カオスの弁当

中山研究所blog

「壺中の天」と「怪しい箱」

 

 夏なので、且つ、如何にも家の外に出るのが躊躇われる時勢なので仕方なしに自室に篭って絵を描くばかり、退屈なので延々、怪談の機械音声朗読を流している。それで、昔バカらしくて読みもしなかったが、名前だけは知っていたようなネットの怪談を聴くうちに、最近読んだ本の内容を思い出した。

 浮世絵に関する本を読んでて、久々に「千畳敷」なんていう語に出会した。曰く、浮世絵、特に風景画とかは、江戸時代「壺中の天」、仙郷に擬えられていたとか云々。

 

 京極夏彦夢枕獏も、荒俣宏も小説は読んだことがないので、この手の怪談に登場する曰く付きの小道具については、詳らかに知る所は丸でない。自分の関心の及ぶ所は、大抵ああいうジメッとした雰囲気を帯びた領域ではなくて、ピーカンでカンカン照りの炎天下の景色だったりする。

 だが、ヤレ「冥界の門」だの「極小サイズの地獄」だの、そういう風に解説されるおばけ話に登場する、ある意味での「魔法の道具」については、それが元を糺せば、矢張り、仙人の提げた瓢箪やそんなものであろうーーという事は自然、抱いてしまうものであった。

 

 とはいえ、自分は壺やら瓢箪やら、そうした器にさして食指は動かなくて、小道具よりも大道具の方に関心があったりする。

 例えば、鶴女房のバリエーションに登場する、「四季の収められた箪笥」とか、そういう大型の家具である。鍵穴とか、戸の隙間とか、瓢箪の口であるとか、そういう何か狭くて、俄には体をそこへ持っていく事が難しそうな「間」よりも、実際に上手くすれば、そこから自分を異界へと滑り込ませる事が出来そうな、そんな道具が好きであったりする。

 

 屏風であるとか、襖であるとか、そこに描かれた何かが夜中抜け出して来るような話は果たして自分の趣味に合致する。又その反対に、人が絵の中に入り込んでしまう話、というのも好みである。

 先に思い出した本の内容にしたって、浮世絵と比較されていた「壺中の天」は、具体的には当時既に縁日の見世物などであった覗きカラクリがモチーフとしてあった訳で、それは今風にいえばーーそれでも、稍、古い例えではあろうがーーアミューズメントパークの据え置き型のゲーム機や、家庭用ゲーム機、携帯可能なゲーム機に相当するものであろう。勿論、単純な比較は無理なのだけれども、ごく最近なら、今こうして操作している端末それ自体が「カラクリ」であり、又「壺中の天」と言えるだろう。

 

 別にだからと言って自分は仙人でもないし、もっと言えば、仙郷を覗いている感じもしない。

 大体、自分はそういう「覗く」楽しみというのを余り感じられない質である。というにも、理由は二つあって、しかしそれは結局同じ理由から説明可能である。

 双眼鏡であれスマホであれ、或いは聴覚的にイヤホンやヘッドホンであれ、それでもって何かを見たり聞いたりしている間に、自分の視聴野は大いに狭められる。それが自分にしてみれば、大いに不安を掻き立てられるのである。為に、目の前の「千畳敷」に没入は自ずと妨げられもするのである。

 又、自分は、だだっ広い景色が好きで、だから「千畳敷」も見たいとは思うのであるが、アーケード街の様に、奥行きがずっと遠くまで感じられる分、両脇が狭まった景色というのは、視覚として得られる「千畳敷」と矛盾する。如何にも、装置を経て得られる景色というのは、広く何処までも見えるようで、実は全然自由ならない。

 そもそも、既に記した通りであるが、自分には異界へポーンとワープしたい願望があって、レンズの彼方側に魂を飛ばして、現を抜かしたいという願望を叶えてくれる装置には向かない人間なのかも知れない。

 

 アーケード街にしたって、それは「胎内潜り」みたいに、自分には、それ自体が望遠鏡や遠眼鏡のような巨大な装置みたいに感じられる。そこを自分は加速器を通過する素粒子の様に移動する事によって、何かの次元の「幕」を突破出来るんじゃないか、という期待を抱かないと言えば嘘になる。

 狭い景色は勢いをつけて通り過ぎる「近道」であって、そこは自ずと「駆け足」で通り過ぎる、そんな場所である。

 そんな場所に延々、縛り付けられるとしたら、果たしてそれはとても苦痛に違いない。

 

 だが、そんな「極小サイズの地獄」や「冥界の門」は存外身近にもう既にあるんじゃないかしら、そして、そんな近道や抜け穴を通って、何か良からぬものは常時、自分の耳目を通過しているのじゃないかしらーーと想像してみたところで、ゾッとしない。

 それは、こんな風にして部屋に篭りながら想像するにはあんまりに馬鹿らしい。わざわざ必要もない事だと思われた。

 

 

(2021/07/23)

 

玩具で遊ぶ

 子供時分に竹とんぼの作り方を教わらなかったのは、今にして思えば失敗だった。

 とはいえ、今からでも独学でも作ろうと思えば不可能ではない筈だ。

 

 習わなかった理由に身内にそういう竹細工をする人間がいなかった所為がある。

 当時から今まで、竹とんぼとかは「わざわざ」作り方を教わるーーわざとらしい玩具で、それは何か自分には似つかわしくない伝統という風に思われていた。

 

 それに比べて、そろそろ七夕か、と夏至を過ぎた辺りから思うにつけて、自分が精々教わったのは、七夕飾りくらいだった気がして来た。

 そうは言っても、何かその土地の、家の仕来りがあって、それを代々継いで来たような代物ではなく、多分、どれも何処からか誰かが物の本や雑誌で見たり読んだりして作り方を覚えたものである。

 だから完成した飾りは、結局、スーパーとかで売っている、鍋の具材一式がラッピングされたトレーのようなものである。突き詰めれば、何処までも、自分たちの文化とか伝統というものは、それくらい「出来合い」の代物である。

 

 しかし「だから何?」というのが、やっぱり、何年も短冊やら飾りを作る間に抱いた感想だった。

 

