カオスの弁当

中山研究所blog

「壺中の天」と「怪しい箱」

 

 夏なので、且つ、如何にも家の外に出るのが躊躇われる時勢なので仕方なしに自室に篭って絵を描くばかり、退屈なので延々、怪談の機械音声朗読を流している。それで、昔バカらしくて読みもしなかったが、名前だけは知っていたようなネットの怪談を聴くうちに、最近読んだ本の内容を思い出した。

 浮世絵に関する本を読んでて、久々に「千畳敷」なんていう語に出会した。曰く、浮世絵、特に風景画とかは、江戸時代「壺中の天」、仙郷に擬えられていたとか云々。

 

 京極夏彦夢枕獏も、荒俣宏も小説は読んだことがないので、この手の怪談に登場する曰く付きの小道具については、詳らかに知る所は丸でない。自分の関心の及ぶ所は、大抵ああいうジメッとした雰囲気を帯びた領域ではなくて、ピーカンでカンカン照りの炎天下の景色だったりする。

 だが、ヤレ「冥界の門」だの「極小サイズの地獄」だの、そういう風に解説されるおばけ話に登場する、ある意味での「魔法の道具」については、それが元を糺せば、矢張り、仙人の提げた瓢箪やそんなものであろうーーという事は自然、抱いてしまうものであった。

 

 とはいえ、自分は壺やら瓢箪やら、そうした器にさして食指は動かなくて、小道具よりも大道具の方に関心があったりする。

 例えば、鶴女房のバリエーションに登場する、「四季の収められた箪笥」とか、そういう大型の家具である。鍵穴とか、戸の隙間とか、瓢箪の口であるとか、そういう何か狭くて、俄には体をそこへ持っていく事が難しそうな「間」よりも、実際に上手くすれば、そこから自分を異界へと滑り込ませる事が出来そうな、そんな道具が好きであったりする。

 

 屏風であるとか、襖であるとか、そこに描かれた何かが夜中抜け出して来るような話は果たして自分の趣味に合致する。又その反対に、人が絵の中に入り込んでしまう話、というのも好みである。

 先に思い出した本の内容にしたって、浮世絵と比較されていた「壺中の天」は、具体的には当時既に縁日の見世物などであった覗きカラクリがモチーフとしてあった訳で、それは今風にいえばーーそれでも、稍、古い例えではあろうがーーアミューズメントパークの据え置き型のゲーム機や、家庭用ゲーム機、携帯可能なゲーム機に相当するものであろう。勿論、単純な比較は無理なのだけれども、ごく最近なら、今こうして操作している端末それ自体が「カラクリ」であり、又「壺中の天」と言えるだろう。

 

 別にだからと言って自分は仙人でもないし、もっと言えば、仙郷を覗いている感じもしない。

 大体、自分はそういう「覗く」楽しみというのを余り感じられない質である。というにも、理由は二つあって、しかしそれは結局同じ理由から説明可能である。

 双眼鏡であれスマホであれ、或いは聴覚的にイヤホンやヘッドホンであれ、それでもって何かを見たり聞いたりしている間に、自分の視聴野は大いに狭められる。それが自分にしてみれば、大いに不安を掻き立てられるのである。為に、目の前の「千畳敷」に没入は自ずと妨げられもするのである。

 又、自分は、だだっ広い景色が好きで、だから「千畳敷」も見たいとは思うのであるが、アーケード街の様に、奥行きがずっと遠くまで感じられる分、両脇が狭まった景色というのは、視覚として得られる「千畳敷」と矛盾する。如何にも、装置を経て得られる景色というのは、広く何処までも見えるようで、実は全然自由ならない。

 そもそも、既に記した通りであるが、自分には異界へポーンとワープしたい願望があって、レンズの彼方側に魂を飛ばして、現を抜かしたいという願望を叶えてくれる装置には向かない人間なのかも知れない。

 

 アーケード街にしたって、それは「胎内潜り」みたいに、自分には、それ自体が望遠鏡や遠眼鏡のような巨大な装置みたいに感じられる。そこを自分は加速器を通過する素粒子の様に移動する事によって、何かの次元の「幕」を突破出来るんじゃないか、という期待を抱かないと言えば嘘になる。

 狭い景色は勢いをつけて通り過ぎる「近道」であって、そこは自ずと「駆け足」で通り過ぎる、そんな場所である。

 そんな場所に延々、縛り付けられるとしたら、果たしてそれはとても苦痛に違いない。

 

 だが、そんな「極小サイズの地獄」や「冥界の門」は存外身近にもう既にあるんじゃないかしら、そして、そんな近道や抜け穴を通って、何か良からぬものは常時、自分の耳目を通過しているのじゃないかしらーーと想像してみたところで、ゾッとしない。

 それは、こんな風にして部屋に篭りながら想像するにはあんまりに馬鹿らしい。わざわざ必要もない事だと思われた。

 

 

(2021/07/23)