カオスの弁当

中山研究所blog

蛇の飴

 

 随分昔のことだから仔細ははっきり覚えていない。兎に角、親に連れられて何処か観光地でしんこ細工の体験をさせられた時の事である。

 その頃、自分は矢鱈と蛇という生き物に魅せられていた。何故だか分からないが、進化の過程の上で四肢を無くした蜥蜴の仲間であり、又その頭に比して長大な身体を自在に操り、水中にも、高い木の上にでもスルスルと登っていってしまう運動神経の素晴らしさに、自分は世間の子供同様に魅了されていた。

 

 爪や牙のある生き物に如何して男児が魅せられるのか、深い理由は今もってしても見当がつかない。往々、女児にあってはその爪や牙「だけ」が素晴らしく映ると見えて、所詮は宝飾品扱いをしているに過ぎないのだーーとは、今時分、口の端に乗せれば、すわ一悶着起きそうな感想であろうが、そんな感想が極自然と浮かぶ、そんな時代に育った私もひとりの男児であった。

 

 

 さて、そんな風にして何かと工作をするにつけて、自分の意匠と宜しく、蛇を拵えるのが十を過ぎるか過ぎないか辺りの自分の癖であった。

 例によって、自分は飴屋のまな板の上でも、平たく伸ばした飴を掌で板に擦り付けるようにして、気持ち紡錘形の、長い蛇の胴体を拵えていた。

 それを傍から見ていた飴屋の主人が恵比寿顔でにこにこと眺めるのに反して、母親の甲高い声が一声、響いたかと思えば、それは又、元の丸いボールの様な形に戻ってしまった。

 母の声は自分の名を呼んだのである。ただ、その頃からもう既に自分は、そうしてひとから単に名前だけを呼び付けられる事に激しく反応するようになっていた。兎も角、そんな風に厳しく叱りつけられたものだからして、咄嗟に癇癪を起こして、特に理由を聞くまでもなく、その蛇をまな板の上に跡形もなく磨り潰してしまった。

 

 

 後から母親と父親にそれぞれ叱られたのは言うまでもない。母は癇癪を起こした息子を叱りつけ、折角の記念写真が撮れなかった事に腹を立てていた。父はそんな不出来な息子の遺伝子はお前譲りなのだ、といつもの如く、場所を弁えない妻の癇癪に付き合わされて、気の付かない息子の出来の悪さにほとほと愛想を尽かしている風情だった。

 それで結局、そのしんこ細工の蛇だったものが何になったのかについては、それからずっと思い出せないでいる。体験費用が幾らだったかは覚えていないが、少なくとも、その飴屋の土産物として売られていた兎だか亀だかヒヨコだかよりも少し高い位のーーそんな程度の値段であったのは記憶している。

「子供は値段なんか見なくていい」

というのが、取り縋る私に向けて母が寄越した捨て台詞の一であった。

 

 

 それからもう何年かして、中学の文化祭で展示品として粘土で何か作る事になって、その時久しぶりにしんこ細工の事も思い出した。

 紙粘土の色はしんこ細工とそっくりで、なんなら水に少し濡らした時の見た目の質感は、舐めた時の飴にもそっくりであった。

 屹度、小学生の時分であったら、水の代わりに涎でも混ぜて横着したりしたであろうな……とか、穢らしい事を考えながら捏ねる内に、忽ちそれらはキノコや栗や、果物になった。

 丁度、秋であったから、その様な季節の風物詩を造るのが穏当であろうと思われた次第である。それらは正直、全く操作もなく仕上げる事が出来た。観る人は当然、皆口々に誉めそやした。その様なものを作る様に、あれ以来自分は精進したものであった。

 

 存外、反抗心というものは姿形態度、学業、技芸と何にせよ、人が何かを上達させるのに良い動機足り得るものである。しんこ細工の一件は、当の親たちからしたら随分と稀薄な思い出としてしか保持されていないものの様に見えたが、それは写真が残っていないのだから仕方ない事である。

 出来栄えを見た母親は「まあ色は兎も角、」形は良いと及第点を下した。父は息子の年頃らしからぬ仕事に余り感心した様子ではなかったが、「そういうのも立派だ」とは誉めてくれた。