 竹とんぼの作り方を教わらなかった事に対する後悔は二つ、それを(わざとらしくとも)教えようとしていた近所の老人から、自分が形ばかりでも教われば、それが何やかやで「本物」になったという事に気付いた所為と、今一つには、自分がそれを若し習っていたら、何かの機会に誰かに教える事も出来たのだという事に気付いた所為である。

 

 作って貰ったもので遊ぶだけでも十分構わないのだが、どうせそうして遊ぶ内に、玩具は失くすものであるし、壊れるものだ。又、何より手を加えたくなるものであるし、他人にも遣りたくなるようなものである。

 

 今更、切り出しナイフを持っていようが、蝋燭やバーナーを使っても心配されるような歳でもない。一つ手習として、竹細工の玩具の作り方でも覚えてみても、バチは当たらないだろう。

 でも竹とんぼが自分に向かないと思えば、紙飛行機や凧とかでもいいかもしれない。それも難しいかも知れないが、ともかく空に飛ばす玩具が良い。

 

 自分が下手でも、取り敢えず、作り方や飛ばし方を型通り教える事が出来たら、後は教えた相手が自分で色々、よしなにしてくれるだろう

 そんな事を不図思ったりした。

 

2021/06/24

観念小説作家としての長谷川如是閑

 小説家としての長谷川如是閑のキャリアは存外、その位置付けははっきりしている。だが、なまじ作家としての評価よりも、新聞記者、ジャーナリストとしての評価が抜群に高いから、わざわざ省みられる事は多くはない。

 明治29(1896)年といえば、日清戦争終結の翌年、この年に長谷川は処女作となる小説『ふたすじ道』を発表、小説家にして評論家の後藤宙外の主宰する雑誌『新著月刊』に掲載された。

 実の所、これが長谷川“如是閑”萬次郎の物書きとしては最初の「仕事」である。彼の文章が活字になったのはそれよりも更に遡る事、明治21(1888)年の事で、「長谷川満治郎」名義で少年雑誌に投稿した文章『そぞろあるき』がそれである。ただ、これは年齢的にも正式に彼のキャリアと数えるのは些か早計であるとは筆者の見である。

 

 『新著月刊』からは掲載作品に対して幾許の稿料が支払われる筈だったそうだが、実際には得られなかったーーと、長谷川は回想している。また当時、病を患って絶対安静を医師に命じられていた身体を押して尋ねた長谷川は、後藤から

「あなたは一寸変わった環境に育ったと見えますね」

と言われたそうである。

 長谷川の作家としての位置付けは、直接間接にも坪内逍遥というビッグネームの影が付かず離れず見え隠れしている。直接には、長谷川は幼少期に兄・山本“笑月”松之助と共に、坪内の私塾に学び師事している。そして、長谷川が小説を見せた後藤も又、坪内の影響下にあった文筆家の一人であった。

 所で、この『ふたすじ道』発表時の長谷川のペンネームは、「如是閑」ではなく「胡戀」であった。本人すらも、それを後では「支那の女の名前」といい、念願叶って『日本』新聞社で記者として働き始めるようになってからは、「胡蓮」と改めた。

 更に、三十代に入った『日本及日本人』記者時代に同僚の名付けから「如是閑」に改名するのであったが、その間、約十年の間をして長谷川如是閑の“前史”と見なすのが妥当あろう。

 因みに、Wikipedia長谷川如是閑のページでは、「如是閑」のペンネームは『日本及日本人』の後に入社した大阪朝日新聞社時代に名乗ったものという記述があるが、これは誤りで実際はその前から既に「如是閑叟」「如是閑」「閑叟」の署名を用いている。

 

 そんな如是閑前史に相当する、二十代の長谷川のキャリアは専ら作家であったと見なすのが妥当な線だ。

 長谷川如是閑として驍名を馳せるきっかけともなった、大阪朝日新聞連載の小説『?』(明治42(1909)年3月-7月、連載。後に『額の男』と改題して書籍化、同年8月)だが、これはそれ以前に『日本』『日本及日本人』という名うての大新聞の社会面で鳴らした文筆の腕を活かした作品であった。

 彼が作家になろうか、新聞記者になろうか悩んだ話は、歴史上に於いても新聞記者としての揺るぎない地位を確立してしまった後には、「言葉の綾」と捉えられがちであるが、経歴をあらためると然程、冗談でもない事は明らかである。

 如是閑として活動を本格化していた時期においても度々、戯曲や小説、随筆を執筆した長谷川のこうした創作活動は、概ね当時も今日も「小説や戯曲の体を成した社会分析、批判」として捉えられがちである。それは実際、その通りなのであるが、けれどもその言外には「故にそれらは文学作品として数えるには足らないものである」とする評価が据えられていると見て間違いないだろう。

 

 ここでその評価の遠因を辿っていくと、果たして彼が最初にキャリアを始めた日清戦争直後の、観念小説・悲惨小説・残酷小説、そして社会小説の試みとその成果に対する評価に到達する。

 況やそれは、飽くまでも小説が物語である以上、如何してもそこで取り上げられる事象への批判も物語の本筋である所の、人間関係の異動や感情の浮き沈みーーこれらをドラマと呼ぶなら、その背景や傍論に止まった事で行き詰まりを見せた。

 それに輪をかけて、作者の社会経験や知識不足が結果として露呈する事にも繋がった為、これらの試みはそれ自体としては芳しい成果を後世に遺すまでに至らなかったーーとされている。

 

 この一群に括られた諸作の作家の名前で今日にまだ幾らか大きな知名度を有する者の中には、泉鏡花、川上眉山広津柳浪田山花袋徳田秋声樋口一葉らの名前が挙げられる。この他、専ら如是閑と同様の理由からーー即ち、作家としてよりも、ジャーナリストや随筆家として名前の知られているような人物として、斎藤緑雨内田魯庵の名前も含められる。

 ここから明らかなように、当時そこに含められ論じられていた作品や作家の功績自体は、その後、個別の文脈で論じられ評価されたものが少なくない。

 ただ今からしてみると、当時としてのカテゴリーは最早歴史的遺物・事象に過ぎない訳で、それ自体は現在の分類や文脈に於いては如何程影響力を持つかーーというべきものである。

 

