カオスの弁当

中山研究所blog

神と悪魔と科学のエキスペクテーション、或いは不思議の線

▲人類の絶滅は神と悪魔と科学のエキスペクテーションなり。

▲人間の生命は国の生命より永からず、国の生命は地球の生命より永からず、地球の生命は宇宙の生命より永からず、宇宙の生命は人道の生命より永からず。

 ――長谷川如是閑『如是閑語』(1915)

 「描かれる電線と電柱」については、近年ノスタルジーを喚起するもの、とか、ノスタルジーの対象という風に言われる事が間々ある。ただ、そういう切り口が概ね皮相的に止まるのは、議論の対象である「描かれた電線と電柱」の為であると目するよりかは、論者のノスタルジーについての議論の低調さに起因するものであると見た方が適当であろう。

 この低調さについて、思うに筆者は2011年以降の電線と電柱に因んで惹起されるようになった今一つの印象の事が頭に過ぎる。

 それは、電力というものがそれ自体、現実の不安定さの象徴になってしまった、という印象並びに見解である。丁度それは、火傷をした子供が火と見たら全くこれを頑なに恐怖して拒絶する――という古めかしい比喩が全く相応しい反応である。ただ、この比喩自体が、それを用いるのが甚だ不適切であり自粛が求められるものと今日も「一般的に」判断されるものである、と、10年が経過した今日も筆者には肌身に感じられる。そして、これは何も筆者個人に限らないだろう。

 ただ、そうした自粛のコンセンサスは明確にただの一度も交わされた験はないと言っていい。にも拘らず、確かにそうした「規範」は存在するのである。ただ、それは規範というには聊か不穏当であり、屡それは全くの議論の余地もなく適応され、反省と自己批判とを要請する傾向にある。

 そんな規範が広く世間に伝播してしまった以降において、幾らかでも良識的に振る舞おうとする人々が、無邪気にそれらについて語る口を噤むようになったというのは、如何にも有り得そうな見立てであると筆者は考えるものだ。然し、この見立てが仮に的を射ていたとしても、それに基づいて種々の配慮を重ねた末に、ノスタルジー、郷愁を語るという向きに舵を切ったのであるならば、それは一見して適切なようで実は大間違いであろう。

 

 ノスタルジーは「電線と電柱」と密接な関係にある概念である。だからノスタルジー一辺倒でも「電線と電柱」を語ってしまおうとすれば、強ち一見して説得力があるのであるが、それ故に厄介な傾向なのである。

 それに拍車をかけるのが、ノスタルジーと対を成すような、カタカナ言葉が日常的に使われるものの中で見当たらない状況がある。これは日本語に於いても同様である。

 これに対して、昨今巷で見かける言葉をここで試みに当ててみようとすると、「郷愁」に対しては「希望」や「理想」が挙げられるかもしれない。然し、筆者は「希望」や「理想」は別次元のものとしてこれを当てず、「予感」「期待」という語を対置しようと思う。

 この「予感」「期待」のカタカナ語にはエキスペクテーション、より堅苦しい表現では、アンティシペーションがある。取り敢えず、此処ではエキスペクテーションをノスタルジーに対するカタカナ語として措く事を提唱するに留めるとしたい。が、例えば、この様な術語にしたって、一々議論がなされていても然るべきなのである。

 然し、巷間にはノスタルジー一辺倒の向きが無きにしも非ず、これが筆者の目下悩みの種といえるものである。詰まり、元よりこうした来し方10年の事情に関係なく「ノスタルジーだけ」を論ずるに満足してしまっている向きというのが、一定程度常に力を有する現状が別に存在しており、そうした向きと現今の傾向とが合流した時に起こる甚だしい停滞に対する憂慮乃至杞憂を抱きているという訳である。

 

 ただ、直近では練馬区美術館で先月末から開催されている『電線絵画』展や、今週最新作が封切りとなった『ヱヴァンゲリオン新劇場版』シリーズが、「電線と電柱」について注目すべき言及を行っている。

 例えば、『電線絵画』展に於いては、電柱・電信柱同様に架線を有する路面電車について、今でこそそれは純然たるノスタルジーの眼差しで見つめられるものであるが、それが登場したばかりの頃に描かれた絵画に於いては、架線を含めて「最新の都市風景」であった事が指摘されている。これは果たしてノスタルジー一辺倒に対する過去作品の鑑賞という見地に依った指摘であると言えるのみか、「電線と電柱」が未来への予感や期待、即ちエキスペクテーションの対象として存在していたことを示す意義深い指摘でもある。

 又、最新作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開中である『ヱヴァンゲリオン新劇場版』については、同じ監督による90年代に制作されたオリジナルと呼べるテレビアニメーションシリーズ及びその劇場版(通称「旧劇場版」)と併せて、1990年代のアニメに於ける「電線と電柱」のメルクマールとして目された時期が長く、界隈の議論に於いても常に主位を占めて来た作品であった。故に、この程完結する『エヴァンゲリオン』シリーズの「新」「旧」に於ける「電線と電柱」の比較研究は、当座「アニメに於ける電線と電柱」の、ひいては「描かれた電線と電柱」”研究”の大きな課題であるとも言えるものである。

 

 こうした極々最近の「電線と電柱」を巡る活発な動向が、常に停滞しているように見えた斯界に勢い息吹を吹き込むことにならん事を、筆者は密かに願って止まないものである。

 それは又、個人的には、ノスタルジーという居心地のいい言葉とその魅力とに安穏を求めて、そこに止まり続けるを良しとする一定の向きに対する反発に因むエキスペクテーションでもある。

 そして、これと併せて、今一つ、世間に於いて「電線と電柱」に限らず、現在憚りながら交わされている種々の議論が今よりも十分に成し得るような寛容さがこれ以降、醸成される事についても期待を寄せるものである事を最後に付しておきたい。

 

(2021/3/11)

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(3)

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(1) - カオスの弁当 

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(2) - カオスの弁当

 

 

 さて、本稿の主旨としては、前回・前々回と続けて来て、ここで纏めて示そうというのは、彼・如是閑の小説作法というのが今少し、当初の如く、読み物として、娯楽作品として練り上げられる事があれば、今日彼の名前も幾分か今よりも知られて良さそうなものであったーーというものである。

 彼自身はその後、新聞記者として「批判」をその活動の主に据えて行ったものであるが、この「批判」というのはその文章の形式にも及ぶもので、今時考えられるような題材選びや内容に盛り込まれるようなものとしての批判に止まらなかった。

 

 如是閑が「批判」の為に用いた手法は寓話であった。『真実はかく佯(いつわ)る』はその集大成ともいうべき一冊であるが、このタイトルの読解は筆者の考えでは次の通りだ。

 即ち、寓話とは何がしか真実の一端が具体的に現れた例え話であるが、そんな例え話、事例で以ってのみこの世に現れる真実という奴は、自身を佯って人間を欺くものであるーーという所であろう。

 

 『真実は〜』以降の彼は、日本文化や伝統、「常識」についての積極的な発言を展開するようになる。その対象が果たして彼にとって、真実であったのか、或いは寓意を孕んだ対象であったのかについては、読者の立場によって分かれるところであろう。

 筆者は飽くまで、如是閑はそうした題材を実例として扱い、『真実は〜』で示そうとした一事をより明らかにしようと試みていたものと踏んでいる。

 然し、厄介な事には、彼の筆は屡々寓話と真実とを等価に扱おうとするのである。これは彼自身の思い入れと、新聞記者・著述家としての社会的・職業的立場がそうさせたものであろう。そして、この「二重性」が、彼自体を一つの寓話的存在にせしめている。詰まり、何か世の中の真理なりを知ってそれを世間に広めようとしているかのような、預言者的存在である。それが、本当の所、如何いう思惑でそんな事をしているのかは、如何とも余人/世人には中々測りかねるものであり、故にそうした人物の扱いは余程可愛がられるか、白眼視される。

 

 それが彼の世間に対してより自己をよく見せようとする宣伝活動であった、と見てほぼ間違いないだろう。そうする事で彼は謂わば自分の言論界の地位を守って来た訳である。それは自身の食い扶持と直結していた訳であり、何より彼の書く文章よりも、語った言葉よりも雄弁にその思想を体現していたものという風に筆者は考える次第である。

 極端にいえば、彼の評価に結びついているものは彼の言葉の内容ではなしに、その語っている事、書いているという事が持て囃されたのであるーーと考えるものである。それが彼の二つ名である「叛骨のジャーナリスト」の真髄であり、彼の今日的評価の限界を示すものであるように思えてならない。

 その価値は、そっくり新聞紙に準える事も出来るだろう。或いは今日のブログやSNS(これもブログの一種だが)の価値にも等しいやも知れない。ただ、あんまり此処で比喩を用いるのは話を余計にややこしくする事になるので控えようと思う。

 

