カオスの弁当

中山研究所blog

カント時計の謎

 カントの規則正しい散歩についての逸話は恐らく創作だろうが、彼自身の散歩の習慣については、実に最もらしく思われる。

 ただ、その散歩をしていた時期がいつなのかは甚だ怪しいが、これは創作者の爪の甘さ、設定の不確かさに由来するものだろう。

 鬱屈とした気分を晴らすのに、散歩はうってつけだという事は、今日世人も知る所である。果たして、名うての学者の散歩は、彼の業績よりかは幾分も理解されるものであろうが、果たして、彼の正確な散歩というのはどのようにして可能かについては、一考の余地がある。

 この逸話は、カントが暮らしたケーニヒスベルクの人々は、散歩する彼の姿を家の中から見て、時計を合わせていたーーというものである。これと似たような物語には、日本の鉄道の時間の正確さを讃えるもので、その話ではカントに代わってホームに到着する列車が登場する。

 所で、後者のエピソードは鉄道会社のサービスを称賛するものである。だが前者の哲学者の散歩ついては、彼の散歩は市民へのサービスではない。然しながら、その正味な部分では、このエピソードは、そこに登場する市民にとって、この哲学者と彼の業績がどのように映っていたのかについて、些か辛辣に示唆していると考えられる。

 市民への貢献という評価に立てば、カントの仕事は散歩をして時間を報せる程度のものだった。

 当時の時計の性能や、それに付随する現在との時間に対する正確さへの要請を考慮したにせよ、果たしてそれは然程役に立っていたとは思われない。というのも、ケーニヒスベルク位の都市には時鐘はあったと考えるのが妥当だからである。

 当然ながら、彼の散歩というのも又、彼の時計同様に教会の鐘によって調整されていたに違いないのであるが、そうした背景を踏まえて、彼の市内の規則正しい散歩についてのエピソードを改めて読むと、そこには更に辛辣な皮肉が込められているように読める。

 「ケーニヒスベルク」という名前からして、それは暗示的なのだが、彼はそんな『王の山』の中でカラクリ時計の人形の如く、散歩していたに過ぎなかったーーというのが、即ち明らかになるのである。又、それは彼の思想信条、性格とも矛盾するものではないから、ますますを以って、シニカルである。とはいえ、カント自身も大概シニカルであり、又、講義も中々にそうした趣であったという。

 

 散歩するカントの逸話は、カントに対する皮肉が読み取れると同時に、彼の暮らしたケーニヒスベルクの住人の「お国自慢」も垣間見れるだろう。

 荘厳な教会やその鐘の音は屡々、その都市民にとっての誇りと成り得るが、それに準ずる、もとい、従属するカント教授はケーニヒスベルクという都市のシンボルとして機能していた事が、逸話からは見えて来るものである。

 容易に想像出来ようが、このエピソードは、他所に出掛けた当地の出身者が、世界的に名高い学者の出身地である故郷と、そこの生まれである自信を誇るのに持って来いの逸話なのだ。カントの哲学は難解で説明出来なくとも、彼の性格の一端を自分や自分の先祖は垣間見たのだーーという自負心が、話者の中で捏造される。

 劣等感を背景にしたこの手の自慢話への批判は、内容に関する批判もすぐさま、物語の伝承者達によって、その舞台となった場所への批判へとすぐさま擦り替えられるものだが、それはこうした訳である。

 

 さて、改めてカントに注目すると、物語に出て来る彼の内には、そんな市民の劣等感が看取されるものである。几帳面な性格は一面で排他性を帯びて、彼を余人の近寄り難い学者として、世間から隔離してしまっている。又、そのキャラクターには、後年、彼を崇拝した無数の人々の鬱憤も反映されていると見て間違い無いだろう。

 史実に於いて、カントは相当に社交家であったという。馬具職人の家に生まれた彼が、単に其の頭脳の優秀さから引き立てられたーーと考えたがるのは、彼の追蹤者を(本人は秘かに、と思い込んでいようが、果たして外目からは明白に)自認する人達の境遇がそう仕向けるのであろうが、生憎と運と知能ばかりでは如何にもならないのが、古今東西、世間である。

 カントの人となりについては、残された資料から見るにつけて、変わり者に相応しい容貌であった事も分かっている。それも又、彼を「名物」にするに貢献したのだろうが、兎も角、今日彼の名はその物語を表すものであって、彼自身を語るものでは殆どない。それも又、世の常であろう。

 

 所で、筆者はそんな彼に因んだ時計のアイデアを持っている。それは、決まった時間に、決まったルートを規則正しく巡回する、人間をムーブメントとした時計である。

 その姿を見て、近隣住民は時計を合わせる訳だが、それは道路から観測者の目までは光の速さで届く訳だから、時報を聴くよりも正確であろう。

 大体、そんな暇そうな人間は町内に一人くらい居るものだから、其奴に散歩序でにフロックコートと帽子とステッキを持たせて歩かせてやれば、十分本人も満足するに違いなかろう。