 長谷川如是閑は昭和に入ってから『新聞文学』というパンフレットを草してそこで独自の文学論を展開するが、それは新聞それ自体を文学の一形式として扱おうとする提言を旨とするものであった。なお、その「新聞文学」という言葉自体は、別に彼自身の創作ーーという許りではない様なのであるが、重要なのはその名前で呼んだものが「新聞の中における文学」ではなく、「文学としての新聞」だった事である。

 その主張はそれ自体として興味深いものであるが、尚興味深い事には彼自身がそうして自らのそれまでの経歴を文学史の中に落とし込もうとした点にある。

 

 彼は『新聞文学』の中で、事実の報道であるニュースと、何か批判や主義主張、意見に基づいて作された新聞記事とを区別して後者を特に「新聞文学」としてカテゴライズした。だが、彼の見解では年代記も新聞に含められ、所謂ジャーナル的な、日記的なものも新聞であり、そこには自ずから書き手の立場が反映された、共時代的な文章を総じて新聞と称していた傾向がなくもない。

 後に、彼の提言が組まれてか否か、定かではないが、筑摩書房から出た『明治文學全集』には「明治新聞人文學集」という一巻が編まれている。ただ、これは飽くまで、新聞人の意気軒高、明朗赫赫たる文章のアンソロジーという性質のものであって、如是閑の意図との距離は中々に測りづらい。

 

 大成した後に展開された彼の目論見についての話は一旦此処でお終いとして、話を如是閑前史の頃に戻す。

 既に示した、観念小説・悲惨小説・残酷小説の類型に当て嵌まる作品の中でも今日、比較的読まれおり、本も入手し易い作家のものであると、泉鏡花の諸作品を第一に上げても差し支えないだろう。岩波文庫から出ている『外科室・海城発電』は今でも頻繁に書店で目にする事の多い作品集である。

 ただ、これを以て、観念小説・悲惨小説・残酷小説の典型というには、鏡花の作品は今日の受容も踏まえて十歩も二十歩も留保が必要であろう。こう書いても筆者自身がそう読めた験しがないのであるが、何より困難と感じるのは、それを例えば実際読んだとしても、当時と今日の隔たりというものをそもそも計りかねている状況に自身あって、きちんとそれを「読む」という事がどれだけ出来るものか分からないーーという事情が先行するものである。

 

 筆者は、表題作である『外科室』と『琵琶伝』を推すものである。が、この二作品については、稍もすればその出来過ぎと思われる設定にこそ、特徴があると思われる。

 それは勢い任せの、というよりも、その勢いを生じさせんが為に仕組まれた因果というべき設定である。事故や事件を引き起こす為にしつらえられた諸々の事情は、果たして花火やドミノ倒しみたいに、破綻する事は誰にでも予見出来るのであるが、その破局を如何に描くかという辺りで、作者の技量が試みられているようなーーそんな作品の趣が見て取れる。

 

 長谷川“胡戀”如是閑の『ふたすじ道』も、そんなカタストロフィーを巧みに描いた佳作である。当時の寄せられた作品評も好評価であったが、蓋しそれは後世において、観念が先行して空疎で物足りない読み物と評される謂れとなっているのかも知れない。

 胡戀時代の長谷川の創作はこれ以外にも多数存在するが、現在一般的に入手し易いものについては『ふたすじ道』を除いて殆ど存在しない。

 強いて数に含めるとしたら、箴言集『如是閑語』が挙げられるが、これ自体は新聞に散発的に掲載されたものであり、単著として刊行された事もない。

 然し、度々そこから種々の名言集や格言集に引用されたものが、更にネット時代になって孫引き・ひ孫引きされて、今ではTwitterで日に何度も自動投稿されている。ただそれも全体のごく一部に過ぎないので、矢張り、読めるものは『ふたすじ道』のみと言える。

 だが、『ふたすじ道』で胡戀-胡蓮時代の長谷川の文学作品の傾向はよく把握出来るものと思われる。

 因みに、如是閑の作品集も岩波文庫から刊行されているが、此方は日本文学ではなくて、思想・宗教の青帯から出ているので探す際には注意が必要である。

 

 物語は最後、運命を覆す事の出来ずに打ちひしがれた少年が、その破局を経て背景の闇に消えていく様子を、盗人宿の二階に上がるシーンでもって上手に締め括っている。

 それは丁度、『琵琶伝』で亡き人との伝令を勤めていた鸚鵡の囀りに従って、かの人の墓所に誘い出される不幸な女性のそれに近しい、滑り台を滑落するような、悪く言えば一辺倒なスリルがある。実際には、滑り台というよりかはもっと勢いのついた、差し詰め、ジェットコースター(といっても、明治のそれであるから、今からすればそれでも物足りないのかも知れないが)なのであるが、その途中々々に目端に捉えられるシーンというのを果たして読者がどれだけ拾っていけるかも、今日的鑑賞においては読者にとっての課題として指摘し得るであろう点である。

 

 飽くまで物語としての制約の中で、読者に行動を促すような含意を有するでなしに、ただ読んでいる内に明らかではないが、何かはそこに批判を斟酌し得るようなーーそんな迂遠な描き方をする為の、偽装としてのエンターテイメントだったとしても、果たしてそれが十分に娯楽として享受し得るものであったとしたら、それこそ其処に批判の内在の有無の判別は困難になると言える。

 『額の男』に寄せられた同時代の最も知られた評の一つに夏目漱石の一文があるが、其処で漱石は如是閑をして「地口たな才子」という評を付している。これは果たして的確に長谷川のその後の創作傾向を言い当てている。

 大阪朝日新聞退社後の長谷川如是閑の創作活動は、筆禍事件を経た後に、当局への批判を検閲の網の目をスルスルと潜り抜ける、パフォーマティブな軽妙洒脱さを披露していく。そこで展開された彼の文筆は、話芸に対して正しく「文芸」と呼ぶのに相応しいものであるが、その、風刺と見なす事も出来るが、然しそれと判じるには尻尾の長さが足らないーーそんな寓話めいた(殊の外、それ故に後世の読者には余計に杳として掴み難い)語り口は、彼の文筆活動の中でも大きなウエイトを占めている。この評価は果たして、今日もなお揺るがないものである。

 