 況や、彼に限らず、寓話作家はアマチュア、「素人」なのだ。素人であるが故に放言も可である、が、その言葉は何処までも軽んじられ、重きをなす事はない。ただ、軽薄故に手取り早く人口に膾炙して、親しまれる。

 その効用に注目して、何かこれを用いて世間を改造しようとか試みた者たちの中に如是閑は自身の拠を見出したのであった。そして彼自身も、そんな直ぐ火がついて燃えるような文章を好んでいた、血気盛んな読者の一人であった事はよく知られた話である。

 

 ただ、私(筆者)は、彼自身の内にはその埋み火を業火にするだけの何がしか燃料が如何程もなかったように思えてならないのである。

 それが果たして彼を不得手の通俗的娯楽小説から、一見高尚である新聞のコラムや寓話の方へ向かわせしめたように思えて仕方ないものなのである。自身の内面を探索して小説を書く事を彼は大所高所から自身の仕事ではない云々と見切りをつけてしまったようだが、それが本当に妥当であったかは、それこそもう本人の納得の問題であり、同じく「素人」ながら、故に素人考えで、彼がもう少し自身の内奥を掘削するような事をしたならば、どんな鬼が出たか、蛇が出たか、と想像せずにはいられないのである。

 

 何か物語とかを作るに当たっての、ガソリンもとい燃料というのは有り体に言えば悲喜交々の事であって、も少しカッコよくいうならパトスである。

 そのパトスを彼は若い内から早々に自制する方向に手綱を持って行ってしまい、それでもって物凄い勢いで自分のキャリアを邁進して行ったのである。見方によっては、そのエネルギーを新聞記者になる方へ費やした、とも受け止められる。

 実際、如是閑自身も新聞記者になろうか、小説家になろうか随分悩んだと述懐しているものである。詰まり、極端だが、偉大な新聞記者と卑小な小説家の元は同じと言えるのである。

 彼はその内、一方の結末としての悲惨な破局を延々回避しようとして逆走を続けた結果、大往生を遂げたのであった。

 

 ただ、彼がそうまでして逃れ続けていたパトスの向かう先に何が控えていたのかは興味が尽きない一事である。その洪水の彼方に見えるものの片鱗は、残された文芸作品に幾つか見て取れるものであるが、それを取りに行くよりかも、如是閑は現実的な生を選んだ訳である。

 そうした選択は屡々、現実にその人が生きている間は賢明なものとして評価されるものであろう。が、その死後、後世になるとこの評価は一転する事がある。それは傍が他人の人生に口を挟むような事であり、それこそ控えられるべき事であろう。

 だが、それでも嘴を挟む余地があるとしたら、それは故人が作家として小説を書いていた所にあると筆者は自身に都合よく考えるものである。

 それが何かしらの実験であり、探究であった事を作家自身が認めて、自身のキャリアとしても数えている。そこに後世の人間は楔を打ち込む事は許されているのである。何も秘密の原稿を暴き出して揶揄しているのではない。

 

 タイトルに掲げた「始メノ如ク終ワリヲ慎メバ」という『老子』の一節、「即チ事ヲ敗ルコト無シ」という句で締め括られる。

 これを素直に彼の人生に当て嵌めて読むと、後半部を切って四文字を揮毫したのは、秀逸というより他にない。当然読み手のそれは勝手なのであるが、素直に『老子』の引用として受け取るならば、それは与えられた人間、即ち読者への「命令」である。又、これを彼自身の心境を書いたものと受け止めるならば、流石は大家であるだけに剛毅であるーーとこれまた読む事も出来る。

 然し、更に此処で一癖捻りを加えて読むならば、それは「留保」として読めるものであろう。

 始メノ如ク終ワリヲ慎メバ……、その後に続くのは確かに成功を約束する力強い言葉なのである。が、そこから先は示さずに老翁は色紙を遺したものなのであった。

 そんな彼の態度を同時代の人間が「批判」しなかった事もなかったが、その批判自体も彼と合わせて忘れ去られてしまった。如是閑が新聞記者として名馬であった事は記録されている所だが、それが小説家としては迷馬であった事も同じく留められるべきだろうという事は、くどいようだが最後に此処に申し述べたい所である。

 

(終)

(2021/03/04)

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(2)

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(1) - カオスの弁当

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(3) - カオスの弁当

(承前)

 所でだが、如是閑と言えば何という肩書きが相応しいものであろうか?

 最も妥当なものは、新聞記者だろう。だが、今日では「ジャーナリスト」とか「思想家」、「知識人」というものまで散見される。寧ろ、新聞記者とだけ書いているものは少ないように見受けられる。

 ここで少し、そんな彼の肩書きから「知識人」について考えてみる。

 色々な意味はあるだろうが、筆者が思うにこれは「パトロンを持っている、そのパトロンから賢い人間だと評価されている人間」で、尚且つ、その生活の面倒を「間接的に」(ここ重要)支援されている人間を呼称するものであるとするのが妥当なところであろう。

 世間に数多ある「人気者」の種類の中で「頭が良さそうなキャラ」で売っているタレントーーそれが「知識人」である。実際に知恵者であるかは別問題である。具体的には、何かその人が講演会を開くなり雑誌を自分で作ろうとした時に、その雑誌を後押ししてくれる資産家のマダムが居るとか、名望家のサークルが控えているとか、そんなところである。

 数多のファンに支えられている、という訳でもないのが、付け加えて言うなら、今一つの「知識人」の条件だろう。

 

 勿論、そんな乱暴なことを言ったら袋叩きに合いそうなものだ。が、しかし、何はともあれ、袋叩きみたいなヤクザな事はしていい道理は何処にもない。言うまでもない事だが、念の為、である。

 さて、そんな手前味噌の意味に照らせば、彼如是閑は紛う事なき「知識人」である。

 ただ、ここに果たして、所謂世間的な如是閑像の多層性が明らかになるのだが、所謂「知識人」としての如是閑は、実際の所はごく狭い世間で活動していた食客未満の存在である、と同時に、職業的にはフリーとは言いながらも新聞記者であり、コラムニストであった。大手新聞や雑誌を通じて、多くの読者が見るのは飽くまでそういうチャンネル、媒体を通じて彼が演じてみせた世間体である。片や、如是閑個人が主体となって発行していた雑誌を通じて提供していた如是閑像は、明らかにそれとは区別して考えられるべきものであろう。

 

 「論客」「論壇」なんて事を言えばあたかも聞こえは良さげだが、所詮は観覧席に座る客に買われて席に座る品である。本当に請い願われて、三顧の礼でそこにいるーーというような品であるかといえば、果たして如是閑も如何だったか、甚だ怪しいものである。

 何せ彼は博士でもなければ、官僚でもない。実業家でもなければ政治家でもない上に、学歴でいえば当時の専門学校の卒である。しかも実家は破産したーーと来るから、「羽織りヤクザ」と呼ばれた新聞記者には相応しい品である。

 ただ、そんな彼のキャリアを後押ししたのは、彼より先に家計の現実と折り合いをつけて、早くから新聞記者として頭角を顕していた兄・笑月の存在であった。この笑月の存在を抜きにして、後の「叛骨のジャーナリスト」長谷川如是閑はあったものではないのだが、話がどんどん散漫になるから此処ら辺でやめにしておく。

 とはいえ、東京と大阪、両朝日新聞の社会部長の席がこの兄弟によって占められていた事実をなまじっか蔑ろにして、「知識人」如是閑のキャラクターを論じるのは手心加えすぎの感が無きにしも非ずだろう。

 

 

 話をそろそろ前回に引き続く形に軌道修正する。

 如是閑もとい胡戀のデビュー作は、懸賞金付きのコンテストで入選したものだったが、結局その賞金が作家の元に支払われなかったのは有名な話である。

 小石川の荒屋で病気療養中だった後の如是閑青年が、この間、ほぼ唯一外出らしい事をしたのは、そのコンテスト主宰者に直接賞金を取りに行った時だけだったーーとわざわざ半世紀以上経った後の自叙伝にも書くくらいだから、余程何か記憶が残らずにはいられない事だったのだろう。

 現実的には家計の窮乏と病気によって現在の生命すら危うい状態にあって、辛うじて生き長らえたとしても自身の立身出世どころか将来のキャリアも消えたも同然な条件の下で、何とか書き上げ、辛くも手に入れた小説の賞金が不意になったとなれば、中々に根に持って然るべき事項だと傍目には思われる。

 本人は晩年、雑誌の連載の中で当時を振り返り「いや、あの当時は家族揃って楽天的で、自分もそうだった」云々、吹かしているが、これを言葉通り受け取るのは、精々がその自叙伝が連載されていた雑誌の読者程度であろう。そういう飄々とした、如何にも老獪な人格が求められた雑誌媒体であった事を抜きにして、いかんせん読めないのが如是閑の記事であり、著作なのである。(無論、これは凡その著述家の著作に言える事だろうが)

 