 其の肩の上には、カントの幽霊が下りているかも知れないが、所詮其れは空想の産物に過ぎないので、安心して構わない。オリジナルの霊魂(そんなものがあるかはさておき)は、遠い異国の地の底か、深宇宙の辺縁に眠っている事だろう。 

 

 ーーさて、こんな風にして、筆者は得意げに書いてしまった所で、はたと既にしてそんな事を黙々としているかも知れない人達の居るかも知れない事について、気が付いてしまった。

 然しながら、そんな事は何か心配するような事では一切無い事にも直ちに思い至った次第である。というのも、誰も他人の頭の中の事なんぞ、関心の無い事だからである。窓の内からも外からも、カーテンの向こう側の事なんぞに気を揉むような精神状態というのは、其れこそ、散歩でもして改善した方が、余程現実的に健康的であるというものだからである。

 

(2020/09/01)

勘所

 

「機械の性能が向上した結果、人間に残されたのは、箱に物をつめるだの、そんな仕事だけになってしまった」

 

と、ある漫画家が云った。

 成る程、立派な仕事をしている人は言うことが違う、豊かな想像力の持ち主だ、と素直に感心した。

 

 ただ、感心するだけである。だから自分は絵が描けない。漫画も描けないし、それで金を稼ごうというのは丸で夢物語である。

 そんな描けない言い訳がましく、仕事と託けて、あちこち回るようになって早半年が経った。自分は所詮、足りない頭を足で補う事しか出来ない粗忽者である。

 

 機械が奪った人間の機会は、初めからそんな機械を作ろうとして作った人間たちが、予め奪っていたものだーーという事を言わない絵描きは、やっぱり、自分と違うのだな、と感じた。

 そんな自分は拗ね者である。だから、自分の描くものは、何の面白味もないものばかりであるが、違いは結局そこにあると思われる。

 

 彼らは堂々としている。皆無冠の帝王然として揺るがない。何より其の威厳が価値の源になっている。

 ただ、自分は誰かれもが、恭しく捧げ持つようなものを下賜するほどに高みにいる訳じゃないから、無理して奢る必要は毫もない。

 いじけている訳じゃない。事実である。

 自分はケチで貧乏だ。

 

 又、別の漫画家が、自分の作品に対してイチャモンをつける輩に対して

「そんな奴は全く人目につかないところで、雨水と埃でも食らって生きれば良い」

と云ったらしいのを目にして、すっかり感心した。

 その人は大家であるし、自分もその作品に多大な敬意を抱くものの一人である。

 故に、尚のこと、深く感じ入る所である。羨ましい限りである。自分にはとても彼のようにはなれない。偉大な作家、気鋭の新人ーーそんなものにはとてもなれやしない。即ち、そういう振る舞いが出来ない。気概すら持てないのである。皮肉の一つも言えやしない。ただただ「偉いのだなあ」としか思えない。何をもって偉いのか、というと、ただ彼らの言動をもって足る。

 そんな拗ねた気持ちが、尚の事、自分を陽の当たらない、蒸し暑く居心地の悪い蔵の中に身を潜ませるよう差し向ける。

 

 自分の心臓は、針の音にさえ敏感に反応する。だから、不満な時には不貞寝してやり過ごす。

 然し、彼らの心臓は、外とは全く独立して動いている。平常心とは素晴らしいもので、恐らく胸の肉三ポンドと一緒に切り抜いた所で、かの心臓も腕も、止まる所を知らないのだろう。勿論、一滴の血も落ちたりやしないのだろうから、全く以って羨ましい限りである。

 

 これ又、他のイラストレーターが、自分の断りない所で諸事が進められていたのを、これ又彼らに断りない所で散々に非難しているのを見ても、自分はその勇ましさに畏み震えるばかりであった。

 

 

 成る程、高名な作家、絵描きも人間であるという。

 然し、自分にはとても彼らが同じ人間とはとても思われない。

 彼らはとても素晴らしい人たちである。高邁で健康で、そして何より逞しく容赦がない。

 床屋の髭は誰が剃る、とか、按摩の腰は誰が揉む、とか。そんな事を考えながら、永久機関の事ばかり考えて、この歳ばかりまで生きている人間には憧れようのない人間である。

 

 一人でに動き続ける機械は、どんなに止められようとも動き続ける機械である。誰がどれだけ痛めつけようとも、壊れる事なく動き続ける。それはこの世に現れた途端、この世の条理を破壊し続ける機械となるのであろうが、幸いにも、その様な破壊の限りを尽くそうとする機械には、これ又対となる、限りなく破壊される世界そのものがなければならない。

 そんな世界がない限り、機関は空想の中ですら動き続ける事はないのだ。

 怒鳴り声が何時か聞こえなくなるのは、物忘れの酷い大気の厚い層があるからだ。

 