 ただ、いかんせん、その迂遠なるが故に持て余されている感が否めないのも現状、事実であろう。

 然し、概ね今日の如是閑の読者は、そこにどんな批判や皮肉が込められていたか、という事を先ず探そうとして読むものだから、諸作品をはなから物語としては読んでいる風では余りない。

 故に、筆者は此処で一旦、そうした読み方に箸を置くよう推め、がっつく事を抑えて、取り敢えず物語として読む事をお勧めするものである。

 ……すると、ーー飽くまで個人的感想ではあるがーー意外と読めない作品が少ない事に驚く事だろう。何をか偉そうに物を書いてしまったが、それ位、意外と難しい作品は少ないのである。

 だが、読めない作品はとことん読めない。言語明瞭、意味不明ーーといった具合の、オチが掴めない、そんな「典型」が見出せない作品が、実は胡戀-胡蓮時代から間々見られるのである(ただ、それらの作品は概ね図書館に行って著作集などに当たるか、絶版になった本をネット通販で探す必要がある)。イリュージョンはイリュージョンでも、それは鏡花の様な幻想ではない。何かといえば、それは如是閑流のイリュージョンであり、大袈裟な言い方をするなら、それは今や失われたマジック、レトリックの痕跡でもある。

 

 此処で、再び『新聞文学』の話を蒸し返すが、長谷川が言わんとした「文学しての新聞」なる概念は、彼の実践した痕跡を見るに、それらの手品の技法を指していた様に想像される。

 それは、今風なアナロジーだと、ブラウン管で見る映像や、レコードプレイヤーから再生する音楽の様な情報を、新聞に掲載された文章についても言えるであろう。

 そういう様な事を、果たして長谷川も言わんとしていた様に把握しようとするのは如何にも筆者の恣意が働き過ぎているとは反省される。

 ただ、読もうと思っても、そもそも如何やって読めばいいのかよく分からない昔日の諸々の作品については、それ位、初めのうちはミスリードを自分に許してもいいかも知れないーー。

 そう著者自身は自分に対して思われる次第である。

 

(2021/05/13)

シン・エヴァと電線と電柱と

 ネタバレにならない程度に映画の感想を書いていく。今回は電線・電柱が表象していたものについて。

 

 『新世紀エヴァンゲリオン』といえばお馴染みの舞台装置、電線・電柱は今度の映画ではあんまり出番がなかった。

 ただ、予告編などでも既に示されていた通り、出てこない訳ではないのだ。が、既にそれらは言わば「死んだ」状態で登場する。とはいえ、それらは『Q』で既に「死んでいた」訳だが……。

 

 『Q』以降のエヴァ劇中における電線・電柱達を振り返ると、『破』までは、何だかんだでそれらは、辛うじてでも健気にセカンドインパクトを乗り越えて生きながらえて来た人類とその世界の象徴の一つとして、主人公たちを取り巻く要塞都市の毛細血管として劇中景色にしばしば登場していた。

 所が、ニア・サードインパクトによって『火星の人』(映画『オデッセイ』)のバクテリアよろしく、瞬く間に壊滅してしまった人類と共に、電線と電柱は機能を停止して完全に廃墟の一部となってしまった。

 

 へし折れ、虚空に浮かび、一面血で染まったような真っ赤な世界に黒いシルエットを湛える夥しい瓦礫の中で、なおその形骸を留めて観客の目を引く電線なり電柱は、そこに映っていない生き物(人間)の大量死(正確には、劇中に於いてはそれが「死」と呼べるかは不明なのだが)の痕跡として画面の中に犇めいているものである。

 

 

 所で、海外のゲームとかだと、子供の死体とかを表示出来ないものだから、ホラーゲームでも代わりにぬいぐるみが廃墟にポツンと残されているーーというような描写に置き換えられるらしい。

 旧劇場版でも新劇場版でも割合、「エヴァ」ではきちんと人が死ぬ様子や死んでいる事を示す場面なりセリフは設けられている。

 そもそも論だが、往々にして特撮映画やロボットアニメでは人が怪獣や敵のロボットに殺されたり、戦闘が行われてその中で色々なものが破壊され死んでいく描写が、その作品の見所、醍醐味となっている。如何に死なせ、如何に殺すかーーこれが肝と言っても過言ではない。

 

 ただ、此処で注意するべきは、その醍醐味は飽くまで過程としての死に至るまでの描写が醍醐味である、という点である。

 アニメでも、殺した後の夥しい死体の散乱した様子とかは未だセーフでも、それらを破壊したりするシーンを描いたりすれば、放映が見合わされたり、真夜中の番組だろうと「湖水を滑るイカした船の映像」に差し替えられてしまう事だってある。

 蓋し、その線引きは存外、意外な所に意外な程、明白に存在しているものである。

 

 だが、それでも描きたい、或いは描かねばならない場合は色々な工夫が施されるもので、例えば人相が分からないくらいに乾涸びさせるとか、白骨化させるというものである。ぬいぐるみもそのバリエーションの一つである。

 そして、思うに今度のエヴァにおける電線・電柱も、比較的そのバリエーションに近いのではないか、と思われる。

(これは監督の半ば伝説と化した、初期の自主制作フィルム『帰ってきたウルトラマン』のラストシーンからも着想を得たアイディアである)

 

 エヴァの劇中では、実の所、主人公によって引き起こされた破局未遂に巻き込まれた人類は死んだ訳ではなく、何かよく分からない事情で人間の形を保てなくなり、一つに融合してしまって、いう所、行方不明・生死不明の状態になっているらしい。

 だから、機能停止して瓦礫の山の賑わいとなった電線と電柱も、それを「死んだ人間の痕跡」と表現するなら、「何かよく分からない大災害の発生によって、一遍に消えてしまった人間の痕跡」と解するのが妥当な所であろう。

 

 電線・電柱に限らず、破壊された家屋や街並み、交通機関なども、それ自体人間を襲った惨禍の痕跡を留めるものではあると同時に、そこからいなくなってしまった人間の「型」を留めるものでもある。

 それは丁度、ヴェスビオ火山の噴火によって丸ごと埋もれてしまったポンペイが現実の好例だ。

 ただ、エヴァの痕跡的景色は、かの遺跡を舞台にした幻奇小説『ポンペイ夜話』の様な耽美な抒情が見出せるほど古びてはいない。例え機能を停止していたとしても、電線や電柱のシルエットは、まだきちんと動いていた時の事を思い出させる程に形を保っている。生き物の死骸で言うなら、まだ温もりや面影が残っている有り様ーーとも言えるだろう。