  差し詰め「新聞タレント」として大成した如是閑であるが、彼が新聞タレントもとい新聞記者を志向して、所謂小説家を志向しなかったのは不思議と言えば不思議である。

 とはいえ、彼が新聞『日本』並びに『日本及日本人』を経て大阪朝日新聞社に入社した時点で、既に彼の小説家としてのキャリアは確立していたのであるから、大したものである。

 確かに『ふたすじ道』のような作品はその後暫く書かなかったが、それは彼の在籍していた新聞のカラーに削ぐわないものだったからだろう。なまじ小説などの娯楽も売りにしていたような朝日・読売に代表される小新聞に駆逐された大新聞の筆頭が『日本』とかだったりした訳である。

 如是閑はそんな「旧世代」の新聞の若手記者であって、その意味で「三面」社会面を任されたのは多分に経営的判断にも基づくものだったと見て良いものだろうが、そんな中で今現在でも矢鱈とツイッターBotによって流布されてるような『如是閑語』が生まれ、初期短編小説の『日本』『日本及日本人』に初出を持つような作品がこの時期執筆された。

 その小説群を俯瞰すると、『ふたすじ道』のような安直さは形を潜め、何やら慎重迂遠な物言いが目立つ作風となっている。ただ、これが少なからずコアな読者にウケたらしいのは、後の彼の「仕事」にも影響してくるものであり、それが今日的にはちっとも物語的には面白いとは思えないような作品がであっても、等閑には出来ない理由である。

 

 『日本及日本人』での仕事が結局、立ち行かなくなった後、兄・笑月の裏付けもあって入社した大阪朝日新聞でのデビューはすっかり鳴り物入りの興行となった。

 勿論、それが小新聞得意の誇大広告であったにせよ、それをするからには大朝から見ても、如是閑は少なからぬ実績を残したものと評価されていた事が此処から分かるのである。

 そして、その期待に応える形で如是閑もその「作風」を確立していく訳であるが、勢い付いた大阪朝日新聞は、往年のテレビ局よろしく、大型新人である新聞記者、もといタレントを方々に派遣して紀行文を書かせたりした。

 それが本人の意向にも合致していたので、後年、一世紀近く経った現在から振り返ると、その高邁な理想の威光に隠れてしまって、そうした興行的な新聞社の目論見が見え辛くなってしまうのだ。

 如是閑紀行文の白眉たる『倫敦』は、取材中現地での思わぬアクシデント(現地で開催されていた日英博覧会の取材をしようとしていた所で、当時の英国王・エドワード7世崩御(1910年5月)、急遽その国葬やら取材にも奔走する事になる)の取材も相俟って、旅費など予算をだいぶオーバーしたものの、世間の評判を買い、結果的には如是閑自身の新聞記者としての声望を不動のものにする連載となった。

 即ち、著述家、ライターとしての仕事の仕方を如是閑は大阪朝日新聞時代に習得したものと筆者は考える次第である。

 

 そんな如是閑だが、『ふたすじ道』以降に再び、比較的判明な小説を書くようになるのは、雑誌『我等』を自分で刊行するようになってからである。

 これが意味するのは、果たして今までとは違った読者を相手に、違うキャラクターで自分を世間に売り出して行こうとする、職業人としての如是閑の思惑である。

 

 なまじ、小説家ではなしに、新聞記者としての才能があったものだから、筆を奮わなかったーーという訳でもないのが如是閑というタレント、もとい新聞記者の出色であり、彼は籍を大朝に置く間にも、古巣を支援する形で自作を寄稿し続けた。それは矢張り、彼の若さが助けた仕事ぶりであったと思われるが、それが結局、大阪朝日新聞社退職後の再出発に当たり、少なからぬ励みとなったのだから、つくづく感服するより仕方のない精励振りと言えるものである。

 

 ともあれ、あんまりこんな事を書いていると、何だか文章が稍もすればアンチ如是閑の風情も冠してきたので、一応断っておくと、筆者は別にこれを何か非難するつもりで書いたのでもなければ、誰かの偶像を冒涜するつもりで書いたのでもない。

 ただ単純に、この場に相応しい言葉を用いれば「リスペクト」から書いたものである。

 その「リスペクト」が稍もすれば慇懃無礼にもなり、はたまた、ミスリードも誘発するとしたら、そのバランスでもって、果たして読者諸賢には、何卒ご海容頂ければと希ったりする所存。

 

(続)

 

(2021/03/02)

 

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(1)

 

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(2) - カオスの弁当

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(3) - カオスの弁当

 巷に流布する如是閑グッズを蒐め始めて二年目に突入した。

 見かけたものの入手できなかったものも少なくないが、取り敢えず、入手出来るものは取り敢えず確保して来た。

 今のところ、来歴がいくらかわかるのは掛け軸一本のみで、それ以外は記念品なのかな、くらいしか検討がつかない。

 

 如是閑の直筆には年号が書いていないものが見た限りだが、多い。なので余計に推定し辛いのだが、最晩年の頃になると、「卒寿翁」という肩書きを添書しているものが目立つ。

 とはいえ、やはりそれが誰にどういう場面でどういう意味合いで書かれて贈られたものか分からないのでは、仮に真筆だったとしても資料としては扱いに難がある。

 

 最初に手に入れた如是閑グッズは、九十歳の時の色紙だった。「慎終如始」の四字を揮毫したもので、歳の割にーーというと失礼だがーーしっかりした筆致でバランスも良く配されており、何より特徴のある「如」の字が大きくはっきり確認出来るよいサンプルであると思われる。

 さて、この四字熟語だが、これは如是閑と因縁浅からぬ『老子』の一節である。これを彼が誰かに請われて書いたのか、或いは進んで揮毫したのかーーそういうのこそ、筆者が自分で調べなきゃいけない事柄なのだが、生憎まだ全然調べていない……。

 しかし兎も角、個人的にはこれを如是閑の人生訓と見て間違いないと思ってたりする。

 

 だが、この「慎終如始」は彼の文芸作品には徹底されなかったきらいがある。

 何故に文芸作品“なんか”を持ち出すかといえば、筆者の関心が専らそちらに存するからであって、我田引水以外のなにものでもない。

 如是閑の文芸作品は彼の執筆活動の中で一ジャンルを占めていたが、それにしては現在の扱いは今ひとつ、の観がある。

 それは何より、小説なり戯曲なりが読んでみて実際そこまで面白いものばかりかというと、そうでもない為である。

 

 代表作に数えられる『ふたすじ道』は、少年院にぶち込まれて出てきた元・スリの少年が、堅気になろうとするが、結局、泥棒稼業に身を沈めてしまう顛末を描いた「佳作」である。

 何でこの話が佳作なのかと言えば、物語の始めと終わりがはっきりしているからである。その判明なプロットの上に、必ずしも少年の堕落が彼自身の意気地のなさに因むばかりではない事ーー即ち、彼が心の支えにしていた幼馴染の姐さんが、父親が成した高利貸しへの借金の方に身売り同然に嫁していくのを止めんが為に奉公先の金を盗んだ下りーーが加えられる事によって、ある種の告発や社会批判が成立するという訳である。

 

 『ふたすじ道』は彼の処女作であると同時に、「如是閑」以前のキャリアではあるものの、実質彼の署名と共に初めて一般に流布した文章でもある。

 この時の彼の状態というのは、家計の破綻と病気の為に学業を中断するを余儀なくされ、貧乏暮らしの中で床を離れられない、忸怩たる有様であった。そんな状態であったから、彼自身後年振り返ってその時期に書いたものについては、漫ろ書きだったように嘯いているものの、真実その前後に書かれた文章を合わせ読むと、年相応の焦燥と野心と劣等感と、何より自負心とが表出している。

 ただ、そんな時期の彼の文章の中では、『ふたすじ道』の文章は珍しく「現在でも読みやすい」文章になっている。これには相当、如是閑もとい長谷川“胡戀”が意識してその筆を構えていた事が容易に看取せられるというものだが、彼自身がその後もこの時のように意識して筆を構えるような事を続けて居れば、幾らか彼の文学者・作家としての声望は今日も続いたものであったろうと、筆者には思えて仕方ないのである。

(続く)

(2021/03/02)

機能と実用

 電信柱や鉄塔、鉄道とかそういったものにしばしば言われる「機能美」には、枕詞に「装飾を廃した」とかいうの言葉が置かれる事が間々ある。

 けれども、そこで余計なものとして邪険に扱われている装飾の担う役割を、構造物自体が負っている場合、装飾を殊更蔑めるような事をすると、結果として構造物自体を「下げる」事にもなりはしないかーーそう思われたりする。

 

 勿論、次のような意を組むことも可能である。というか、寧ろ、そうした文脈で言わんとしているのは、こっちだろう。

 即ち、しばしば装飾で以って示されているらしい「美」は、本物の美にあらず、構造物によって体現されている所の「美」が本物の美であるーーという言いである。

 これが頗る鮮明な対立意識の発露である事は敢えて言うまでもない。

 

