしまい勝ちな状況が存在していた。

 それも果たして、その後の大容量・高速通信技術の進歩等によって、人間の躊躇する心の方が、コンマ数秒単位で膨大に押し寄せて来る情報に流されて破壊されてしまった今日では、中々想像し難い事項ではあるだろうが、兎も角それは、急激に人間の前に多くの情報がーー今風に言えば、「情報量が多い画像・動画」がーー届くようになった時の、一時的な緊張と困惑と葛藤であったと言う事が出来るだろう。

 

 そして、その膨大な量の情報が押し寄せて来る中で、人間が最終的に自衛の為に取った行動が、一見して奇矯に映る場合、それは「発狂」と形容される事も有る訳だが、当該アニメのワンシーンについても、その「発狂シーン」を描いたものとして、多くの視聴者に印象的に記憶されいるものと筆者は見当する次第である。

 

 

 正確には時制が明らかではないものの、作品の内容と前後の関係から、『lain』のニュース番組は比較的夜遅いーー午後9時以降の時間帯のものと筆者は推量するものであるが、それでも、この物語内の不明瞭な時制は、時にアニメが放送されていた、同時間帯に放送される深夜のニュース番組であるかの様な印象を抱かせる。

 そして、こうした深夜の報道番組で伝えられる内容は、果たして「異常」なものと呼べるものが少なからず存在するのは、今日でも変わらぬ事情である。尚且つ、そもそも、多くの場合、眠っている筈の時間帯に伝えられる情報それ自体に対して、少なからぬ人間が不吉な感を抱くのは、今も変わらない事情であると推量されるものである。

 と言うのも。時ならぬ報せというものは、概ね不幸な出来事である事が屡々だからである。

 

 不意の出来事に対しても、取り敢えず、ラジオやテレビを点ける事から始める事しか出来なかった時代に於いては、屡々、深夜に於いては電話が鳴った後に、その報せを受けて電源が点けられるーーという事も屡々であった。人と人とが直に連絡を24時間取れるようになったのは、実際、21世紀に入ってからの事情である。

 加えて、その隔たりは今日も依然変わらず存在するものであるが、この隔たりを越える速度が果たして以前と比較にならない程に増大したのが、今日の状況である。

 

 そんな時代に、謂わばニュースキャスター、アナウンサーは電話交換手の様に、カメラの向こうとテレビの向こうの狭間にいる人間の象徴的に位置付けられていた。

 であればこそ、彼等のスピーチは一言一句正確に、澱みなく、一定のリズムで、感情を排した様な、「機械の様な調子で」あった訳である。

 そして、当時こうした話し方をして、

「テレビのアナウンサーの様に」

という常套句があった。これは褒め言葉ではなく、その態度をして「他者に対する同情に欠ける態度」として、相手を皮肉る言葉であった。

 

 そして、1990年代という時期において、こうした正確さと冷静沈着な対応を求められる仕事には、壮年の男性ーー即ち「おじさん」が相応しいという風潮が残っていた。

 これも今日からすれば、想像もし難く、又理解し難いかも知れない事柄かもしれない。だが、当時はなお、多くの人にとって大変な不幸を報せるかも知れない役割を担うのは、父性を有する男性が妥当だと考えられていたのである。

 

 ただ、それがどれだけ現実の報道と一致していたかは、定かではない。寧ろ、筆者自身の寡聞にして知る所であっても、多くの場合は、報道番組に於いては扇情的な語り口が採用され、それらはスポーツ中継の様に、刻一刻と更新される情報を、視聴者とその感情をシンクロさせるのに長けたアナウンサーが熱情的に捲し立てるものであった。

 故に、『lain』の登場人物である「おじさん」二人も、あれが当時のリアルな「おじさん」の姿であったかというとそうでなく、寧ろ、相当に理想的な「おじさん」であったーーと留保されるべきであろう。

 