 これが、廃墟をして、幻想が生まれる源泉たらしめる事を阻むのである。それは、よくよく見て仕舞えば只管に痛ましい景色でしかない。その痛ましさを抜きにして観る為には、形がよく残り過ぎているのだ。

 だが、その温もりが、形がなお、地上に留まっている事ーーそれが表現される事が物語の上で重要であろう事は、恐らく間違いないであろう。

 その残存せる諸々を電柱その他で表現する際には、従来の作品で用いられていたアングルで描いた、廃墟の画面が連続される。

 それによって、既に滅びてしまった、いなくなってしまった人間がそれに通わせていた電気なり何なりというのが、まだ何かその内に残っているかの様に「見せかける」事に成功しているーーように思われる。

 

 此処で“温もり”、“見せかけ”という言葉で示した事柄は、前作『Q』に於いて作中主要なテーマに据えられていたものであると筆者は考えるものである。そして、これらの主題が引き続き、新作でも持ち上げられ、それが電線と電柱に付託されて描かれているようだーーとするのが筆者の見である。

 

 

 極端にいえば、それら崩れた形でキープされた電柱や電線は、デュープとしての綾波レイの如く、魂のない肉体のメタファーとして「読める」かもしれない。

 そんな妄想を掻き立てる場面の極め付けは、月を背景に横転し続ける、宙に浮かんだ鉄塔の姿である。一瞬ではあるものの、このシンボリックなカットはテレビ版のエンディングアニメーションを彷彿とさせる映像である。

 

 ゴーチェの小説『ポンペイ夜話』では、結局青年の前に現れた古代の麗人の幽霊と彼との関係は、彼女の父によって幽霊が冥界に引き戻される事によって悲恋に終わる。身分違いの恋、基、死者の生者の分別が同作では「灰は灰に」という風に象徴的に描かれる。幽霊は灰に帰り、青年の前から永遠に失われる。

 こういうあらすじ自体は実にありきたりなもので、予測可能なものである。だから観客や読者は物語のバリエーションを楽しむものであると言える。

 作る側も工夫は当然するだろうが、見る側もそれ相応の見る工夫でもって、そのバリエーションを探して楽しむのも一興と思われる。

 ゴーチェの興趣は、ミュージアムに展示されていた「胸型」という奇抜なモチーフを核に据えた点に因んでいた。

 又、本説もその顰に倣えば、「電線・電柱」というモチーフに焦点を据えた一文である。

 

 

(2021/03/19)

神と悪魔と科学のエキスペクテーション、或いは不思議の線

▲人類の絶滅は神と悪魔と科学のエキスペクテーションなり。

▲人間の生命は国の生命より永からず、国の生命は地球の生命より永からず、地球の生命は宇宙の生命より永からず、宇宙の生命は人道の生命より永からず。

 ――長谷川如是閑『如是閑語』(1915)

 「描かれる電線と電柱」については、近年ノスタルジーを喚起するもの、とか、ノスタルジーの対象という風に言われる事が間々ある。ただ、そういう切り口が概ね皮相的に止まるのは、議論の対象である「描かれた電線と電柱」の為であると目するよりかは、論者のノスタルジーについての議論の低調さに起因するものであると見た方が適当であろう。

 この低調さについて、思うに筆者は2011年以降の電線と電柱に因んで惹起されるようになった今一つの印象の事が頭に過ぎる。

 それは、電力というものがそれ自体、現実の不安定さの象徴になってしまった、という印象並びに見解である。丁度それは、火傷をした子供が火と見たら全くこれを頑なに恐怖して拒絶する――という古めかしい比喩が全く相応しい反応である。ただ、この比喩自体が、それを用いるのが甚だ不適切であり自粛が求められるものと今日も「一般的に」判断されるものである、と、10年が経過した今日も筆者には肌身に感じられる。そして、これは何も筆者個人に限らないだろう。

 ただ、そうした自粛のコンセンサスは明確にただの一度も交わされた験はないと言っていい。にも拘らず、確かにそうした「規範」は存在するのである。ただ、それは規範というには聊か不穏当であり、屡それは全くの議論の余地もなく適応され、反省と自己批判とを要請する傾向にある。

 そんな規範が広く世間に伝播してしまった以降において、幾らかでも良識的に振る舞おうとする人々が、無邪気にそれらについて語る口を噤むようになったというのは、如何にも有り得そうな見立てであると筆者は考えるものだ。然し、この見立てが仮に的を射ていたとしても、それに基づいて種々の配慮を重ねた末に、ノスタルジー、郷愁を語るという向きに舵を切ったのであるならば、それは一見して適切なようで実は大間違いであろう。

 

 ノスタルジーは「電線と電柱」と密接な関係にある概念である。だからノスタルジー一辺倒でも「電線と電柱」を語ってしまおうとすれば、強ち一見して説得力があるのであるが、それ故に厄介な傾向なのである。

 それに拍車をかけるのが、ノスタルジーと対を成すような、カタカナ言葉が日常的に使われるものの中で見当たらない状況がある。これは日本語に於いても同様である。

 これに対して、昨今巷で見かける言葉をここで試みに当ててみようとすると、「郷愁」に対しては「希望」や「理想」が挙げられるかもしれない。然し、筆者は「希望」や「理想」は別次元のものとしてこれを当てず、「予感」「期待」という語を対置しようと思う。

 この「予感」「期待」のカタカナ語にはエキスペクテーション、より堅苦しい表現では、アンティシペーションがある。取り敢えず、此処ではエキスペクテーションをノスタルジーに対するカタカナ語として措く事を提唱するに留めるとしたい。が、例えば、この様な術語にしたって、一々議論がなされていても然るべきなのである。

 然し、巷間にはノスタルジー一辺倒の向きが無きにしも非ず、これが筆者の目下悩みの種といえるものである。詰まり、元よりこうした来し方10年の事情に関係なく「ノスタルジーだけ」を論ずるに満足してしまっている向きというのが、一定程度常に力を有する現状が別に存在しており、そうした向きと現今の傾向とが合流した時に起こる甚だしい停滞に対する憂慮乃至杞憂を抱きているという訳である。