 しかし、自ずと外野からは、ならばわざわざ「機能美」だなんて呼び方は止して、もっと他の、別の呼び方をすればいいじゃないか、と思われたりもするものである。

 だが、そこでハタと会話が行き詰まる瞬間に出会す事になるのは目に見えていて、それが恐らくは機能美を語る人間達にとっては、一番堪える瞬間のように思われたりする。

 ただ、そこでグッと堪えて、何をか言葉をつくらない事には、それらを称揚しようという人間達にとって、本当に「機能美」を祭り上げる事には繋がらないだろう。

 

 機能美に近い印象をもたらす言葉で「実用」という言葉がある。

 確かにそれは、機能美で言わんとする辺りの持つ一面を、それよりか強調した表現であろうと思われる。だがしかし、これも矢張り言わんとする所を余さず含んでいるか、というと未だ未だである。寧ろ「実用」とかいう言葉は、稍もすると、機能美という言葉で表明していた意識と対立する場合さえある。

 飽くまで、「美」という言葉を用いて残そうとした機能美を、時に実用は装飾に対して不十分な機能美が遇したように排除しようとする。これに対する機能美の立場は曖昧で、実用を自分達の核と見做す朋輩は、実用が自分達自身を切り離しに掛かる事にも無関心であろうとし続ける。

 他方、無関心でいられない勢は、嘗て自分達自身が切り崩そうとした装飾よろしく、これに抵抗してみせたりする。その場合でも、果たして自分達自身の不十分さには無関心の体を成している。

 そうしないではいられない、という事情も分からないではないーーというのも、殊、機能美の置かれた立場というのは、あんまりに酷薄で、どれだけそこから先に論を進めようとしても、為の資材が、余裕がないのである。

 

 ただ、そんな悩みとか苦しみとかいうものは飽くまで言葉にしようとすればこその葛藤である。

 そうしようとしなければ、果たして機能美の立場は明解だ。それは「いい仕事をする」という一事に尽きてしまう。

 山とか海とか、生態系とかは人間には作れないものだと考えられている向きは今でもない事はない。だが、それが(良かれ悪しかれ)出来てしまっている現実は確かに在る。

 電信柱や鉄塔、地中の水道管や地上の道路や鉄道など、そうした人為は言語を俟たず、二十四時間三百六十五日、人間による「いい仕事」を体現し続けている。それも日々、耐えざる保守点検の上に、である。

 

 そうした事を意識したくないのは、ひとえに最初に示した対立意識を、その問題の存在自体をはなから認めない為だとか、邪推したくなるのは、私ーー筆者が、何方かといえば機能美寄りの人間だからに他ならない。

 例えばローマの水道橋が何百年経っても堅牢なのは、現代よりも古代の技術が優れていたからで、故にローマは偉大なのだとか、そういう話は聞く耳を持とうとは正直思わない。

 刹那的、というのは概ね良い意味では用いられないが、思うに機能美は刹那的で一回こっきりである。それは、生きた人間を道具として見た時に最もよく分かる事である。

 その場合、人間は消耗品である。その消耗品が為す仕事というのが美しいのは、決してその道具の価値に因むものではない。どんなものでも生きた人間の所産である事には違いない、が、そこに良し悪しがある。しかも、それを決める秤というのは天与のものではない。

 そして、そんな生ける消耗品達にとっての機能美というものは、そうではないやんごとなき品々には関係のない「美」である。

 土台、生き方が違うのだから、こればかりは仕方がない。

 

 いい仕事は願っても一生の内に、道具のどれもが携われるものではないが、願わくば道具で終わる以上はそういう仕事にあり付ければーーと願う所だろう。

 だが、その念願、発心がそもそも悲惨ではないか、という批判に拠って立つ所から、機能美はそんな道具達が、自分達も人間である事の証し立てとして用意された感がない事もない。

 しかし、どれだけそこで道具達が自分達も人間であると言い張ろうとしても、所詮は自分達が道具であるという証明を先ず打ち立てようとしているに過ぎない事に、或る程度、話を進めた所で道具は気付いてしまうのである。

 そうして、愈々自分達の前提を打ち壊そうとした時に、機能美は、自分達の目標すら破壊してしまう事に気が付いてしまい、それ以上、自身を奮い立たせる事が出来なくなってしまう訳である。

 

 そこで必要なのは、百尺竿頭からなお一歩踏み出す心意気なのだが、これも当然ながら、刹那的な向こう見ずな行為であって、駄目で元々である。だがそれが絶えず普段から必要な、その位に人の世は不安定で、人類の文明というのは脆弱である。それが磐石に思われるのは、普段から膨大な身投げが為されているからだろう。機能美はそうした貢献への尊敬も当然含むのだろうが、それが苦痛の種になるのも一面の真実には違いない。

 

 実用という言葉は、この機能美の有する心苦しさを除去したものではないかと私には思われたりする。ただ、言い方を変えたからと言って、それがなくなった訳ではない。人間の営為に伴う心苦しさから逃れて、自然の内に楽土を見出そうとするのにも、実用と同じ忌避が看て取れるものだ。

 そんな考え方で「無駄」として排除されているものは、他でもない、何某かの感性なり、注意や関心そのものであって、それだから別段、本当には生活を改める必要もなかったりする。

 

 自分が何方かと言えば道具よりだ、という事は先述した通りだが、それだから私の場合には、その苦しみとかから逃れる術として、自分を何かの道具にしてしまう事を選択肢として選んでしまう。そうして、単に積極的に痛みを和らげようとかいう考え方に因むのではなくて、些細で稚拙な仕事ながらも、自分自身の性分というのがそもそも、道具に相応しい事に気が付いた時に覚える安堵を得ようとするのである。

 それを非難するのは簡単である。そして、そんな非難を受けての私の態度も実に曖昧なものである。というのも、結局それは大した仕事も出来ない内だからだが、辛うじて、そもそもそんな痛みを伴うにも拘らず、それにも我慢出来るような仕様になってない人間とかいう道具の仕立てがなってない、という減らず口を叩く事は出来ると思っている。

 それは私の「人間」に対する理解のお粗末さの証左でもあるから、勿論、そんな場面に出会さない事が何よりだが、何か普段から電信柱や鉄塔の話を事ある毎にしていると、いつかそういう衝突があるかも分からないのが実情とに思われる。

 だが、そんな衝突の一つも生じないような事態も私は望んではいない。

 自分の広めている話がそうした衝突に至るであろう事が自ずと目に見えている場合、係争は覚悟の上で行わなければまずい仕事であろう。

 決してそれを欲している訳ではない。ただ、その目論見が外れた場合は、自分がミスリードしていたという事になるから……ミスリードであって欲しくない、という願望があるのも否み難い。

 

 そして、今ひとつ本音を記すと、自分は機能美が「役立つから美しい」というような事を言っているような風にはなって欲しくない。役立っているとかいないとかいうのは、概ね感想に過ぎず、それを判定するのは恐ろしく難しいのだ。

 だったら、潔く快不快で切った方が判明でいいと思われる。役に立つ、立たないというのが姑息なのは、それが一見して何か快不快という見地から離れた指標に見せ掛ける言いだからである。そんな方便を使用してまで、どんな守るべき体面があるのか、とは果報者の自分の見である。

 「だから何?」で一蹴されてしまうような、浮薄な何某かに依拠するのは自分も同じである。ただ、その掴んでいる拠所とするものが違うのであって、それがお互い知り合わず、打つかり合いもせず、お終いまで関わり合いがなければ、一顧だにせずとも済むものであろうが、そうもいかないのが、ご時世であり、浮世である。

 更に、自分からわざわざ口論の火蓋を切っているのだから、全く知らぬフリで管を巻く事は無理である。そこで尚更、火の粉を避けようとして動こうとすれば、その仕事は中途半端に終わるように思われる。

 

 所で、結局、私が此処で記したような機能美云々の話は所詮私丈の話題であり関心なのかも知れないが、だとしてもその道具を自分で用意して何か作る事はやめられず、それは私自身にとり楽しい事である。そうしている間、自分は自分を道具として上手く働かしている実感を得る。そうして得られるのは心身の健康であり、これは私自身の生存に不可欠である事は言うまでも無い。

 消極的で裏寂しい、心苦しさを紛らわす為ではなく、私は積極的に健康的であろうと欲する。

 機能美は果たして、健康とも密接に結び付いている。それ故に気付き難いのであるが、自身の生存と密接に結び付いている事が、これの特徴のように考えるものである。

 普遍的では無いにせよ、自分にはこれより他の生活に関心を持つような事は難しいし、強いてそうする必要を感じる事も今の所は無い。個人的な背景がそっくり迫り出したものだと断言出来る。それを凹ませるのが何か作法だとしたら、いずれそうする必要が出て来たらするまでの事で、今の所はこのままで過ごそうと思う。