 感心する。それは自分の謂わば、生体反応である。突かれたら仰反るし、捻り上げられでもすれば、ギャッと泣き喚くだろう。

 それを見て人が笑うのも、憎むのも生体反応ならば、それを見て拗ねるのも又生体反応である。そんな生体反応の中で最も簡単に起こせるものは、痛みに対する反応である。

 

 ただ自分は感心したいのではない。出来ることなら、感心するだけのゆとりのみが欲しいのだ。こんな所にも、自分の身体があったのだーーと気付かせるのに、千枚通しや焼け火箸しかないというのは、全く妙な話だが……。

 

 

 プロの言動や仕事を見ていると、流石に勘所を熟知しているものだなあと一々感心する。

 飴を口の中に放り込むタイミングを、本当によく心得ている。

 

 確かに彼らも人である。

 但し、自分はそうまでして人であろうとは望まない。

 

(2020/08/25)

 

 

 

ラムネとかんぴょう

 甘い巻きものであるかんぴょう巻きは、子供時分には得意ではなかった。

 米の飯であるところのおかずに甘いものを食べるのに慣れていなかった所為である。

 同じ理由で、花でんぶも得手じゃなかった。

 

 最近、それらを平然と食らうことが出来るようになったのは、蓋し、酒がまるで飲めない事がわかった為である。寿司屋に行って、何を食うにせよ、自分は先にさっさと腹をいっぱいにしてしまう。一人で食べている分に是は全く問題ないのであるが、他人と食っている場合になると些か事情は違ってくる。

 

 オレンジジュースとか、りんごジュースというのは大抵の店にはあるものだが、サイダーとかラムネになると、置いてない店も少なくない。

 あれば大体頼むのがサイダーだ。しかし、なお選択の余地があるならば、ラムネを頼む。大抵、夏の風物詩であるから飲む時期も自ずと決まってくる。だが、年中置いてある店だった場合には、同席者にも寄るが、ラムネを選ぶ。

 当然、ラムネは甘い。すると、敢えて塩っぱいものと合わせるのが不穏になる。

 そこで注文するのが、甘い食事であるかんぴょう巻きーーという事になる。

 

 如何にも、何処かの誰かが既に書いてそうな事であるが、結果としてその誰かと経路は違うものの、たまさか同じ結論に至ったーーというのは、大抵の場合、信用されないものである。

 ただ、こういう場合に於いては自分が信用されるか如何かはさしたる問題ではない。

 そこに至るまでの経過が個人的には重要であり、その結果として得られた知見の御他人にも通用し得ると証明される事が普遍的に重要な事項なのである。

 

 かんぴょう巻きは、ラムネに合う。

 恐らくどちらも、それだけ頼む客というのはいないのであるまいか?

  

(2020/08/16)

山と如是閑(3)

 私自身は針ノ木峠という名に一種の憧憬を持っていた。

(中略)

 この荒廃の感じは、この峠が明治の初年に加賀藩の士によって一度開かれたことがあるにもかかわらず、その狭いつとはなしに荒廃して、初期の外人山岳家などは多くこの峠を登山術を超絶した険路のように記載しているというような話と一致して私の幻想は薪を添えられた。けれども、私の幻想は、いつでもそうであるごとく、ここでも山と人とがはじめて出くわして出来た、いわゆる山のロマンスに酔うという質のものではない、私の山はまだロマンスの技巧を知らないただの山でなければならない。私はヒストリーのない国に行きたいのである。荒れて廃れて人間がその上に作った歴史の頁がズタズタに裂かれて打ッちゃられたところを、私は針ノ木に見出そうとしたのである。

――『日本アルプス縦断記』(1917)、前記(一)より 

  本人はかく記す事によって、彼自身の「ドイツ嫌い」の機微を此処でも鮮明にしているようだが、果たしてそれが何処まで成立しているのかそれは怪しいところだ。

 長谷川が「科学欲からでもなく、審美欲からでもなく、また世間にいう山岳家と称する人々のようにこの二つの欲望に合致した動機からでもな」く、山に抱いた憧憬は果たして人間が容易に存在しえない苛酷な領域としての山であった。

 

 1917年と言えば、欧州大戦の真っ盛りである。陸海空の新兵器が膨大な人命を消耗して、20世紀の文明の仇花を咲かしていた只中に彼が憧憬を抱いた山は、そんな戦争も人間が展開出来るか怪しい極限の環境であった。彼の遠征は、厭世気分に因むものだが、その発想の根源には、時代人らしい冒険欲・征服欲も孕んでいる。

 彼自身がその後、大衆を相手に言論の場でも味わう失望は、彼自身が果たして冒険者として臨んだ結末であったが、此の当時、未だ旺盛な新聞記者である長谷川が独身貴族的な陶酔を感じていなかったとは考え難い。又、真に彼が自ら言う「ひとりもの」という境遇は、実際そうあり得たものと考えるのも早計だろう。寧ろ、そうして一人であろうとし、「歴史の頁がズタズタに裂かれ」るような場所に行こうとしたのは、彼がそうではいられなかった事の裏返しではないか。