 

 ただ、直近では練馬区美術館で先月末から開催されている『電線絵画』展や、今週最新作が封切りとなった『ヱヴァンゲリオン新劇場版』シリーズが、「電線と電柱」について注目すべき言及を行っている。

 例えば、『電線絵画』展に於いては、電柱・電信柱同様に架線を有する路面電車について、今でこそそれは純然たるノスタルジーの眼差しで見つめられるものであるが、それが登場したばかりの頃に描かれた絵画に於いては、架線を含めて「最新の都市風景」であった事が指摘されている。これは果たしてノスタルジー一辺倒に対する過去作品の鑑賞という見地に依った指摘であると言えるのみか、「電線と電柱」が未来への予感や期待、即ちエキスペクテーションの対象として存在していたことを示す意義深い指摘でもある。

 又、最新作『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が公開中である『ヱヴァンゲリオン新劇場版』については、同じ監督による90年代に制作されたオリジナルと呼べるテレビアニメーションシリーズ及びその劇場版(通称「旧劇場版」)と併せて、1990年代のアニメに於ける「電線と電柱」のメルクマールとして目された時期が長く、界隈の議論に於いても常に主位を占めて来た作品であった。故に、この程完結する『エヴァンゲリオン』シリーズの「新」「旧」に於ける「電線と電柱」の比較研究は、当座「アニメに於ける電線と電柱」の、ひいては「描かれた電線と電柱」”研究”の大きな課題であるとも言えるものである。

 

 こうした極々最近の「電線と電柱」を巡る活発な動向が、常に停滞しているように見えた斯界に勢い息吹を吹き込むことにならん事を、筆者は密かに願って止まないものである。

 それは又、個人的には、ノスタルジーという居心地のいい言葉とその魅力とに安穏を求めて、そこに止まり続けるを良しとする一定の向きに対する反発に因むエキスペクテーションでもある。

 そして、これと併せて、今一つ、世間に於いて「電線と電柱」に限らず、現在憚りながら交わされている種々の議論が今よりも十分に成し得るような寛容さがこれ以降、醸成される事についても期待を寄せるものである事を最後に付しておきたい。

 

(2021/3/11)

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(3)

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(1) - カオスの弁当 

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(2) - カオスの弁当

 

 

 さて、本稿の主旨としては、前回・前々回と続けて来て、ここで纏めて示そうというのは、彼・如是閑の小説作法というのが今少し、当初の如く、読み物として、娯楽作品として練り上げられる事があれば、今日彼の名前も幾分か今よりも知られて良さそうなものであったーーというものである。

 彼自身はその後、新聞記者として「批判」をその活動の主に据えて行ったものであるが、この「批判」というのはその文章の形式にも及ぶもので、今時考えられるような題材選びや内容に盛り込まれるようなものとしての批判に止まらなかった。

 

 如是閑が「批判」の為に用いた手法は寓話であった。『真実はかく佯(いつわ)る』はその集大成ともいうべき一冊であるが、このタイトルの読解は筆者の考えでは次の通りだ。

 即ち、寓話とは何がしか真実の一端が具体的に現れた例え話であるが、そんな例え話、事例で以ってのみこの世に現れる真実という奴は、自身を佯って人間を欺くものであるーーという所であろう。

 

 『真実は〜』以降の彼は、日本文化や伝統、「常識」についての積極的な発言を展開するようになる。その対象が果たして彼にとって、真実であったのか、或いは寓意を孕んだ対象であったのかについては、読者の立場によって分かれるところであろう。

 筆者は飽くまで、如是閑はそうした題材を実例として扱い、『真実は〜』で示そうとした一事をより明らかにしようと試みていたものと踏んでいる。

 然し、厄介な事には、彼の筆は屡々寓話と真実とを等価に扱おうとするのである。これは彼自身の思い入れと、新聞記者・著述家としての社会的・職業的立場がそうさせたものであろう。そして、この「二重性」が、彼自体を一つの寓話的存在にせしめている。詰まり、何か世の中の真理なりを知ってそれを世間に広めようとしているかのような、預言者的存在である。それが、本当の所、如何いう思惑でそんな事をしているのかは、如何とも余人/世人には中々測りかねるものであり、故にそうした人物の扱いは余程可愛がられるか、白眼視される。

 

 それが彼の世間に対してより自己をよく見せようとする宣伝活動であった、と見てほぼ間違いないだろう。そうする事で彼は謂わば自分の言論界の地位を守って来た訳である。それは自身の食い扶持と直結していた訳であり、何より彼の書く文章よりも、語った言葉よりも雄弁にその思想を体現していたものという風に筆者は考える次第である。

 極端にいえば、彼の評価に結びついているものは彼の言葉の内容ではなしに、その語っている事、書いているという事が持て囃されたのであるーーと考えるものである。それが彼の二つ名である「叛骨のジャーナリスト」の真髄であり、彼の今日的評価の限界を示すものであるように思えてならない。

 その価値は、そっくり新聞紙に準える事も出来るだろう。或いは今日のブログやSNS(これもブログの一種だが)の価値にも等しいやも知れない。ただ、あんまり此処で比喩を用いるのは話を余計にややこしくする事になるので控えようと思う。

 

 況や、彼に限らず、寓話作家はアマチュア、「素人」なのだ。素人であるが故に放言も可である、が、その言葉は何処までも軽んじられ、重きをなす事はない。ただ、軽薄故に手取り早く人口に膾炙して、親しまれる。

 その効用に注目して、何かこれを用いて世間を改造しようとか試みた者たちの中に如是閑は自身の拠を見出したのであった。そして彼自身も、そんな直ぐ火がついて燃えるような文章を好んでいた、血気盛んな読者の一人であった事はよく知られた話である。

 

 ただ、私(筆者)は、彼自身の内にはその埋み火を業火にするだけの何がしか燃料が如何程もなかったように思えてならないのである。

 それが果たして彼を不得手の通俗的娯楽小説から、一見高尚である新聞のコラムや寓話の方へ向かわせしめたように思えて仕方ないものなのである。自身の内面を探索して小説を書く事を彼は大所高所から自身の仕事ではない云々と見切りをつけてしまったようだが、それが本当に妥当であったかは、それこそもう本人の納得の問題であり、同じく「素人」ながら、故に素人考えで、彼がもう少し自身の内奥を掘削するような事をしたならば、どんな鬼が出たか、蛇が出たか、と想像せずにはいられないのである。