 それが吉と出るか凶と出るかは、それこそ分からないものだが、少なくともそれで駄目だったら、はなから無理な相談事だったのだと知れる迄の事である。

 

(2021/02/27)

寓話作家の虚構性

 アイソポス作の寓話の実在は確かではないものの、寓話の作家・語り手としての彼の実在は二千数百余年の間、長らく信じられて来たものである。

 彼の名前が冠せられた寓話の中でも取り分け、有名な物語に『羊飼の悪戯』、通称「狼少年」という物語が挙げられる。

 そこで出て来る少年は、度々「狼が来る」と嘘を告げて回っては、周囲の人間を驚かして愉快に浸り、終には全く信を失った。そして、真実狼が現れた時には誰からも真面目に相手にされず、狼に襲われて惨死を遂げた。

 狼に食い散らかされた屍というのは、大方直ぐには誰と判別出来るようなものではないだろうが、アイソポスの痕跡も又、そんな嘘つき少年と同じ末路を辿ったものである。

 それも彼が仕切りに饒舌を奮った為であろうが、果たしてアイソポスと少年の違いは、彼が人々が面白がって聞きたがるような話を吹聴して回っていたであろうに対して、少年は誰もが全く耳にしたくもないような事を捏ち上げて喧伝し、混乱を煽動した点に終極していると言えるだろう。

 

 その代償として、少年は聴くも無惨な死を与えられ、物語の中の登場人物として明らかに、その存在を揺るぎないものとした。そして、その悪事を営々今日まで語り継がれている者である。他方、アイソポスの存在は賞賛と名声と共に数十億数千億の人口に膾炙され、人類史上稀に見る境地に達した殆ど唯一の作家となったが、その生涯に関しては悪行の一つも言い伝えられるような事なき存在となった。

 アイソポスと少年を比べれば、最早何処にでもいて、何処にもいないようなアイソポスの存在は恰も神の如くである。だが然し、見方によって、アイソポスも嘘つき少年も共に無名の哀れな存在として扱われているに過ぎぬものとして言い包める事も出来るであろう。

 

 所で、そんなアイソポスに代表される寓話作家の虚構性は、その作家としての筋の良さを表す指標であると受け止められるべきものである。と同時に、その肝心の言いを、時宜に時節に符牒した事共を伝えられなかった筋の悪さとしても受け止められるべきものである。

 作家が寓話を述べるのに、その時々の出来事についての洞察やら諫言を述べる事を目論んで創作したかも知れない事は、今日、彼の他、有象無象の作家達の残した無尽蔵の著述から察せられるものである。そうしたそれぞれの時代のかんばせを形容していたかも知れない事共は、しかしながら、紆余曲折を経て目鼻をすっかり失ってしまった。その数も果たして膨大な数に及ぶ。

 そんな、今ではしゃれこうべになってしまったような物語を有り難がって、肉付けしてかつての面目を復元したりするような作業も面白おかしいものであるが、そもそもこうした血肉の腐敗の原因になるような事は何であったかと思いを巡らせるにつけて、作家が凝らした工夫が災いしたーーという結論に達せずにはいられないものである。

 

 何よりも、寓話に生きた血肉として付与された「こそばゆさ」こそ、寓話の腐敗第一の原因として挙げられるものである。

 面目を形作っていた素材は、平生、何か深刻な物事とかに頭を煩わせるのを得手としない聴衆の耳目を集中させんが為に用いられた技芸であったのだろうが、それが果たして仇となったとは考えずにはいられないーーという訳である。

 

 これは世の作家が屡々、腕に縒りをかけて優れば優る程に到りがちな過ちであると言えるだろう。

 何事か言い得たかのように書き上げたとしても、それは所詮、何処までも譬えに過ぎず、真実相を示し得た訳ではない。しかし、観客はそうとは先ず思わないもので、はやとちりをしてしまうのであるが、これは全く人間の性である。何せそんなに悠長に生きられる程、人間の生は安泰でもないし、長大でもないのだ。

 そんなそそっかしい生き物に対しては、先ずそれが誰かの創作した物語であり、自ずからそこには作家の偏見なり穿った見識というのが潜んでいるのだーーという警告を示しておく必要がある。勿論、騙くらかして骨の髄までしゃぶり尽くして食い物にしようと企んでいる場合には、そんな文言は必要ないのであるが、即ち、「信じようと、信じまいと……」という口上や、作者の氏名、作品・書物の制作・発行年月日、発行者名・版元などなど、本の奥付に書いてあるような事柄が、作家の如何ともし難い過ちを補完する「おまじない」なるのである。

 だとしても、そこまできちんと目を通すような読者なり視聴者というのは決して多いとは言い得ないのが実際の所である。

 ただ言葉として「物語」を知っていたとしても、それがどんな風で、どんな事柄を指すのかーーという事までを知らずに一生を過ごす、という人間の数も又、過少とは言えないものである。

 そんな人間は大抵、激情に任せて上演中の舞台に踊り上がったとしても、自分がそこから無碍に排除された理由を最後まで分からずに、遣り場のない悲憤に駆られて余生を過ごす事になるのである。

 更に、当の本人からしてみれば、それが一そ芝居の最中に舞台の上に闖入してしまったものであるからだった、と認めてしまえば楽になるものだろう、と察しが付いていたとしても、諾々として自分からは認められようものではないのである。

 そして、それは人生の殆どをスクリーンか、或いはモニターを前にして終えてしまったというような事を、それによって追認しなければならないような状況に既にして陥ってしまっているよう者であるならば、尚更、困難な一事であるだろう。

 

 さて、この様な愁嘆場に到ってしまった人間は、せめても自分にとって都合のいい物語を何とかして残りの人生をかけて良い塩梅に創り上げようとするが、殊更物語を作る研鑽をそれまで積んで来た訳ではない者達にとって、何か自分と同じ名前の人物を主人公に仕立てた物語を描こうとする試みが、そう上手く運ぶ筈もなく、結果として、より多くの資源を無駄にして困窮する羽目となる。そして、更に深刻な後悔と苦痛を被りながら、とぼとぼと力なく先の短い隘路を肩を窄めて歩くより致し方なくなるものである。

 

 不世出の寓話作家ですら果たして、本意か本意ならざるか、自らの創作物により生涯を食われてしまったものであった。

 仮にアイソポスが世にいう真理、真実と呼ばれる何事かを語らんとした者だったとして、正しくそれらは彼自身をして世を欺きせしめた挙句に、世人をして彼自身を真理の代名詞として残らず食らい尽くせしめ、後世に余塵も残さぬよう仕向けたものであった。そして、彼の語る所を挙って求めた消費者も又、同様に自身の名前を残す事なく塵に還ったものであった。

 

 自らの生涯や思念について何をか言わん、言葉を費やさんとした時には最早その弁舌が全く用を果たさなくなってしまっているのは、何も作家許りの運命ではない。

 それは普段から自らの駆使する言葉というものを買い被り過ぎる嫌いのある人間の、未だ幼きに因むものであると思われるものである。何か今現在達している段階の言葉という道具を用いて、その道具で輪郭をなぞった真理を捉えられると自身を頼んで疑わぬ姿勢ーーそれこそが、アイソポスに代表される顛末を招来するであろうものである。

 そうして、人間が、自らが全く言葉というものを使い熟しているものだと思い込んでいる内は、こうした出来事は数万年、数十万年、数百万年の間繰り返され、そして数千万年か経た後に、漸くその後裔が辛うじて生き残っていて、この「言語」とかいう機能を何とか使い熟せるようになった頃には、アイソポスの寓話も、現生人類の痕跡も、僅かに地層の数ミリメートルに名残を留める許りとなっている事だろう。

 

 それを幸と捉えるか不幸と捉えるかは、人それぞれの立場に依るだろう。

 だが、概ねこの様な事柄は全く一個の、健康な人間の生涯には無縁な話であると筆者には熟思われる次第である。

 

(2021/01/24)

『件』より『真実はかく佯る』まで

 人偏(亻)に牛と書いて、件(くだん)と読む。

 依って件の如しーーとかいう言い回しがあるくらいだから、何とは無しに誰しもが意味を把握しているだろうかと思われるものだが、その辞書的内容はどんなものか?

