カオスの弁当

中山研究所blog

いづれバッシングされる缶コーヒーについて

 そう遠くない将来、缶コーヒーやらエナジードリンクやらが、危険な飲料として槍玉に挙げられることがありそうな気がする。だから、それより先に何か色々思うことを書き残しておく。

 土台、そんなものを飲んでぶっ倒れるまで遊びたいのに、遊ぶ時間がない、休む時間がない、蓋し余裕がない、不健康なのが問題なのだが、そう冷静に分析したところでなんぞちっともおかしくもない。

 面白さがないのは、大変な問題である。

 缶コーヒーやエナジードリンクを飲むのは、そんな面白おかしくもないものに興味を持たないようにしている面々が専らだ。飲むのが、なんぞ面白くないことになりそうなら、手に取らない。何故なら、それが自身の立場を維持するルールだからだ。

 要するに、それを飲むことが意思表示になるようならば、隠れて飲むか、金輪際飲まないようにするのが、中間層を自認する者の傾向である。知らぬふりも出来ず、かと言って素面で居続ける事も出来ない。そんな半端な身の上を是として生きるなら、成り行きでそうするのであるが、飽くまで自覚としてはそれは「なる」に遛まるだけで、罰則が付帯され堂々と水を飲めるようになるまでそれで凌ぐのである。

 そうした根性なしの卑怯者は、別に缶コーヒーを愛飲するのでもなし、ただ奇妙キテレツな娼館の如き自販機の宣伝と、目を惹くデザインを纏ったコーヒーに、その謳い文句に唆される様に努めてナアナアに硬貨を落としては、ものの序でに缶の蓋を開ける。どうしてそれが気分転換になるのかは、深く考えないのが何よりコツであり、そうする事で山場を一つ又一つと超えて、際限のない時間をだらだらと持続させるのである。

 21世紀は紛れもない、カフェインの世紀である。しかし、それがどうせ碌々反省される事はないまま、人類史は22世紀だろうが23世紀だろうが持続するのだ。反省しないからこそ持続され、果たして保たれる命は数知れない。それが齎す陶酔と、それが欠く得べからざる状況は表裏一体に違いないが、それは振り返ってから見ればの話で、現在進行形でそれらが共に起きる事は困難なのだ。

 その自販機の収益が、何処に流れるのかも考えることすらしないで飲むコーヒーはうまい。

 うまいコーヒーを得るために、飲み干すのは缶の中身と頭の中の凡そあらゆる一切合切の思考である。幸い、それで黒染んでしまう胃の腑ではない。

 塗り潰すうつつのないのが幸いで、感覚そのものを麻痺させ、現実を回避するに努める。ためにコーヒーを飲むのである。一切の疑問をさしはさむ余裕を失くしてこそ、生じる遊びもある。当然、その余裕というか遊びは、自身の余命に違いないのだが、どうにもならない状況に於いては顧みる事自体を禁じないでは、それらは決して得ることが出来ない有難い代物である。だから、ある意味で喫琲は勇気ある行動を鼓舞する、昔からのカフェインの使用の例とも言えよう。

 だが、結局はコーヒーの専らな効き目は、覚醒作用である。起きない身体に鞭打っても反応しないのは当然だが、ふとした弾みでその刺激が、疲れから昏々と眠りこけてた何某かを目覚めさせるきっかけにはなるのかも知れない。勿論、そんなのは夢物語に違いないのであるが、そんな怪物もまあ、21世紀にも出現しておかしくない話である。おかしくない話ではあるが、それは果たしてそこそこ面白い話かも知れないと思ったりする次第である。

(2020/07/23)

 

追記:ここに書いた様な事を漫画にして描こうとしたのが何年か前なのであるが、それから何年経っても、結局こんなのは漫画にするだけの甲斐がないのに薄々気付きながらも、自分を騙し続けて描かせようとしていたのであるが、遂に断念した。その記念と腹いせに、ここに記す。