 

 何か物語とかを作るに当たっての、ガソリンもとい燃料というのは有り体に言えば悲喜交々の事であって、も少しカッコよくいうならパトスである。

 そのパトスを彼は若い内から早々に自制する方向に手綱を持って行ってしまい、それでもって物凄い勢いで自分のキャリアを邁進して行ったのである。見方によっては、そのエネルギーを新聞記者になる方へ費やした、とも受け止められる。

 実際、如是閑自身も新聞記者になろうか、小説家になろうか随分悩んだと述懐しているものである。詰まり、極端だが、偉大な新聞記者と卑小な小説家の元は同じと言えるのである。

 彼はその内、一方の結末としての悲惨な破局を延々回避しようとして逆走を続けた結果、大往生を遂げたのであった。

 

 ただ、彼がそうまでして逃れ続けていたパトスの向かう先に何が控えていたのかは興味が尽きない一事である。その洪水の彼方に見えるものの片鱗は、残された文芸作品に幾つか見て取れるものであるが、それを取りに行くよりかも、如是閑は現実的な生を選んだ訳である。

 そうした選択は屡々、現実にその人が生きている間は賢明なものとして評価されるものであろう。が、その死後、後世になるとこの評価は一転する事がある。それは傍が他人の人生に口を挟むような事であり、それこそ控えられるべき事であろう。

 だが、それでも嘴を挟む余地があるとしたら、それは故人が作家として小説を書いていた所にあると筆者は自身に都合よく考えるものである。

 それが何かしらの実験であり、探究であった事を作家自身が認めて、自身のキャリアとしても数えている。そこに後世の人間は楔を打ち込む事は許されているのである。何も秘密の原稿を暴き出して揶揄しているのではない。

 

 タイトルに掲げた「始メノ如ク終ワリヲ慎メバ」という『老子』の一節、「即チ事ヲ敗ルコト無シ」という句で締め括られる。

 これを素直に彼の人生に当て嵌めて読むと、後半部を切って四文字を揮毫したのは、秀逸というより他にない。当然読み手のそれは勝手なのであるが、素直に『老子』の引用として受け取るならば、それは与えられた人間、即ち読者への「命令」である。又、これを彼自身の心境を書いたものと受け止めるならば、流石は大家であるだけに剛毅であるーーとこれまた読む事も出来る。

 然し、更に此処で一癖捻りを加えて読むならば、それは「留保」として読めるものであろう。

 始メノ如ク終ワリヲ慎メバ……、その後に続くのは確かに成功を約束する力強い言葉なのである。が、そこから先は示さずに老翁は色紙を遺したものなのであった。

 そんな彼の態度を同時代の人間が「批判」しなかった事もなかったが、その批判自体も彼と合わせて忘れ去られてしまった。如是閑が新聞記者として名馬であった事は記録されている所だが、それが小説家としては迷馬であった事も同じく留められるべきだろうという事は、くどいようだが最後に此処に申し述べたい所である。

 

(終)

(2021/03/04)

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(2)

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(1) - カオスの弁当

始メノ如ク終ワリヲ慎メバ(3) - カオスの弁当

(承前)

 所でだが、如是閑と言えば何という肩書きが相応しいものであろうか?

 最も妥当なものは、新聞記者だろう。だが、今日では「ジャーナリスト」とか「思想家」、「知識人」というものまで散見される。寧ろ、新聞記者とだけ書いているものは少ないように見受けられる。

 ここで少し、そんな彼の肩書きから「知識人」について考えてみる。

 色々な意味はあるだろうが、筆者が思うにこれは「パトロンを持っている、そのパトロンから賢い人間だと評価されている人間」で、尚且つ、その生活の面倒を「間接的に」(ここ重要)支援されている人間を呼称するものであるとするのが妥当なところであろう。

 世間に数多ある「人気者」の種類の中で「頭が良さそうなキャラ」で売っているタレントーーそれが「知識人」である。実際に知恵者であるかは別問題である。具体的には、何かその人が講演会を開くなり雑誌を自分で作ろうとした時に、その雑誌を後押ししてくれる資産家のマダムが居るとか、名望家のサークルが控えているとか、そんなところである。

 数多のファンに支えられている、という訳でもないのが、付け加えて言うなら、今一つの「知識人」の条件だろう。

 

 勿論、そんな乱暴なことを言ったら袋叩きに合いそうなものだ。が、しかし、何はともあれ、袋叩きみたいなヤクザな事はしていい道理は何処にもない。言うまでもない事だが、念の為、である。

 さて、そんな手前味噌の意味に照らせば、彼如是閑は紛う事なき「知識人」である。

 ただ、ここに果たして、所謂世間的な如是閑像の多層性が明らかになるのだが、所謂「知識人」としての如是閑は、実際の所はごく狭い世間で活動していた食客未満の存在である、と同時に、職業的にはフリーとは言いながらも新聞記者であり、コラムニストであった。大手新聞や雑誌を通じて、多くの読者が見るのは飽くまでそういうチャンネル、媒体を通じて彼が演じてみせた世間体である。片や、如是閑個人が主体となって発行していた雑誌を通じて提供していた如是閑像は、明らかにそれとは区別して考えられるべきものであろう。

 

 「論客」「論壇」なんて事を言えばあたかも聞こえは良さげだが、所詮は観覧席に座る客に買われて席に座る品である。本当に請い願われて、三顧の礼でそこにいるーーというような品であるかといえば、果たして如是閑も如何だったか、甚だ怪しいものである。

 何せ彼は博士でもなければ、官僚でもない。実業家でもなければ政治家でもない上に、学歴でいえば当時の専門学校の卒である。しかも実家は破産したーーと来るから、「羽織りヤクザ」と呼ばれた新聞記者には相応しい品である。

 ただ、そんな彼のキャリアを後押ししたのは、彼より先に家計の現実と折り合いをつけて、早くから新聞記者として頭角を顕していた兄・笑月の存在であった。この笑月の存在を抜きにして、後の「叛骨のジャーナリスト」長谷川如是閑はあったものではないのだが、話がどんどん散漫になるから此処ら辺でやめにしておく。