 父の思う、年頃の少年が作りそうなものといえば、ジオラマだとか、それこそ巨大な蛇や恐竜の模型であった。流石に公立校の催しに戦車や軍艦、飛行機の模型を飾る訳にはいかないから、それに近い、何か勇ましく力強いモチーフを彼は息子の手に見たがった。

 

 然し、そうは言っても蛇を拵えるのには材料である粘土は足りなかった。部活動の予算で買える分というのは、二年生五人に対して三袋という有様で、それでも顧問からしてみれば、生徒の要望に応えたのだから文句は言えたものではないーーという有様だった。

「私物の流用はこれを認めない」

というのも、顧問を通じて示された学校の方針であった。それを認めれば、“不公平”が生じるーーというのがその理由であった。分からない理由でもなかった。

 だが、それでも折角税金で材料が賄えるのだったらもっと沢山欲しかった、というのが部員各々の愚痴であった。

 それでも、結局、それなりの作品を出してしまったのは、物を知らなかったとはいえ、大失態もいい所だった。本当の所、所詮は全く子供だった訳である。

 

 

 それからもう、蛇なんぞに関心を持つ様な事は滅切りなくなった。

 そもそもが意匠として、モチーフとして好き好んでいた訳であって、何か生き物としてそれを愛好しているのではない事は早々に自覚していたものであったが、年長ずるに連れて愈々、その傾向は甚だしくなった。

 蛇に限らず、蝶にせよ花にせよ、そんなものは現実には存在せず、ただ画中に文様してあるだけのものが好ましく美しいのだと思われる様になった。現にそれらは人の目に映った像でもってそれと認識されている訳だから、そもそもが我々にとって「それら」は単なる影に過ぎないーーのだ、とかなんとか、随分青い事を考える時分も疾うに過ぎて、今や絵自体描くのも稀になってしまった。

 

 ただ、最近になって「そういえば、」という風に自分でも時々、思い出したように筆を執ってみてーー筆といっても、精々そこらの筆記用のボールペンに過ぎないーー、喫茶店やファミレスの紙ナプキンやレシートの裏なんかに落書きして、写真に撮ってSNSなんぞに投稿すると、友人知人連中から意外な反応が飛び込んで来る。

 それで、「そういえば自分は絵なんぞ描いていたもんだったなあ」なんて、今更のように思い出された一方で、昔の、余り面白くもないような事も一緒に掘り起こされて、家路に続く電車の中で暫時、暗澹鬱然とした気分に俄かに襲われたりした。ただそれ自体も又、我ながら可笑しく思われたりして、未だ沸いてない風呂の浴槽に浸かった時の様な、ちょっとしたら風邪でも惹きそうな、ヘマを打った時の小っ恥ずかしい心地に思わず泣きそうになった。

 

 そういう時の感情は、本人からしても如何にもならないとは分かってはいるけれども、他人に如何して八つ当たりでもしなければ気が済まないような、面倒臭い性質をしている。剰え、いざ、それで他人にぶん殴り倒そうとしてみた所で、その獲物は麩菓子の様にスカスカで、振り上げようにも振り下ろそうにも、脆く、軽く、漫才の小道具にもなりはしない。

 上新粉と飴とを捏ねて蛇を作ろうとしたら、もっとよからぬ物を作ろうとしていると思った母親に叱られて思わず握り潰したーーだなんてのは、単なる子供時分の笑い話の種である。そこに深刻さを求めるのは却って滑稽であり、又、実害の方面で言っても実際、それで被ったものとその他を比べた時の多寡は論ずる迄もない。

 

 ただ、それはその様な天秤にはかればこその事情であって、そうではない別の秤を用意すれば、その僅少の差も明らかに出来ようものではあろう。

 だが、その様な些細で瑣末な事共の一々の仔細というものを、微に入り細を穿つが如き審理にかける事を果たしてひとは概ね是を拒む。

 他方で、根付けやらしんこ細工なんかだと、その微細な変化・調子というものが風合いになって、ほんの僅かなカーブのとり方、凹凸起伏の描き方で印象は全く違って来る。その機微の有無を知っていようと知るまいとに拘らず、果たして事実は銘々各自の面前にあり、ただその価値は各々が目の底に反転倒立した図像として認識されるに止まるものである。

 

 果たしてあの飴屋の主人にしたとても、私の様な子供の事なんぞ、全く記憶にないに違いないのである。

 斯く言う自分もその店の在処をとんと記憶から失くしている。

 

 

(2022/11/14)