 試しに手元の紙の辞書を開いてみると、次のようにある。

くだん【件】(くだりの音便)

①「くだり(件)」2に同じ。「依ってーの如し」②(「ーの」の形で)いつものきまりの。例の。保元「ーの大矢を打ちくはせ」

広辞苑』第六版より

 ただ、本稿で扱おうというのは、上の件の件の方ではなく、怪談・くだん(件)と、そのネタ元になったであろう妖怪・くだんである。

 要するに、それは「誰も知らない怖い話」という意味のタイトルだけの怪談なのであるが、偶々同じ名前の妖怪(アマビヱみたいなご利益がある、元ネタは中国の怪獣・白沢)がいたものだから、それと合体してさまざまな物語のネタにされている。

 

 先に話をすると、妖怪・くだんのビジュアルは、人面牛である。より詳しくいえば、人面仔牛なのであるが、これは最近だと奇形の牛の胎児だと考えられている。実際、奇形の仔牛は長生き出来ずに、生まれてすぐに死んでしまう。

 くだんもそんな仔牛と同じく直ぐに死んでしまうのであるが、その前に人の言葉で予言をして死ぬのだとか言われている。そして、その予言というのが、「私の姿を描いて家に飾れば、厄除けになり」とかいう、完全にチェーン・メールの元祖とも言うべき内容なのであるが、その辺りに触れだすと、前置きに過ぎない話が余計に長くなるので割愛する。

 

 この奇形の仔牛が「くだん」と呼ばれるようになったのは、恐らく「件」の字がそれを表すのに適していたからであろう。或いは、この妖怪自体が、子供を揶揄う大人の悪戯のように、今ではすっかり忘れ去られた昔のストーリーテラーが「件」の字から着想を得たのかもしれない。

 

 奇形の仔牛や仔羊の誕生、といった事例は古今東西を見ても、何某かの兆候として捉えられる向きがある。「あった」と書かないのは、それが現在も見られる一種、人間の本性的な傾向であると思われるからである。

 人の顔に見える模様や造形をその体に宿した異様の動物の出現を何かの変化の前触れか、或いは現在まさに起こっている変化の兆として結びつけるのは人間の癖であろう。それが、妖怪・くだんの設定の今一つの起源だろう。

 所で、この妖怪譚とは別に、二十世紀の中頃から語られるようになった「誰も知らない怖い話」『件』の方は、この予言獣・くだんの物語を下敷きにして、更に杳として知れない体を成している。

 ーーただ、そもそも「体」と呼べるような確固とした筋や由来自体が定かではないので、杳としているもしていないも、それは空虚としての真っ暗闇そのものに相違ないのかも知れないが、兎も角、その怪談というのは、

「タイトルだけは伝わっているものの、その内容のあまりの恐ろしさに、知ってしまった者は死んでしまったり、語る事を恐れるので誰も内容を知らない」

と言う、ちょっと考えてみたら、全く人を食った、少しばかり手の込んだ悪戯であると容易に知れるものである。

 

 ただ、その手の込んだ悪戯は、一種の寓話として甚だそのタネに気づいた者に不安を抱かせる。

 果たして、世の中には本当にそんな風な物語が実在するのではないか、という不安である。

 実際、私たちが普段生きていて、それ自体ちゃんと読めていると思っている物語も、実の所は表層に過ぎないのではないかーーという、この不安は、「胡蝶の夢」とか「夢応の鯉魚」とかに著された古典的な不安である。

 無線装置の回路がトランジスタやICチップになった所為で、その回路の仕組みが感覚的によく分からないような若者が増えたのではないかーーという文章が、果たして2000年代初頭の初心者向けの無線通信の参考書に載っていたりするのを見かけた事があるが、それも現代版「胡蝶の夢」とでもいうべき“寓話”であろう。 

 2000年代というのは、程度の差こそあれ、常に此の不安がサブカルチャーの主軸であり続けたものだろうと筆者は漠然と感じているものである。

 ただ、それが2000年代に限定されたものかといえばそうではなく、遡れば本邦では19世紀の末頃から、此の手の不安というのに苛まれていたものと思ったりもするのである。勿論、そのきっかけや背景は千差万別に違いないのであるが、振り返ってみると、辿り着いた先には何かそんな、空虚がポカンと口を開けているような、そんな気がしてならないのである。

 

 所で、亻に動物を意味したりする一文字を加えた字として、「件」と似たような「佯」(ヨウ)という文字がある。

 普段使いはされない上に、今だと単体では更に用いられる事が少ない。

 これを使った熟語に「佯狂」という語がある。先のと同じ辞書に依れば件の如し、である。

ようきょう【佯狂・陽狂】

(「佯」はいつわる意) 狂人のふりをすること。また、その人。

 「佯狂者」というのが、正教会における聖人の称号の一つにあるが、そこでは狂人を装って神理を説く者の意味として使われる。これに近い印象の語としては、禅宗の「風狂」が挙げられよう。

 共通しているのは、狂っているも、真理を語っている・悟っているというのも、いずれも傍目の評価であるという事である。本人が別にそうだと示している訳ではないのが、恐らく、これらの概念を考える上で重要であろう。

 殊に、本邦では風狂的な態度が、(実際それを体現する者が現実にあったかはともかく)理念なり美意識としても好まれる向きが、特に都市社会の一部に於いて認められ、継代今日まで培養せられて来たものである。

 その一部界隈の価値観を拾い上げて、殊更に発揚した運動が二十世紀後半の好事家を中心に担がれたのが、幸か不幸か、今日、「思いやり」だとか「まごころ」だとか「おもてなし」とかう世俗意識に名残を止めていたりするものであると推測されるものである。

 そうした世俗意識はさておき、佯の話を戻すと、これと先述した件の話とには、うっすらとした関係が実はあったりするのではないかーーというのが、本稿の漸く提示する所のテーマであったりする。

 

 一説に依れば、怪談・件の震源地の一として目される人物に、今日泊亜蘭が挙げられる。

 日本SF界の長老であった彼は画家・水島爾保布を父として、その父の縁故で繋がりがあったとされる人物の中に、日本のジャーナリズム界に於いて重きをなしたが、いまいちそのポジションがよく分からない人物・長谷川如是閑がいたりする。

 本稿のタイトルに掲げた今一つのキーワード、『真実はかく佯る』は長谷川如是閑の随筆集の代表的著書のタイトルである。一見すると真実が何をどう佯るのか分からないものであるが、その序文(戦後に出版された版の「まえがき」)も謎めいていて、これを読み解くには穏当な手段としては出版当時の種々の状況や、個々の随筆のコンテキストを踏まえる事であるが、その煩瑣である事は言うまでもない。

「真実」は、それみづからを啓示するに、「ことば」をもつてせずして、「歴史」をもつてする。しかし、それに表裏あり、矛盾あること、恰もいつはり多き「ことば」の如くである。その「真実」が、歴史のレンズを通して、私の心に映つた影を捉へようとしたのがこれなので、『真実はかく佯る』と題したのであつた。

ーー著者のことば、朝日文庫版「まえがき」

 この、何処か預言者や霊視者じみた書き振りが、随筆家・長谷川如是閑の文体というか、作者として演じていたキャラクターを物語る端的な証拠である。

 何か言わんとしている事は明らかにするが、その正体は決して見せずに包み隠す。それが文筆家としての長谷川如是閑のキャラクターである。

 

 文章も漢文読み下し的な面持ちを保つながらも現代文として体裁が整えられているのは、流石に明治から昭和の三代にかけて健筆を奮った新聞記者の面目躍如とも言えるところであるが、兎も角この、敢えて櫛の歯を抜いたが如き“観念的”文章は彼の若かりし頃からの文章スタイルであり、それが何か、明治末の反政府的(文字通りの意味で)メディアの中で持て囃されたのである。

 怪しげな、とか、胡散臭い、という言葉は、殊にエッセイなど文芸作品の筆致に対しては相応しい評価であろう。勿論、それは後世の、一々の記事の受容されたその時々の趨勢というのが分からなければこその見には違いないのであるが、それを差し引いても、彼が易者か何かのように敢えて物事を寓話的に語っていたのは確かな事である。

 「当たらぬ的」という、如是閑の執筆業に対する戦前の同時代評は正鵠を射たものであろう。その意味する所は、何とかその記事から尻尾を掴んで、当局が彼を検挙して筆を挫こうとするのであるけれども、その攻撃を巧みに如是閑は躱すーーという褒め言葉である。勿論、それには比較的親しい味方からの贔屓目もあってのものであるが、直接社会運動には携わらず、飽くまで思想的支柱であり続けようとした彼の立ち居振る舞いは、文学界からは正当とは見做されず、又彼自身も所謂相手方の創作活動と自身のそれとを区別して憚らなかった。

 

 話を戻す。『真実はかく佯る』は随筆集であるが、それぞれの作品には共通するモチーフやテーマは見出し難い。その為、個々のテキストについても、戦前出版された版では序文もない為、余計に「何が言いたいのか分からない」ーーという感想を、恐らく現在の読者の多くには抱かせる代物であろうと思われる。

 勿論、書名には「真実は」とあるので、それを手掛かりに、そこに書かれている内容は、何がしか、この世界の真理ーー著者の後年の語る所の言葉に置き換えれば「常識」「コモンセンス」ーーを現した寓話であると読み解く事は出来るのだけれども、此処で問題となるのは、彼・如是閑自身に信頼性、況んや正気である。