 そして、そんな理想の典型的中年男性をしたアナウンサーが、発狂して最後に繰り返す台詞が

lainを好きになりましょう」

という、非常に扇情的で、且つ、視聴者に対して誰かに対して好意を抱くように訴えかけるメッセージであった事は、此処まで確認した内容を踏まえれば、意味深長に捉える事も可能である。

 

 此処でアナウンサーが好きになれ、と熱狂的に高らかに唱導するのは、概ね男性である偉大な指導者等ではない。寧ろそれは、謎の存在・Xなのであるーーが、視聴者の多くはそれが、孤立した一人の少女(の姿をした、人間とは異なる未知の存在)の名前である事を知っているのである。

 その、未知の存在ではあるものの、社会性動物であるヒトの、殊に十代の未成熟な少女の姿をした存在に対して、何か同情を寄せるように訴えかけるアナウンスに、視聴者は思わず、熱狂的に同調したくなるーー筈である。

 

 然し、そうしてその言葉に同調してしまえば、最後ーー果たして視聴者も、物語の中で少女・玲音を追い詰め、苦しませている圧力の一に加わる事になってしまうのである。

 

 このセリフと描写程、果たして視聴者にとって、『lain』という作品の中で残酷で露悪的な場面もないーーと思われる。

 そして、此のシーン程、同アニメ作品でインタラクティブな場面も無い、と考える次第である。しかも、そのインタラクティブなギミックは、果たして放映当時のみならず、今日視聴可能な「円盤」ーー非同期なソフトーーによっても体験出来る、優れたトリックである。

 

 発狂したアナウンサーはそこで、自分達が普段行っている事を露骨に宣言しているに過ぎない。

 即ち、それは視聴者に対して自分達が支持するように共感し、同調し、従うように命じているのである。それは、或る意味で彼らが視聴者である消費者のニーズに応じた結果でもある訳だが、この時、アナウンサーは最早、深夜にニュース番組を観る消費者の希望する、「アナウンサー」の姿をしていない。

 それは、すっかりもう父性的な面持ちを崩壊させ、自分達の利益を貪ろうとする「盗賊」の醜悪な姿である。或いは、人の不幸や大規模な災害、現実の崩壊する危機を見世物として、荒稼ぎをしようとする、ヒューマニティーの欠如した態度を、その弄している言葉とは裏腹に明らかにしている者の姿である。

 そして、繰り返しになるが、そんな劇中の報道関係者というのは、視聴者・観客の代理人にして、鏡像なのである。

 

 

 アナウンサーが発狂したシーンは、言うなれば、彼の居るスタジオ自体が、そのネット回線を通じて、ワイヤードから波及した現実改変災害に呑み込まれたシーンと観る事も出来るだろう。

 然し、そんな生々しい災害の描写ーーであるにも拘らず、恐らくは観客がアナウンサーに同情する事は愚か、寧ろ滑稽に感じるのだとするのであれば、それは、因果応報のテーゼが顕現したからではなく、幾らか頭が冷やされ、興醒めしてしまったからであろう。

 確かに、一側面としては、そこでは因果応報が実現されたのである。

 ただ、その場面で彼が狂ったように叫ぶ言葉の内容は、実際、視聴者の感想として少なからず植え付けられていたものであった。成る程、確かに、主人公の岩倉玲音は救済されるべきであり、誰からか愛の手が向けられるべき対象である。

 ただ、その気持ちを言い当てた上に、アナウンサーは執拗に、「今此処で同情し、共感せよ!」というような言葉を繰り返すのである。これは丁度、よくある映画やドラマのCMやポスター、電車の中に掲示された書籍の広告と全く同じ軽挙である。

lainを好きになりましょう」

とは、最悪のタイミングで挟まれる掛け声なのである。

 それは、オペラの舞台に心底没入している最中に、突如、クライマックスで客席から放たれた、「ブラヴォー!」の掛け声と同質の、忌まわしい宣言である。その絶叫は、今まさに自分が絶頂に達した事を報告する呻吟に他ならない。気色悪い事、この上無い。

 

