カオスの弁当

中山研究所blog

魘床奇譚

 

 あんまり画筆を執らない所為で夢に見たのかも知れない。ーー筆者

 

 一

 あんまりに寒いので目を覚ますと胸元がすっぽり空いていた。最近は筋肉が落ちて代謝も減っている筈なのだが、どれだけ食っても腹が減って仕方がない。我ながら不安になるくらいすっかり身体が薄くなっている。

 知り合いに膝が痛いのだと相談したら、「太り過ぎ」だと言われた。こんな身体で、と訝しんだが、要するに筋肉が自重を支えるのに十分ないから痛むのだという。

 言われると、それもそうだという気になって来た。然し、これ以上何をどうやり繰りすればいいのか。訊こうと思ったが別れてしまった。余り仕事終わりに執拗く付き纏うものではない。

 「そうか、それじゃあお父さんとお母さんによろしく。さよなら」

 我ながら随分嫌な挨拶をしたものだった。

 

 二

 ラジオを点けたら電話になった。

 男の声で、

「もしもしーーMさんですか? Kです」

という。

 本棚に見覚えのある俳優の名前が背表紙に幾つも見出せるのに、そのどの本にも覚えがなかった。

 K曰く、留守中に何度か家を訪れたらしい。

 最近何かと不品行の目立つ、謹慎中のKの事である。以前からそういう遊びをしていたとしても不思議ではない。

「いやあ、初めまして。でも、あなたも酷い人だ、幾ら訪ねても無視するんですから」

「最近流行っているんですか?」

 自分も自然と返事をしてしまった。すると相手には此方の声が聞こえているようで、

「詐欺だとお思いでしょう? まあ実際そういうのも流行っていますがーー私の場合、これは完全に趣味ですよ」

と、例によって甲高い、ガラガラした声音を響かせて笑った。その背後から、夜露に湿った植え込みの躑躅とかの揺れる音が聞こえて、今度は連れの女に替わって、彼女もまた自分に挨拶をした。

 

 成るべく気にしない様に、と思いながら、然し、何か記録に残すべきかと思ってキーボードを机の上に置いた。然し、キーボードだけで、それに何かを紐づける様な事もしなかった。此方のやる事は全部お見通しであるかの様な気がしていた。

 でも、それなら一興と思って、カタカタタイピングの音を聞かせてやろうと思うと、途端に緊張して指が強張った。昔鳴らした腕を聴かせようとして失敗する類の奴である。

 それも全部、彼と彼女の余興に過ぎないのだと思うと、畢竟、自分はKと同じく道化に扮するのが吉に思えた。そうして彼は門付の芸人宜しく、ことほぎの代わりにその日の寝床を得て、私は祝福を彼等より得るのであるーー……そう思えてならなかった。

 

 そうしてキーを押すと、小気味良く、小くて上質な豆菓子を指で指した様な感触が伝わって来た。

「コーヒー豆はキーに向いてませんな」

 そういうとKは心底、楽しそうに哄笑した。

 

 三

 催眠術にかかった男がいた。駅に近い、郵便局の前の辺りで、柳の枝に雪が積もっている。

 それを取り囲んで変装した軍人が何人も彼を問い質している。然し、実際男は男自身ではなく、先刻、軍人らが密かに山狩りをして殺した男の身代わりであった。

 小高い山の上から麓の町の人間を狙撃していた、その熊撃ちの男は随分長い事、山で熊を撃つ内にすっかり気が狂ってしまった。里へ降りるようになった熊を山から狙う内に、如何やら熊が人の皮を被っているという様な妄想に取り憑かれていたらしい。

 然し、彼自身は至って明晰で、「なめとこ山」とか童話や物語の印象ばかりで語られる様になって熊という動物の、その神性を徹底的に否定する現実主義者の一面を最後に発揮して見せた。だが、大声で大演説する彼の言葉は、寧ろ凶暴な獣物と成り果てた男の最後の化けの皮が剥がれた瞬間だと取り囲んだ軍人らには思われたらしく、彼らは早速男の身包みを剥いで、そっくり全部皮まで剥ぎ取ってしまった。

 

 それらは内々密に行われて、故に男の身代わりが必要であった。そこら辺を酒を飲んで憂さ晴らししていた、猟師とは似ても似つかない、メガネを掛けた優男の青年を送り込んだのは、1LDKの粗末な平屋の一軒家だった。

 ここでゴロンと縁側に寝かされた男の上には、剥がせれた皮の端切れの様なヒラヒラベラベラしたものがふよふよ漂っていた。それが、カルモチンだかメスカリンだか何だかをしこたま飲んだ男の終末期の幻覚であったか、或いは、その家の奥で屯して遊んでいる子供達ーー尤も、これらも誰かの妄想であったかも知れーーの観る夢であったのかも知れない。が、兎にも角にも、其の儘、男は毒に当たって死んでしまった。