 

 長谷川の独身者としての評は、事実上の妻帯者でもない事を意味に含んでいる。

 80歳になった如是閑は、雑誌『文藝春秋』が企画した元・陸軍大将の植田謙吉との対談の中で独身を通した理由を簡潔に述べている。

  私は若い時分に結核をやりまして、そのために独身なんだけれども、すっかり治ったときに、お医者さんが、もう結婚してもよろしいと言った。結婚したら困るだろうと言うと、いや、むしろ結婚したほうがよろしい、細君が世話をするからというのだ。ところが私の友人で、この病気を持って結婚したものは、みんな死んじゃってる。もちろん結婚しなくても、ほとんど死んでるけれどもね。(笑)これはつまり節欲生活が足りないのだ。結婚してもよいから、節度を守ればよい。医者もそう言った。しかし、私は節度を守れそうもないから、結婚しないと言った。

――『女を避けて八十歳』、『文藝春秋』34巻11号、1956年11月

 「節度が守れそうもないから、結婚しないと言った」という明け透けな言は彼自身のものなのか、それとも編集者の手を経たものなのかは定かではない。だが、ここで示された長谷川の結婚並びに女性観は、彼の生命を奪い取るものとして示されている。ただ、それは女性による一方的な簒奪ではなく、男性の節欲の不十分さにあるという考えを示している。

 誘惑する女性にその因を求めるのではなく、男性である自身の節度の無さに長谷川が独身者たる理由を求めるのは、彼が自身の生命を自身の支配のもとに置こうとして、それに並々ならぬ注意を払っているからに他ならない。

 彼の生への執着は、就中、一個の人間としての卑小さに対する抵抗の色が鮮明である。ただ、己の運命に対する抵抗と同じく、彼は今一つの未来への抵抗を見せる。それが、女性とその誘惑に応じた帰結としての死に対するそれである。

 

 登山が長谷川にとって健康法となり、その後、長らく愛好された事は既に述べたが、彼の健康法は登山だけではなかった。取り分け知られているものの中には弓道があるが、其れ以外にも日々の食事や嗜好品、社交においてもそれは徹底されていた。それは単なる身体的配慮だけではなく、精神的修養の色も濃いものである。

 酒もタバコも吸わず、女性を身近に置くことなく、万巻の書物に囲まれて暮らす「芦屋聖人」の異名を与えられた大阪朝日新聞時代の彼が、当地に於いて異質であった事は想像に難くないが、其の異質さは彼が相当意識して固持し続けたものである。

 だが、それが下町と職人に代表される価値観へのノスタルジーに強く裏打ちされたパフォーマンスだった、という見方は、独身という態度で示された女性を巡るもう一つの抵抗に触れられていない点で今一つ及ばない感がある。

  

 長谷川の前に、女性は彼の健康を損なう、精神的危険として現れる。これに対して、彼はその狂気に抗う為に、彼はその魅力の解体を試みる。その代表例に、最初期の文芸作品である『如是閑語』(1907、『日本及日本人』に連載)がある。滑稽とサタイアの内に、それを単に冷笑にふすのではなしに、読者へ暗に反省を促す。だが、筆致は箴言というにはナンパであり、寧ろそれは諺が似つかわしい。そして、諺の体裁を取る事は、著者の権威に依拠して影響力を持つ箴言に対して、そのメディアの読者に対する影響力を借りる事を意味する。

 日本アルプス縦断も、果たして大朝という大衆紙の持つ財力によって実現した企画であった。大阪朝日新聞という大衆紙に所属していた期間の数多の「出張」は、結局、彼を買った社の彼に対する疑いもない投資であり、それに対して「プロレタリア」として彼は応じたのであった。それは、後年、インタビューの場で彼が否定した、サラリーマン的な新聞記者としての活動に他ならない。だが、こうした見方が行き過ぎて、当時の紀行文について、彼が生活の為に記したものだと一瞥にとどめてしまえば早計である。又、大阪朝日新聞に於ける長谷川の今日にも遺る“功績”には、高校野球選手権大会が挙げられる。これは社内で企画が上がった時に長谷川がその開催を推したのが開催の決定に影響を与えた、と言われているが、それが単に青少年の運動を彼が奨励する立場からなされた意見と見るのは、余りに事情を単純化しているきらいがある。

 

 女子は月経に支配せられ、男子は月給に支配せらる

と、『如是閑語』に記した如是閑であるが、彼はそれに抗う人間像を文芸作品の中で描き続けた。処女作『ふたすじ道』が長谷川文芸作品の筆頭であるとしたら、その二番手に挙げられるだろう『象やの粂さん』は、華族の子息の玩具に甘んじる象と自身の境遇に憤懣やる方ない象飼の「粂さん」が登場する。だが、運命は彼を嘲弄するかの如く、屋敷に出仕していた彼の一人娘・きいちゃんを「殿様」の妾にしてしまう。

