カオスの弁当

中山研究所blog

虚無と空虚

 

 公衆電話が撤去されて、ぽっかり空いたスペースを、「公衆虚無」と呼ぶそうだ。

 廃墟と言うべきところであろうが、然し其処を、敢えて「虚無」と呼ばれる点に、最早其処には嘗て何かの存在した遺構である、という事さえも失われたニュアンスがそこはかとなくうかがわれたりする。

 

 仮に「廃墟」であったなら、其処は未だに「公衆電話」乃至「電話コーナー」と呼ばれている筈である。所が、公衆電話自体が、歴史に登録され、現在という時間的地平から追いやられた今日、其処は呼び名も無くなって「虚無」と呼ばれる。但し、其れは嘗て其処に何があってどんな用途で使用されたか、或いは整備されたのか知っている人間にとっては当て嵌まらないと思われる。特に、繁く利用した世代にとっては尚更、其処は何時迄も「旧・電話コーナー」であろうと思われたりする次第である。

 

 だが、一方で元に何があったかも体験していながらも、「虚無」を見出し得る人間が居る。

 蓋し、そうした人間にとって、其処は元来「虚無」であった。公衆電話が撤去されたから、訳も分からない壁龕と成り果てた空間は、其の撤去以前、設置される前からずっと虚無であったーーと見えるのである。

 虚無は果たして、電話機という装置を設置する為に相応しい余地であった。虚無は以って字の如く、何かに依って充し得る可能性の余白である。其処は、「拡張された現実」であり、同時に何か電話機の様な標識がなければ認識もされない「この世」に於ける空虚であった。

 

 空虚と虚無の違いは、果たして其処が使用の可能性を拓く事が可能か否かである。言うなれば、空虚は、如何ともし難い、死地である。是を何かあれば活用し得るのが、虚無である。虚無は寧ろ、だから伸び代としての価値がある。

 

 故に、公共虚無という概念も生じたものであろうと考える次第である。蓋し、其処は想像の余地であり、何かを飾ったり、或いは休憩スペースなり待ち合わせ場所なりに転用出来る、創意工夫と可能性の羽根を伸ばす空間であって、寧ろあった方が時に都合が好い。

 

 其れに対して厄介なのは、空虚の方である。

 これは、何の謂れか知らないが立ち入る事が許されない「開かずの間」を代表例として上げる事が出来る。其処は、果たして虚無の様に人間の想像や工夫を拒む性質を有する。中は真空である。外部からの侵入者にとって、其処は屡々危険である。というのも、其処は大概秘密がーー然も、大抵知らない方が好ましい類の秘密がーー隠されているのである。

 ただ、大抵は虚無と違い、空虚は其のある事自体が伏せられている場合が多いので、早々、無関係な人間が其の秘密のある事自体を知るには至らないのである。

 蓋し、都市伝説に登場する陰謀論は、此の「空虚」の存在を暴き立てる様な内容のものである。有名な伝説であると、「空虚の中心」の地下にあると噂される秘密の地下鉄道が挙げられる。

 探せば実際、其の手の「空虚」は例えば企業の帳簿だったりに見つけられたりするのであろうが、そんなものを探している様では危なかしくて仕方がないだろう。

 

 其れと比べたら、虚無はずっと他愛なく、楽しいものである。其のスペースには、公衆電話以外にも様々なものが設置出来る。

 だが、其処には何もないのが最も好ましいのではないかーーというのが、筆者の主張である。蓋し、其処は猫の額に足らずとも「空き地」だからである。

 

 (H30/3/9)