 

lainを好きになりましょう」

は、同作を「視聴」するという行為そのものを通じて、何か・誰かを「見る」ことの暴力性と、その暴力を(集団で)楽しみ、尚且つ、その嗜虐対象に自分達が同調して、その悲痛のクライマックスに合わせて自分達自身も示し合わせて絶頂を迎えようとしている事を、まざまざと思い知らせる名台詞である。

 

 なお、こうした集団で一緒のエクスタシーに到達しようとする試みの描写自体も、ヒッピーブームの影響を避けては通れない20世紀後半の文脈や、何よりも、1980年代から90年代にかけてのオカルト・ブーム、そして特筆すべきはカルト集団によるデモンストレーションの記憶などが色濃く当時残置されていた時代状況を踏まえて置かなければ、単に悪質な視聴者への嫌がらせーーとして解釈されてしまうシーンであるだろう。

 又、同様に、こうした「罪悪感」が意識されるような背景には、放映当時からは然程昔では無い時代に、世界各地で多くの戦争や虐殺、災害などのセンセーショナルな出来事が相次ぎ、そうした現地からの生々しい映像がテレビという媒体で「お茶の間」にまで届けられる事に対しての問題意識や、危機感が強まっていた事も十分に理解されていなければならない。

 

 所で、表現規制や自粛などの措置については様々な議論が日夜交わされているものであるが、そもそも今日の規制や自粛といった事柄が、これら前世紀末よりの経過の中で措置として設けられていった事は、議論の際、都度に回顧されても構わないーーと個人的に筆者は思う次第である。

 

 

 最後に、ーー同作の主題歌『Duvet』のレコード(!)が数年前、発売されるに当たって、プロモーションの為に或る小売店が商品紹介のページで、劇中の再現をしながら、この

lainを好きになりましょう」

という台詞を引用していたのが、筆者にはとても印象的に記憶された。

 この「lainを好きに〜」という台詞は、今どきではSNSに於いて、「ハッシュタグ」として非常に使い勝手が良い文句で、であればこそ、20年経った後にでもマーケティングに採用されたのであろう。

 

 ただ、個人的にはーー本当に、極私的な感想ではあるのだがーー、同作の代表的な台詞として、このアナウンスが人口に膾炙するのは、如何なものか、と思う次第である。それこそ、「この“不謹慎厨”が!」と言われたら、その通りなのであるが、ただ同作の最も視聴者にとって辛辣な台詞でもあり、救い容赦の無い描写の一つが「拡散」していくのにはーー、それこそ何やら気まずさを感じるのである。

 その言葉やパフォーマンスを字義通りに受け取ってはいけないーーというのが、果たしてジョークや冗談を楽しむ際の「お約束」なのだとしたらーー又もやーー、個人的にはそれは、字義通りに受け止めるのが難しいような言い回しである方が宜しいと思うものである。

 詰まり、

lainを好きになりましょう」

というのは、あんまりに字義通りに受け取ってしまいたくなる甘言だ、という事である。

 

 

 ーーで、此処まで書いてしまったなら、最後の最後に、その代替案を挙げても今更、遠慮もないであろうと思われるものであるからして、差し支えはあるかもしれないが、筆者としては、最終回・ラストシーンの玲音の台詞を推したい。

 又、余分ながら、一番好きなシーンは、同じく最終話の玲音と康男が話すシーンである。この、自分の「おじさん」好きについては、本当に旧時代の遺物であると失笑を禁じ得ない。

 

 手に余る事柄も引き受けられる丈夫さと寛容さと、何よりかじっくりと時期が来るまで確りと待つ忍耐強さ、優しさとか何やらに対する憧憬は、温い日向の陽光のように、自分にとっては中々離れ難い感じを抱かせるものである。

「いつか又会おう」

という台詞に対して、

「いつでも会えるよ」

と応答をしようと思えば、多分にそうした素地を持つ事が先決なのであろうーーとは、流石に穿った見解ではある、と反省するものではあるが、そう思いたいものである。

 

 

(2021/11/01)