「なんでえ、若様だって、餓鬼は餓鬼だ。……あんな餓鬼にヘイコラしねえんじゃ飯が食えねえんだ。……おれだってそうだ。ゴルさん〔引用者注:象の名前〕と一緒になって、チンチンしたりお辞儀したりしているんだ。全体あんな大きな図体したゴルさんが――れだってそうだ。これでも一人めえの人間だ――そいつが二人揃って、あんな餓鬼のめえで、チンチンしたりお廻りしたりして、堅パンの一つや半分貰って喜んでいるたアなんのこったい。(後略)」

――『象やの粂さん』(1921)、発表:『中央公論』36巻1号

 一度は象飼という天職を失った粂さんが、再び象飼としての職を得て、自身と自身の活躍の場を得た後に、その境遇の惨めさに覚醒した後の顛末は余りに残酷である。だが、そうして一人娘を運命に奪われた男は、真に覚醒のイニシエーションを経たとも言える。だが、その喪失経験は屡飲んだくれる粂さんにプラスに作用するような気配を物語は帯びていない。彼はその身の境遇にただ満足していれば良かったのである所を、つい批判したが故に罰を与えられたのである。

 長谷川の大朝退社の顛末が語られる際にはぐらかされがちな一面は、同社内の経営方針の転換が即ち、当局からの弾圧によって破裂したという側面である。だからと言って、すわ此処で如是閑と粂さんを重ね合わせるのは牽強付会というものだろうが、此処に彼の皮肉屋としての、そして道化の悲/喜劇を看取する事は可能だろう。

 

 彼のキャリアに影を落とす大衆紙での記者生活は、彼に洋行の機会を与え、且つ大幅な経費の増大をも許容して見聞を広めさせ、そして何より彼に名声を齎した。そんな大衆的関心が、彼自身の関心を知ってか知らずか峻険なる高山へと彼を向かわしめたのである。聖人然とした変わり者を極端な環境に送り込んだらどんな反応を示すだろう、という関心は今日もなお耳目を誘うのに有効な企画である。

 アンチ・ヒロイズムの新聞記者は所詮読者の玩具に過ぎない。であるが故に、彼は自らの境遇を承知して山に向かう。そして、「そんな物語の成立しない国」へと行こうとするのだったが、それが実現出来たかどうかは彼の成功から推し量りえるだろう。

 人間の足跡を拭い消して、原始に帰ろうとする自然の努力――というよりは好みは、そうした深い山国の沢の奥へでも入らなければ到底見ることができまい。私はそれを針ノ木に行って味わえると空想していた。もし私がそういう境地に入ってそういう自然の強い好みに同情することができたら、私自身も私というものを踏み躙って私の上に惨たらしい印をとどめている人間の足跡を拭い消して、そうして私のままの私、ほんとうの私を私に見出すことができやしまいかと空想していた。

――『日本アルプス縦断記』(1917)、前記(一)より 

 彼が山で求めたのは、一個の人間としての自分自身であった。山は彼自身の痕跡を破壊する場であり、それを「好み」とする場であり、そこへの没入は彼が危うんで立ち入ろうとしなかった女性に対するアプローチに匹敵するものだった。 「世間の山へ! 山へ! という声」とはかけ離れた彼の「沈みがちの気分」は「科学欲からでもなく、審美欲からでもな」い深源から発せられたものである。

 ある意味で独身者は意思が弱いのだ。細君があったら節度を守らなかろうという気分がある。そういうおそれがあるから、むしろ独身の方がよいという結論になるのだね。私はなにもそんな理論から、科学的に独身じゃないのだよ。私の友人で、結核で結婚したものはみんな死んでる。だから、生命の安全を守るには独身がよいというわけで、植田さんみたいにちゃんと節度があったらよいけれども、私などはフィロソフィー(哲学)があって、独身じゃないのだよ。

――『女を避けて八十歳』、『文藝春秋』34巻11号、1956年11月

 「科学的に独身じゃない」長谷川の態度は、若きに日にあっては、仕事とはいえ、生命の危機に自らを曝してでも山に登ることも辞さなかった――という演出を凝らす事が必要な程度に甚だしいものであった――。

 

(続く)

 

(2020/8/13)

山と如是閑(2)

 如是閑は屡、ディオゲネスを作品の中に引用、或いは登場させる。また、そのシンボルである樽が小道具として、或いは人間を翻弄する要請的存在として登場する小話が、『山へ行け』が収録されているエッセイ集『真実はかく佯る』(1924年)には収録されている。(『十返舎一九のロジック』、『酒樽と人間』)

 そして、樽の他に、彼がこの賢人を想起させるモチーフに胎児がある。

 ディオゲネスと長谷川の関係は、戦後、彼が文化勲章を授与された翌年の1950年に再版された『真実はかく佯る』(朝日新聞社)の冒頭に冠された『英雄と民衆と真理』(1919)によって、アレキサンダー大王に象徴されるオーソリティに対して、動じることのない哲人・ディオゲネスとを長谷川と対照させる形で強調された。だが、この『英雄と…』は、初版である1924年『真実はかく佯る』(叢文閣)には収録されていない。

