カオスの弁当

中山研究所blog

#クラブサイベリア 

 

 加速して壁も波打つサイベリア

 

トロピカルとか何とかを頼んだつもりだったのだが、結果としてシュガーフリーで良かったといつ以来かのエナジードリンクを啜りながら思った。

鏡とは人間の見た目の空間を拡張する装置でもあるーー。漫ろに会場を上り下り(場内もメインとなるフロアーが展望しやすいように幾つか壇に分かれている)する内に、そんな事をふと思った。

この調子なら、鏡の向こう側に現実には存在しない人間の一人や二人、混じっていたとしても気付きやしまい。なんて思いながら眺めている内に自然と拍子を取り始めていた。

 

表通りの道玄坂に対するウラとは交番前の交差点を過ぎた向こう側でもあり、天地の逆を行って地下でも又其れは意味をなす。

見上げれば地底の天井は、普段足下に敷いている大地の裏側だ。

 

何処からが現実で、何処からが鏡像なのか。

渋谷という街にはオモテとウラがある。正/反の変換は自在に行われる。其れが地形に現れている。渋谷の坂の所為なのか見た目には其れは容易に分かり難い。

 

地下空間は本来なら其処に立つ事の出来ない、始原の仮想空間といえる。山腹に口を開けた洞窟や、樹海の樹々の根本にあるという風穴などは、正しく異界の入り口とは言い得て妙である。他界というのは何も空中にあるという許りではない。

ミラーボールの実物を目の当たりにするという事自体少ない訳だが、其れが実際機能している光景というのは愈々少ない。地底の太陽は光源を反射する、積極的な可視体だ。

 

大音量の中に佇んでいると、内部からのフィードバックがある。即ち振動している(共振ではないが)震えている肉体の感覚がクラブの爆音によって自覚されるのだ。耳鳴りに似た感覚や心臓とは異なる内部の振動が、普段「不可視の肉体」を能く能く実感させてくれる。

この振動という信号の共有こそが体験の「分有」と言える。だがそれは立ち位置により異なる。聞こえる音は実は占有されたものであり、各々の拍子は固有の刻み方をしているのだ。

 

(2019/11/16)