 それから、その金魚の大群を追って子供達が銘々勝手に騒ぎ出した。

 或る男の子なんかは、自分の死んだお祖父さんの霊を呼び出して、海の底からもっと沢山の仲間を召喚して、家中を古生代の海にしてしまった。

 

 四

 又、同じ夜の事である。ガラスで出来たブブゼラを吹き鳴らしながら、追い詰められた男が坂道をゆっくり降っていた。最早逃げる気力もないらしい。

 刑事だか何だか分からないが、兎も角、彼は法廷に立つ暇もないらしい。だから最後にこの世の名残み一曲ーーというつもりらしいのだが、それが如何にも彼が吹奏しているのではないらしかった。

 

 自分は捕手の背後に立ってその様子を眺めていた。死に際の狼狽振りは如何にも演奏をぎこちなくさせる。然し、この際、もうその技巧の良し悪しは全く問題ではなくなっていた。

 男の体は後退りしながら、それでいて今にも仰向けに転げ出しそうになるのを堪える様に、爪先立ちで息を噴き出そうとするのだが、その様子がとてもではないが、楽器を吹奏出来る様子ではなかった。どころか、彼自身の顔にはっきりと、その演奏の音に恐怖している色が看て取れた。

 

 遅かれ早かれ、彼は死ぬ運命にある。然し、今は彼は必死に抵抗していた。彼の呼吸が悉くそのパイプに吸い尽くされようとしているのを観ていると、今にその類が此方に迄及ぶのではないか、と訳もなく怖気が増していった。

 それをそこらの石で打ち砕こうと思ってゆっくり近付いていくと、それはガラスでもなくて、よく出来たメイシャムのパイプであった。

 透き通った、白魚に似た色艶の楽器は確かにそれ自体から音を発していた。何処かの誰かがスピーカーから音を出しているというのでもないその演奏は、月夜にテラテラ光る路地の敷石と、その上で苦しげに足をガクガク震わせながら足掻く男の不恰好とによく似合った。

 軈て男は近くの建物の、鉄格子のついた半地下に連れ込まれて、パイプだけが道に放置された。残された楽器は首を切られた魚の様に、暫くまだ男が揺すっていた時の様に路上で、路面から一寸浮いた感じで、丸で爪先立ちでもしているみたいにボウフラみたいな動きをしていた。

 軈てその蠕動も静かになると、後にはけたたましい音声だけが深夜の街中に鳴り響いて止む気配がなかった。

 パイプはゆっくりと坂道をずり落ちていった。

 

 五

 家と家との隙間に身を潜めていると、街宣車よろしく、宣伝カーが直ぐ近くにゆっくりと止まった。「御用じゃありませんか、ーーいや、御用があるかと確かめに来たんじゃなくて、清算に来たんですよ」という声の主は、あのKであった。

 先程から寒くて何度か目を覚ましていたが、目を開けても依然部屋は真っ暗で、そんな時間に起きた所で身体に障るだけだったから寝付くとしたが駄目であった。

 

「然し、いい趣味をしてますね。歳は幾つですか?」

と言われたので思わず目を覚ますと、ぽっかり空いた胸元の辺りがまだ温かった。指の先で布団の中を探すと、骨張った痩せぎすの八歳位の色の浅黒い女の子が、碌に寝巻きも着ない侭で隅の方で蹲っていた。

 明らかにKの視線を感じていた。

 何歳かと問うと十八だという。絶対そんな事はないと思うので、もう一度質問すると、アストラルだかミストラルだか、要領を得ない事を言って埒が空かない。

 その内、障子の向こうが白んできて、赤い下着姿の下に浮かんだ骨張った身体と、その皮膚の下に減り込んだ黒い瞳とが陰影を濃くしていくのを認めた。Kはまだそこにいるのだろうか、と不安になった。此の儘、朝を迎えるのだけは何とか避けたかった。

「それで、その何とかいうのは抜きにして、精神年齢とかじゃなく、君は何歳なんだい?」

「それはお父さんがいつもいうようにーー」

 そんな問答を続ける内に、ピカーッと外で曙光が隣家の屋根の上に瞬いた。黒い髪はゴワゴワして、すっかり栄養失調というに相応しいのだが、矢張りそこには瑞々しい生気が宿った身体がそこにあった。

 

 六

 「だから言ったじゃありませんか、斧(アックス)だかトロフィーだか知りませんがーーどうせ道具なら使わなきゃあー」

 そういうと電話の声はプッツリ途絶えた。部屋の中は暗くて、依然、障子の陰は青だった。

 ーー十七、プロモーション旺り、というキャッチコピーが直ぐに閃いた。それもKと同じく、自分の書架では見覚えがなかった。然し、妙に納得してしまった。確かに、斧もトロフィーも、飾るだけでは意味がない。

 

 起き出すと、外はもう後二度下がれば一桁台の寒さであった。

 

(了)

(4:54 2022/10/07)