 1924年版の巻頭を飾るのは『野蛮人のイニシエーション』である。これはタイトル通り、世界各地の「野蛮人」のイニシエーションについて、その社会の成員として若者を迎え入れる為に行われる通過儀礼についての彼の考察が示されている。

〈……〉その苦行は残忍な肉体的苛責であったり、魔術による精神的苛責であったりする。それは極端な禁欲と耐忍とをその青年に要求して、彼れをして垂死の状態に到らしめ、依って彼れの肉体を物質的に又精神的に空虚ならしめて其の空虚になった肉体に、其の社会が作って置いた典型的『部落民たる素質』を填充せしめるというのが、此の儀式の要点である。

このエッセイは、上の考察が最初に述べられた後、具体例として各地の儀礼についての扇情的な記述が続く。そして、「こういう話を、我等はたゞ野蛮国の話として聴くことが出来たなら、此の上もない仕合せである」と締め括る。

 

 戦後に導き出された如是閑のディオゲネスは、例え世界を支配する大王がやって来たとしても、怯むことのない真理の保持者、知識人のシンボルである。

 だが、如是閑のディオゲネスは大正期に於いて、通過儀礼を超克出来ず、一人世間に憚る事になった挫折者の権化であった。

 『山へ行け』執筆の翌1920年、『新小説』4月号に掲載された『低気圧前後』の中で長谷川は『臍のない人間』という小話を披露している。これは「臍のない人間」という存在についての思考実験である。

自然は過去に役立ったものの痕跡を、何等の形で永久に残すものだ。それを取り去れば、又他の形で痕が残るのだ。そんなことをするのは無駄手間であることを、人間の臍に於て、人間に教えているのだ。

臍のない人間は、産まれて来ない。産まれた人間には臍がある。

『臍のない人間』の考えで、私は失敗した。

 長谷川は文の最後で、「臍のない人間」が実現不可能な産物であるとして、敗北宣言を行っている。「失敗した」という語は、あたかも人造人間の創造に失敗した科学者の如きであるが、それは大正という時代状況を踏まえれば強ち奇異なものではない。

 如是閑の樽とディオゲネスの寓意は、果たして大正年間に至って、発生学的モチーフに変化する。人力車夫に礼を言いながら錢を渡す樽や、侍から頓智で酒代をせしめる町人の潜んだ樽は肉体のアナロジーであると同時に、中に人間を懐胎する子宮のシンボルでもある。

 

 サンフランシスコ講和条約に日本が調印した1950年に刊行された『ある心の自叙伝』では、『序説 胎児時代』なる章が設けられている。前年に文化勲章を授与された長谷川は、吉田茂政権下に於ける桂冠詩人的地位を獲得していた。 

 『胎児時代』は、嘗て『我等』に掲載した文章からの引用をその導入としている。

「私の居処がだん〴〵狭くなって、育って行く私には、もう堪え切れなくなった。私の進退は円く圧迫している周囲のヌラヌラした壁は、もう私に不快な邪魔物になった。私は運動を求め出した。それにはもっと広い空間と、多量の空気とが必要だった。」

 如是閑の長いキャリアと生涯の中では、『ある心の自叙伝』以外にも自伝的回想を記した文章は幾つか存在する。例えば、1926年に「中央公論」に発表された『アンチ・ヒロイズム断片』は、副題を「私の有史以前の記録の数節」として『胎児時代』と同じアイデアの下で執筆された事が分かる。胎児時代の記憶――というアイデア自体は、夢野久作三島由紀夫の小説などにも見られ、如是閑だけの特徴ではない。また、こうした生物学的、発生学的モチーフも大正年間にかけて科学的知見の普及と進歩に対する芸術の反応だったと言える。

 話を『ある心の自叙伝』に戻すと、果たしてこの『胎児時代』に於いて述べられている回想には、各地を巡った紀行文の作家として、特派員として海外や険しい山脈を踏破した探検家として、そしてジャーナリストとしての回想を垣間見ることが出来る。 

 冒険家になった私は、もう甘い汁の出る肉の丘に閉じ籠る生活に耐えられなくなった。

 (中略)

 私の冒険心は、私の身体の運動の自由の増すに従って増長した。私は、探検家が郷土を立つのと同じ覚悟で、――ただその覚悟を自覚していないだけだ――甘い汁の出る肉の丘から離れて、そこらを這い回って、異なる環境を求めた。実際、私は這い回りながら、いく度生命にかかわるような危険を冒したかわからない。(中略)