 長谷川自身も、此の問題ーー即ち、自身の正気/狂気を巡るパラドクスについては相当思いを巡らせていたようである。小説『奇妙な精神病者』では、自己観測のパラドクスに陥った男性精神病患者を主人公にして、最後にその狂気が伝染したような不安を見学者である物語の語り手に吐露させている。また、これを日本最初期のSF小説とする向きもあるらしい(曰く、それを提唱したのが先掲の今日泊だとか)空想科学小説『無線電心機』では、「他人の精神を変じて、それを他人自身に代つて言語にする機械」"Wireless Telepathophone"によって、被験者同士の精神が混ざり合ってしまう顛末を、男女の恋愛模様も織り交ぜながら喜劇仕立てに描写している。(此のあらすじ自体は、二十一世紀の現在においても十分、通用するアイデアには違いなかろう)

 極め付けは、寓意的記号が頻出し、その為に最早、伏字だらけの文章と左程変わらない小説『幻覚』である。

 新聞記者として翻訳も度々こなしながら、同時に苛烈な時局批判とそれに応酬する検閲、その他商業誌に掲載するに当たっての諸々の配慮などを日常茶飯事として観察していたであろう如是閑の文芸作品におけるその反映や実験的試みは、手品の様な奇抜さも相俟って読者に内容まで没入させる事を阻む傾向がある。正に手を変え品を変えーーと言った具合であるが、又、その深みに沈んだ物語の主題自体も、一般に彼の記事を読むような層には埒外にあるものだと言えそうである。

 大体、その深底にある動機は容易に取り出せないように沈められているのである。検閲者も読者には違いないし、又読者をして何か霊的に感化せしめるようなものというのは後述する理由から、彼が回避したものである。

 

 要するに、長谷川如是閑という人間個人の正気を問題とするのは、一般の読者ではないという事である。それを気にするよう読者は、他ならぬ彼のステイクホルダーに留まるのであるが、それこそ彼の利害関係者というのは限定された極少数だ。

 ただ、長谷川如是閑の正気ーー理性を彼自身が問題としていた、と捉え直した時に、彼の小説や随筆というのは、時局風刺という皮層が捲れ上がり、惑乱する問題意識を露出するものである。即ち、自己の何がしか拠とする所の、彼自身の素となる何かを彼は長らく探り当てようとしていた事が見えて来るのである。

 それは彼自身が態々表現する程でもないと軽視した、彼個人の内面の問題である。ただ、その代わりに彼が重視したのは、彼を取り巻き、彼自身に影響を及ぼす世界であり、又、彼自身がその中に埋没していると認識していた歴史であった。

 それらと切り離され、全く彼個人の中で完結して、又彼個人の内に起源を持つ事への関心は彼の中で封印されていた、というか、彼自身が把握出来ていたかは怪しい所である。

 然しながら、自ずと彼が社会や人間、文明や歴史を批判しようとすれば、その背後には自身の影が長く長く尾を曳くようになり、それらの影響を取り除いて彼が何かを語ろうとすれば、自分の影を小さくする為に愈々彼は自分を批判の対象として語り尽くし、分解してしまわなければならなかったのである。そして、自分というものの由緒を社会や歴史と結び付けて語り尽くす内に、自身を恰も小英雄かの如く歴史のタペストリーに織込む事に彼は成功してしまったのである。それが牽いては彼自身の世間的信頼を増す原因にもなる一方で、彼自身が自己の内奥に押し込めた何某かの存在を特定する縁となったとも考えられるのである。

 又、そうした“織り込み”の過程で彼の自身とそれ以外の境界は却って堅固なものとなり、個性が際立ったのだった。

 それが後世、「叛骨のジャーナリスト」とか呼ばれる由縁ともなったのだとしたら、如何にもな皮肉であろう。

 

 惑乱自体を狂気と呼ぶなら、如是閑は全く初めから正気ではない。だが、その狂気を核の一部としながら、半世紀以上に渡る言論活動を展開した長谷川の技量というのは、矢張り常人の域を優に超えている。然しながら、彼の業績に於いては、此の狂気の齎した部分は左程多いとは言えず、彼自身の評価も決して風狂や佯狂といったものではなく、寧ろ、毅然として自己の主張を困難な状況にあっても貫徹した、然し同時に巧みに処世をこなした賢人としてのそれである。それが彼の職業人としてのキャラクターであり、それも彼の創作物の一つ一つである。

 故に、彼が真理という言葉を仮に括弧付きで語ったとしても、それは文字通りの意味として受け取られ、又、それを何かの比喩として受け取るにせよ、矢張りその場合に於いても、その括弧の中身は棚上げされ、彼の実験の手順が模倣されるのである。怪しげな、その括弧で括られた神秘的な中身については、読者は立ち入って覗こうとはしない。或いはその格好の中に読者は銘々のイメージを代入する。

 

 此処で巻き戻して『真実はかく佯る』のまえがきを改めて読むと、その預言者語りの癖は只管に自身を世間から韜晦するものであり、それは彼が彼自身の心裡を解明されるのを阻んだ為であったと考えるのが妥当であろう。

 そして、此処で阻止されているのは、英雄や“救世主”としての彼のイメージの出来である。謂わば、預言者長谷川如是閑の出現を彼自身が拒んだのである。それは恐らくは彼の否定したい世界観に自身が与する事になると同時に、彼が実際政治や活動に舞台に押し上げられる事を意味していた。また、それが実際的問題として彼の生命を危うくする事を彼は拒否したのである。

 あくまで彼は自分を自分でコントロールしたがったのである。だがそれが自由ならなかったのは史実の示す通りである。

 最晩年の長谷川は、遂に力を付けた取り巻きやオーソリティによって英雄に祭り上げられてしまった。既にして老境に至った彼は、敢えなくその境遇に迎合したものと思われる。コントロールを失った彼は最早、それ以前の彼自身ではなく、周囲から慕われ、尊敬されるべき人物として栄誉に包まれて過ごす事を彼は余儀なくされたのであった。

 此の関係に回収される事から彼が逃げ回った理由は自明である。何となればそれは自由が余計に窮屈になるからであった。

 

 『真実はかく佯る』に見られる韜晦は謙遜や、自己に神秘のヴェールを被せる事によってよりその魅力を増そうとする権力志向、その為の広告術としても評価し得る。或いは、そうする事で私人としての自己が誹謗中傷の的になる事を防ごうとしたとも考えられる。

 兎も角、それは言いようだが、呪術的武装でもあった。

 その場合は「当たらぬ的」には、数多のデコイもあったと見るべきだろう。そして、仮に韜晦が偽装工作だったとしても、それ彼が固持したかった自己というのはそれ自体対象として興味深い。

 彼がくだんの様にこの世界に出現する事を拒んだのには、自身が信頼される事を拒否した為でもあろうと筆者には思われるものである。それは、彼が飽くまで最晩年に至っても、周囲の息子や孫ほど年が離れた者たちを「弟子」と称されるのを嫌がり、「友人」と呼び続けた事にも端的に現れている。今日では甚だ“無責任”とか呼ばれそうな態度ではある。然し見方によっては、それは己の面倒の見られるキャパシティーの範囲内で誠実に対応した結果とも評価出来るものだろう。

 彼が新聞記者として駆け出しの頃、彼自身が薫陶を受けた界隈の新聞記者気質というのは、彼自身にとっても内的な他者である自身の立場や信条というものに基づいて言論活動に携わるというもので(建前であっても)あった。故にそこから言える事は、人間よりもその抱懐している信条や価値というものが優位に立っており、それが記者の信頼の源泉であった訳である。

 現実には然し、そんな単純には割り切れないのであるが、飽くまでも記者それぞれが独立して何某かの「志」とかを持っている事が理想とされたのである。ただ長谷川の場合は自身の求心力を自覚しつつも、その現実的な問題として、自身に周囲から寄せられた期待に応え得る資本や能力に乏しい事も自覚していた。指導者としての彼の能力は、彼に寄せられた量に及ばなかったのではないか?