 とはいえ、東京と大阪、両朝日新聞の社会部長の席がこの兄弟によって占められていた事実をなまじっか蔑ろにして、「知識人」如是閑のキャラクターを論じるのは手心加えすぎの感が無きにしも非ずだろう。

 

 

 話をそろそろ前回に引き続く形に軌道修正する。

 如是閑もとい胡戀のデビュー作は、懸賞金付きのコンテストで入選したものだったが、結局その賞金が作家の元に支払われなかったのは有名な話である。

 小石川の荒屋で病気療養中だった後の如是閑青年が、この間、ほぼ唯一外出らしい事をしたのは、そのコンテスト主宰者に直接賞金を取りに行った時だけだったーーとわざわざ半世紀以上経った後の自叙伝にも書くくらいだから、余程何か記憶が残らずにはいられない事だったのだろう。

 現実的には家計の窮乏と病気によって現在の生命すら危うい状態にあって、辛うじて生き長らえたとしても自身の立身出世どころか将来のキャリアも消えたも同然な条件の下で、何とか書き上げ、辛くも手に入れた小説の賞金が不意になったとなれば、中々に根に持って然るべき事項だと傍目には思われる。

 本人は晩年、雑誌の連載の中で当時を振り返り「いや、あの当時は家族揃って楽天的で、自分もそうだった」云々、吹かしているが、これを言葉通り受け取るのは、精々がその自叙伝が連載されていた雑誌の読者程度であろう。そういう飄々とした、如何にも老獪な人格が求められた雑誌媒体であった事を抜きにして、いかんせん読めないのが如是閑の記事であり、著作なのである。(無論、これは凡その著述家の著作に言える事だろうが)

 

  差し詰め「新聞タレント」として大成した如是閑であるが、彼が新聞タレントもとい新聞記者を志向して、所謂小説家を志向しなかったのは不思議と言えば不思議である。

 とはいえ、彼が新聞『日本』並びに『日本及日本人』を経て大阪朝日新聞社に入社した時点で、既に彼の小説家としてのキャリアは確立していたのであるから、大したものである。

 確かに『ふたすじ道』のような作品はその後暫く書かなかったが、それは彼の在籍していた新聞のカラーに削ぐわないものだったからだろう。なまじ小説などの娯楽も売りにしていたような朝日・読売に代表される小新聞に駆逐された大新聞の筆頭が『日本』とかだったりした訳である。

 如是閑はそんな「旧世代」の新聞の若手記者であって、その意味で「三面」社会面を任されたのは多分に経営的判断にも基づくものだったと見て良いものだろうが、そんな中で今現在でも矢鱈とツイッターBotによって流布されてるような『如是閑語』が生まれ、初期短編小説の『日本』『日本及日本人』に初出を持つような作品がこの時期執筆された。

 その小説群を俯瞰すると、『ふたすじ道』のような安直さは形を潜め、何やら慎重迂遠な物言いが目立つ作風となっている。ただ、これが少なからずコアな読者にウケたらしいのは、後の彼の「仕事」にも影響してくるものであり、それが今日的にはちっとも物語的には面白いとは思えないような作品がであっても、等閑には出来ない理由である。

 

 『日本及日本人』での仕事が結局、立ち行かなくなった後、兄・笑月の裏付けもあって入社した大阪朝日新聞でのデビューはすっかり鳴り物入りの興行となった。

 勿論、それが小新聞得意の誇大広告であったにせよ、それをするからには大朝から見ても、如是閑は少なからぬ実績を残したものと評価されていた事が此処から分かるのである。

 そして、その期待に応える形で如是閑もその「作風」を確立していく訳であるが、勢い付いた大阪朝日新聞は、往年のテレビ局よろしく、大型新人である新聞記者、もといタレントを方々に派遣して紀行文を書かせたりした。

 それが本人の意向にも合致していたので、後年、一世紀近く経った現在から振り返ると、その高邁な理想の威光に隠れてしまって、そうした興行的な新聞社の目論見が見え辛くなってしまうのだ。

 如是閑紀行文の白眉たる『倫敦』は、取材中現地での思わぬアクシデント(現地で開催されていた日英博覧会の取材をしようとしていた所で、当時の英国王・エドワード7世崩御(1910年5月)、急遽その国葬やら取材にも奔走する事になる)の取材も相俟って、旅費など予算をだいぶオーバーしたものの、世間の評判を買い、結果的には如是閑自身の新聞記者としての声望を不動のものにする連載となった。

 即ち、著述家、ライターとしての仕事の仕方を如是閑は大阪朝日新聞時代に習得したものと筆者は考える次第である。

 

 そんな如是閑だが、『ふたすじ道』以降に再び、比較的判明な小説を書くようになるのは、雑誌『我等』を自分で刊行するようになってからである。

 これが意味するのは、果たして今までとは違った読者を相手に、違うキャラクターで自分を世間に売り出して行こうとする、職業人としての如是閑の思惑である。

 

 なまじ、小説家ではなしに、新聞記者としての才能があったものだから、筆を奮わなかったーーという訳でもないのが如是閑というタレント、もとい新聞記者の出色であり、彼は籍を大朝に置く間にも、古巣を支援する形で自作を寄稿し続けた。それは矢張り、彼の若さが助けた仕事ぶりであったと思われるが、それが結局、大阪朝日新聞社退職後の再出発に当たり、少なからぬ励みとなったのだから、つくづく感服するより仕方のない精励振りと言えるものである。

 

 ともあれ、あんまりこんな事を書いていると、何だか文章が稍もすればアンチ如是閑の風情も冠してきたので、一応断っておくと、筆者は別にこれを何か非難するつもりで書いたのでもなければ、誰かの偶像を冒涜するつもりで書いたのでもない。

 ただ単純に、この場に相応しい言葉を用いれば「リスペクト」から書いたものである。

 その「リスペクト」が稍もすれば慇懃無礼にもなり、はたまた、ミスリードも誘発するとしたら、そのバランスでもって、果たして読者諸賢には、何卒ご海容頂ければと希ったりする所存。

 

(続)

 

(2021/03/02)