 そのくせ私は、そんなことに倦きると、かならず甘い汁の出る肉に抱きついて、貪るようにその汁を吸わなければ承知しなかった。

 でも、それからさきの一生が、やはりそんな歴史のくりかえしであることを、私はまだ知ろうはずがなかった。

――筑摩書房『ある心の自叙伝』(1968)より

 それは、臍のある人間としてこの世にありながら、親しんだ樽から離れられない冷笑家の姿である。衆人の良心を煽り「山へ行け」と賢しらに挑発しておきながら、そこが人間の住める場所ではない事を仄めかしている此の冷笑家は、自身を擁した樽から自立出来ない「ひとりもの」である。

 

 前述の「自叙伝」の序言で長谷川は自身について、彼は「『ひとりぼっち』の痩我慢生活を通して来た孤翁である」と記しているのだが、全く、この照れ隠しが芸術家としての彼にとっては、致命的な欠陥だった。

 つくづく彼は”何らかの理由から”、その境遇を離れる事の出来ない者なのである。ただ、彼はその理由を口にしたいのであるが、遂に言い出す事が出来ない儘に、作家として大成しなかった。そして、イニシエーションを拒む、その理由を明らかにしないで済まそうとする屈折した姿勢が、犬儒学者の始祖の形や声を借りて、彼の物語の中に現れていたのである。

 だが、人に言えない事情を何とかし表現しようとするのではなくして、苦悩する様子をそのまま作品にして、その苦悩を昇華してしまう技術と才能があった事は、幸か不幸か、彼に偉大な作家としての名望を齎さなかった一方で、その長命と地位と、今日の「偉大なジャーナリスト、思想家」という穏当な評価を齎したのだった。

 今日も猶、彼は其の長年の功績によって追跡を免れて全きを得ている。

 

(続く)

山と如是閑(1)

 長谷川如是閑(1875-1969)に、『山に行け』というエッセイ(1919年)がある。

 「登山の期節が来た。」という緒言で始まる短い文章は、前年、大阪朝日新聞社(以下、大朝)を退社してから彼が、同じく大朝を退社した丸山幹治、大山郁夫らと共に創刊した雑誌『我等』の7月1日号の巻頭言として掲載された。

 人間は、重たい空気の圧力の底に悩んでいる。

 (中略)

 それは誰れの故でもない。人間の棲む平面を填めている溝泥のように濃厚な空気が、余りに強い圧力で、人間の肉と心とを抑えつけているからである。

 それも、誰の故でもない。そこには、余りに人間が多過ぎる。

――再録『真実はかく佯る』(1914)から引用

 1919年といえば、大正8年である。人間の暮らす場所を「気圏の底」というような表現で示す書きぶりは、宮沢賢治を彷彿とさせるが、それは偶然であっても、同じモチーフに依拠する点のあった両者の創作活動が至った類似という事が出来るだろう。

 環境問題というのは、常に産業や労働問題と軌を一にしている。大朝を辞めてから、長谷川は

新聞記者は、主観的生活に於ては、同時に政治家であり、思索家であり、改革家であり、学者であり、文士であり得るが、客観的生活に於ては、たゞプロレタリアに毛の生えたものであり得るのみである。

――『予が現代新聞記者生活に贈らんとする標語』、『新聞総覧』(1919)より

と壮語するなど、愈々そのリベラルな“キャラ”を売りにして、文筆活動に励んでいく。

 そんな彼が本格的に登山を始めたのは、大朝に在籍していた頃である。

 1910年にロンドンで開催された日英博覧会へ特派員として派遣された長谷川は、ロンドンを始めとする各地の現地レポートが好評を博し、それによって人気新聞記者としての地位を盤石なものとした。大朝入社以前から、論説記事以外にも小説やエッセイの執筆経験があり、その手腕を買われて同社に迎えられた長谷川だったが、同社に入社して最初に持った連載はルポ記事・紀行文であった。最初、1908年5月に『金沢行き』を連載し、その後、広島に出張して『広島みやげ』を同11月に連載した。

 こうした金のかかる企画は、果たして急成長を遂げた大衆紙ならではの企画と言えようが、この記事の評価が社内で長谷川の地位を確固としていったと考えられる。

 

 1909年3月から同紙に連載された小説『?』(後『額の男』と改題)は、恐らく出来レースであったのだろうが、5月の連載終了後、まもなく彼の最初の著書として政教社から出版された。政教社は、大朝入社前に彼が携わっていた雑誌の発行元である。此の事からも、彼に対する業界内の評価が高かったことが伺える。

 そして、満を持す形で社の代表としてユーラシア大陸に送り込まれた長谷川は、期待に応える成果を上げた。そんな長旅から帰ってきた彼を待ち受けていた次なる企画が、折からブームの到来していた登山旅行だったのである。

 1911年7月、信州より飛騨白河村を経由して北陸に抜ける登山旅行を経験した彼は、『山又山』を連載した。元より健康の為に運動や遠足を心がけていた長谷川は、此の企画以降、登山を愛好することになる。

 所で、当時の登山ブームは、如是閑と同時期、朝日新聞に連載を持っていた夏目漱石の『草枕』(1906)の背景にもなっていると考えられる。

 山路を登りながら、こう考えた。
 に働けばが立つ。させば流される。意地をせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 

