カオスの弁当

中山研究所blog

文鎮三昧

 文鎮とは隠語で「形ばかりで実際には機能しないもの」を指す。最近では、動かないスマートフォンも「文鎮」というらしい。随分古風な言い回しだと思うが、差し詰め現場では代々昔ながらの言葉遣いが残っているものだから、それらを踏襲したものであろうか。

 そんな意味があるとは知らずに「文鎮集め」を趣味にして、他人にも話す内に妙な顔をする人間も何人か居た。今更その訳に合点が行ってもだから如何という話ではある。木偶の棒が文鎮集めを趣味にしているーーなんぞは、冗談にしても詰まらない、という話であろう。

 とは言え、文鎮は歴とした文房具である。意匠も材質も多種多様で、古今東西、金属やガラスだけでなく、黒檀や紫檀などの重たい木や、天然石を加工したもの、陶製のものまで沢山ある。

 

 重たく、掌に載せてずっしりと来る固くて丈夫なものは、文房具の中では文鎮だけであろう。

 だから、いざという時の備えに何でも取り敢えず「文鎮」としてさえおけば、取り締まりの目を掻い潜る事が出来るーーという悪知恵ばかりが世間に流通して、文鎮集めも半ば、その様な危ない趣味かの様に見られる事も実際少ない事ではない。

 ただ、それでも文鎮の扱いはマシな方であろう。

 兎角世間は何かあれば、先ず道具が悪いとしてこれさえ無くせば人間の根性も悪くならないーーという横着をしようとする。それも果たして、自分らにとって都合よく、物を「文鎮」に仕立て上げるのと同じ悪知恵を働かせた帰結である。

 ペーパーナイフもカッターナイフも、この悪知恵によって遂に人間を悪者に仕立て上げる口実になってしまった。果たして危険なのは、そんな悪知恵を考え出す人間の頭であろう。

 

 そんな事を考える内に、気が付けば机の上がオブジェだらけになっていた。然し、手元の文鎮は実際の所、実用には軽過ぎて向かないものばかりである。

 本のページが閉じない様、押さえに使おうとしても紙の厚さに負けてゴロゴロと転がって行ってしまう。飛んだシーソー・ゲームである。

 幸い、鑑賞には適した造形の品が少なくない。今日も筍とキノコの文鎮を鉛筆削りの隣に置いたらすっかり馴染んでしまった。「明窓浄机」からは甚だ程遠い机上である。

 

 筍もキノコも何だか秋の印象はするが、何れも春が旬の食材である。炊き込みご飯の印象も稍もすれば秋ばかりに傾くが、筍ご飯は春の味覚である。又、秋に生えるキノコも沢山あるが、空気が湿潤となる晩春から梅雨の時期にかけても山はキノコで犇く。

 何かしら、その時々の、折々に合わせた小物があれば良いーーと思う気持ちが、其れさえ在れば十分と言える様な代物に手を出す事を躊躇わせる。軽く打ち合わせる事で聴こえるコツコツと澄んだ音は、鳴らす事も併せて気分がいい。割合、そうして文鎮を目より手より、耳で楽しんでいる自分がいる。

 そうして、文鎮になりそうなものがゴロゴロと転がっている水際を想像するにつけ、余りのめり込むのは危ないだろうと思った。文鎮を求めて水に浮かぶなんて、冗談だけの話にしておきたい。

 

 思えば、こんな文鎮を収集する様な趣味は赤ん坊が最初に手にする玩具で遊ぶ様なものである。ガラガラやら積み木やら、或いはグルグル回るモービルやら何やらをもてあそび、見聞きして楽しむのと何も進歩がある所ではない。

 鉱物や動物の骨角、貝殻や木の枝を玩弄するのはよくいえば「博物学的」であろうが、悪くいえば、全く「前近代的」であろう。不潔不衛生、そして不経済ーーの誹りを受けても致し方ない。

 手書きの文に意味はなく、その内容こそが意味であり価値なのだーーとする今の時代に於いては尚更、文鎮なんてものは全く「無駄」で、ただでさえ生きていくのに狭い浮世の場所塞ぎでしかない。そもそも、赤ん坊にしても前以てその価値が見出されてこの世に産する様な場所が世間である。

 だが、そんな理屈が如何にも悪知恵としか思えない、又感じ得ない者が意固地になればなる程、その身辺に場所塞ぎの藩屏が増えて来るのは必然の理である。

 すると、最早、その場所塞ぎの文鎮は矢張り、「文鎮」なのではないかーーと勘のいい人は直ぐ気付く筈である。そこに余計な、それこそが「無駄」である口実を見出した時点で、文鎮はもう文鎮の正体をなくしてしまう。而して、そんな事は断然あってはならない。

 文鎮のキノコや筍が似ても焼いても食えない様に、旬のキノコや筍が机の上に転がっていても、それは後刻、食卓に並ぶ品物である。

 品物には其々、相応しい場所があるというものだ。

 

(2022/04/28)