 期待は彼を生かす「生ける財産」であると同時に、稍もすれば彼を拘束して疲弊させる絆しであった。彼を業界に引き揚げた陸羯南三宅雪嶺といった新聞人も大きなカリスマ性を誇ったが、為に多年、他人の面倒を看る義務によって窮窮とする事になった。フリーランスを目指した彼の立ち居振る舞いは、終始、過度の要求を自らの上に置かないようにするものであった。にも拘らず、彼には相応の「義務」が度々発生した。これは失敗というよりも、彼一人を個人事業主として見た場合の、その事業の拡大に伴う必然だったといえよう。

 

 ラジオのマイクの前に座り、或いはテレビのカメラを前にして対談したりするようになった彼の最晩年は、その外見に似合わず、新規事業に着手したフリーのジャーナリストであった。肩書きや経歴、容貌は如何にも古めかしいが、彼がその都度始めた事業は新規のものが多かった。その中で彼は期待されたキャラクターを演じた訳である。

 悩める市民のリーダーとして嘱望された彼だったが、彼自身は飽くまで「ひとりもの」であった。

 そうして考えてみると、長谷川の韜晦は今風に言えば「社会人として当然の嗜み」だったと結論づけられてしまうだろう。実際、それに尽きるのである。

 だが、その嗜みの内に個人的な見解や感情ーー傍目にはそれは(乱暴な言い方をすれば)“陰謀論”とか映るようなものーーを、完全に自己の内部に窒息させてしまうのではなく、あの手この手で巧みにその輪郭をヴェールの膚に浮かべて示しながら、一方で読者をその向こうへ立ち入らせる事を躊躇させ立ち入らせず、更に「去る者追わず、来る者拒まず」を貫きながら、それでいて孤立して餓死してしまうようなことのない塩梅に自身の価値を調整し続けられたのは、物凄い、の一言に尽きる。

 それを「そんなの社会人としては普通で、大したことではない」と今日日一部では片付けてしまう事も出来てしまうのであるが、何事も「普通」は「当たり前」ではなく、何なら、その上で業績の評価が云々されるというのは如何にも大変な事なのであると筆者は此処で声を大にして主張したい。別にそれは如是閑を顕彰する理由からではなく、思うに一般論として捲し立てるものである。

 

 直接に、今日泊の流布したとかいう件の話と、長谷川の佯の話を結び付けるエピソードというのはないのであるが、『真実はかく佯る』で長谷川が随筆という形で示した寓話で数々、世に発表したのは、昨今巷を賑わす言葉で言い表せば、数々の陰謀論である。

 この陰謀論と、そもそもその容れ物としては格好のモデルケースとでも言えそうな怪談・件は筆者の中で、今一つの観念連合を形成するものである。

 

 そもそも如是閑というペン・ネームからして人を食っている命名で、本名は萬次郎であった。「如是我聞」とは経の唱え出しによくある起首の句で戸張竹風はニーチェの「ツァラトゥストラは斯く語りき」を「如是我聞」と訳したことがある。この「ニョゼガモン」を少しもじって「ニョゼカン」としたのだろうが、「かくのごとき閑かなり」という意を通せたものであろう。

ーー『長谷川如是閑のファース』、『悲劇喜劇』1982年2月号

 この、劇作家の飯沢匡が書いているような「如是閑」命名の由来も、見方・言い方によっては、陰謀論とでも呼べそうなものだ。

 確かに如是閑の寓話的な筆致に触れていると、そういう宗教的な印象も否定しがたく、そこからそんな由来も想像したくなるものだ。

 だがしかし、長谷川自身が回顧する所、1939年6月23日の東京朝日新聞夕刊3面に掲載された『雅号の由来』に依れば、それは先ず『日本及日本人』時代に友人の井上亀六(藁村、丸山眞男の叔父)が付けたもので、「余り忙しそうにしているから、少し閑になる呪いに『如是閑』はどうだ」というのが謂れなのだという。

 故に飯沢の説は誤りなのだが、この長谷川の記事には続きがあって、その後、同誌で名前を連ねていた花田比蘆思が「如是閑」の典拠を探し出して来たと長谷川に告げた所に依れば、それは伴蒿蹊の『近世畸人伝』に収められた世捨て人になった僧侶の作った詩の文句である、というのである。

 これは井上がそう後から主張した、とか、井上がそれを認めたのではない点が勘所である。

 その詩を紹介された長谷川が、これを典拠にしたのである。詰まり後付けの典拠なのである。これは花田説が正しかった訳ではなく、長谷川如是閑が公式にそう認めたに過ぎないので、実際は典拠不明のままなのである。

 寧ろ経緯から言えば、井上が付した由来の方が正当であろうが、此処で如是閑の例によって巫山戯る癖が表れている。茶目っ気と言ってもいいかも知れない。

 此処で如是閑が重きを置いているのは、井上の掛けた呪(まじな)いである。即ち「少しでも閑になるように」という験担ぎを重んじていて、そのコンセプトに叶うなら、後付けでも、寧ろ御利益のありそうな世捨て人の畸人に肖ってしまえ、という思惑が看て取れる。

 注目すべきは此のエッセイの中で、彼がそれとなく自身が重きをなしている価値観を示した点にある。それを此処では深く掘り下げる事は割愛する。勿論それは傍目には一見して他愛のない事なのであるが、彼の生涯や他の文章を読み解いておくと、矢張りその後付け設定は彼自身にとって軽くはない価値を有するのだという事が推し量られるのである。だが、それは飽くまでも彼の内なる宇宙の中で通用する価値観であって、他人にもすわ融通出来るものであるとは限らない。

 飯沢が感じた如是閑の印象は果たして彼の外に出てもある程度通用するものであるが、それが彼の発見した根拠に基づく訳ではない事は既に示した通りである。

 然し、此処で重要なのは、飯沢の印象も長谷川の拘りもそれぞれに「真実」と呼べるだろうという事である。

 

 妖怪・くだんの話す「言葉」は、未来の「歴史」に関する予言であり、それは「真実」とされるが、これがそもそも妖怪の発する言葉であり、それに纏わる言い伝えであるという留保が大前提である。

 然し、多くの人がその実在を信じていないか、或いは知らない妖怪の様にではなく、実際に存在するらしい誰か個人が、言ったとか言わなかったとかになると、その留保は存外脆く崩れ去るのである。

 

 唐突に、此処で押井守の映画の話を引っ張って来て論じる力量は筆者にない。だが、歴史という装置を通じて影を落とす真実は、もしかしたら存在しないのかも知れないーーという様な不安は、今、ネットに典拠も未記載で漂っている図像を彷彿とさせる。即ち、テレビカメラの前で追いかけっこをする二人の人間のシルエットが一部分だけ切り取られて、追っかけている人間と追いかけられている人間の関係がアベコベに報道されるーーという寓意画である。

 巷に溢れる報道に真実はないーーというような事を暗に長谷川が示したがっていたと考えるのはそれこそ陰謀論であろうが、真実というものをジャーナリストとして自分はとうとう示し得ないのではないか、という問題意識があったのではないかと考えるのは強ち遠からずではないかというのが筆者の見解である。所謂、ニュースなどは余り書かず、「探訪」と呼ばれた事件記者のような事もしなかったという長谷川であるから、その執筆活動には余計にそんな悩みが尾いて回ったのではないかーーというのは邪推である。

 だが、一人の人間が、世界情勢や人類史の推移などを分析しようとすれば、自ずとそうした限界に行き着きそうなものである。寧ろ、そこで「真理」の方向へ突き抜けてしまった人間の意識の広がりがどんな方向へ進んでいるのかは、怪しからんものである。ただ、それだから個人の限界なんてのは高が知れていると侮るのも拙速であり、その落とし所としての長谷川の見解は、最晩年のラジオ連続講義『私の常識哲学』に於いて縷縷述べられている所だが、それは要するに各々の生活の中で形成され、出来するものとして終始繰り返し説かれるものである。

 講談社学術文庫版の裏表紙にある紹介文は簡潔にして本書の内容をよく纏めている。

日本の代表的ジャーナリストである著者は本書の中で、氏一流の説得力ある常識哲学に照らして、真の哲学とは観念的ではなく、経験的、経済的なもの、つまり「人生いかに生きるべきか」でなく、「まず生きなさい」とその本質を説き、人間らしい生き方とは何か、真に創造的な文化とは何かを簡明直截に述べている。

ここでは真理という語は用いられず、「文化」や「哲学」が用いられている。そこでは矢張り、彼個人の真実が話の内容として語られる事はないのだが、その論旨は彼にとっての真実に相違なく、その意味で今日では大分怪しい内容に思われる。巷の自己啓発本の一に数えられるそうな印象も否めない。

 最早、誰に憚る事のなくなったーー否、憚る所のなく振る舞う事を要請された彼の論舌は、己が真実を事実として語る事に躊躇はないのであった。その内容への躊躇や批判は聴・読者に委ね、彼は残された時間の中で「斯く語った」のである。(然しその講演の後も、彼は十余年存命したのであるが……)

 

 

 『真実はかく佯る』は、所で、そのまえがきに示された「真実」や「ことば」「歴史」などのキーワードから、戦前に於ける彼の日本でのドイツ思想への傾向ぶりを批判しまくった文集であるとも例えば評価出来そうなものである。(ただこれは終始一貫した彼の自国に対する批判の骨子である)

 ただ今回はそうした視点はさて置き、幾つかの比喩を用いて雑駁な文章を記す目的から書き下ろした次第である。

 況やそれは個人的には退屈から倦んだ頭の中身を整理する目的から、そして他に対しては昨日今日の話題から触発されて、何かその疲労困憊した上に鬱積した鬱憤なりモヤモヤの幾らかの発散、気晴らしに供さんという考えから認めたものである。

 結論らしい事は何もない。それは全く本稿が最初に掲げた通りである。

 

(2021/01/12)