 中央大学から刊行された『長谷川如是閑 人・時代・思想と著作目録』では、『山へ行け』は、「如是閑が社会批評家としての立場を宣言したものとみなすことができる」と評されている(44頁)。短い文章であるから出来れば全文を此処に掲載したいところだが、生憎、去年丁度著作権が50年から70年に延長された為に、それは適わない(余談だが、去年2019年は偶然にも長谷川の50回忌でもあった)。

 

 文の大意はこうである。

 人間が悩むのは気圏の底に暮らしているからだが、それだけではなく、その空気が余りに汚れている所為だ。それは人間が多い所為である。

 人間はその汚い空気を吸って更に汚し、それを吸った人間の心はどんどん汚れていくばかりである。

 だからと言って、誰の所為だと争い始めたら、万人の万人に対する闘争が始まってしまう。そして、その殺し合いの連鎖は果てしなく続く。

 それは『すべての人が、余りにも密集して、余りにも沢山の隣の人を持っている故だからである。こういう世界で、ヨリ多く生き得る人は、ヨリ多く残忍な人である』と、如是閑は説く。

 で一番残忍な人は、時々獲物を掴んだ野獣の歓びの声のような勝鬨を揚げる。耳を掩わなければ、眼を蔽わなければ、生きて行かれないと、人々は云う。

 そういう人達に私は告げる。

 『山へ行け!』

 海抜一万尺の山の上では、エデンの園の泉のような、透き通った清い空気を私は吸える。私の肉と心とを包むその空気に、些しの圧力もない。些しの色もない。それを吸った私の肺臓には、甘い〳〵蜜の滴りのような、肉と心との栄養が残る。私は蘇る。

 だが、皮肉屋にしてはにかみ屋でもある如是閑は、最後に一文を加えることを忘れない。

  が、それは山の上の話だ。

(続く)

 

(2020/8/10)

 

鯨とひとりもの

 浜に一頭の鯨が座礁した。瀕死の鯨を沖に戻す謂れもなく、又食うでもなしに、浜辺の近所の住人は、普段、釣りばかりしているひとりものに、鯨に止めを刺して来るようけしかけた。

 渋々、モリを持った男は、自分がモリで突き刺されなかっただけマシだと思い、巨大な腹に近付くと、鯨は大きく咳込んで、こう言った。

「よう、お前は何かやったのか? さもなくば、この様な仕事をする筈もなかろうから」

 男は答えた。

「お前が沖で死んでおれば、俺も悪人にならずに済んだものさ」

 鯨はまだ残っていた潮でブクブクと鼻提灯を飛ばした。男は未だ息のあるうちに、鯨に掛け合った。

「のう、お前さん。お前さんは後、どれ位で死ぬんだろうか?」

「そんなもの、自分じゃ分からねえだろう」

「のう、のう。お前さんは俺を悪人に仕立て上げたいのか? 俺は別段、何もしちゃいないさ。でも、連中はそれが気に入らないのさ」

「手柄一つ、立てさえようというのが分からねえ歳でもあるまい」

「瀕死のお前を、このモリで突き刺した所で何になる」

 

 その時、わっと鯨の身体が戦慄いて、男は思わず構えたモリを、その土手っ腹に突き刺した。

 モリは抜けず、そのまま途中で折れてしまい、鯨はバクバクとヒゲだらけの口を何度か、閉めたり開けたりしたまま、もがいてそれから砂塗れになって動かなくなった。

 

 家に戻った男は、翌朝、突き立てたモリを取りに浜に戻った。鯨は誰の手にも触れられる事もないまま、ドップリと餅みたいに膨れ上がった腹を波が洗われていた。

 その臭い肉の小山を男がよじ登っていると、踏ん付けたところからブルブル震えた。

 

 足を取られた男は転げ落ちて、砂塗れになった。

 又、登ろうとすると今度は掴んだ場所からブルブルと震えた。思わず話してしまうと、今度は背中中、砂塗れになった。

 ゴシゴシ、袖で顔をこすりながら塩っぱい泥を吐き捨てて、男は怒鳴った。

 

「テメエはとんでもない性悪野郎だ!!」

 

 そうして、腹立ち紛れに、勢い良く爪先を土手っ腹を蹴飛ばした所、足はそのまま鯨のゴム毬みたいに膨らんだ皮を打ち破り、中から男の胴よりぶっといハラワタがゾンロゾンロと飛び出して来た。

 そうして男をあっという間になぎ払って、高々とビーチボールみたいに空高く打ち上げると、そのままバチバチとブチ殺してしまった。

 男の死骸はそのまま沖の方に吹っ飛んでしまって見えなくなってしまったが、鯨の死骸はそのまま浜に残っていた。

 しかしそれも台風に流されて、秋の終わりにはすっかりなくなってしまった。

 

(2020/08/10)