カオスの弁当

中山研究所blog

柳と電柱

 柳田國男がどこかの村と村とに相似形を見出し、それを何か「美しい」景色として称揚した理由が、何でも村の中程にシンボル・ツリーとして植えられていたカワヤナギの大木を発見した為であったとか言う話を聞いた。

 又、東北の雪深い村の戸口に、人がいる標の竿を立てていたーーという習俗にも触れつつ、そこに人の住んでいる事の証として植えられたカワヤナギの木とかそういう事物に感動したとかいう話は、ものは大分違う訳だが、表象としての電線・電柱にも通ずる風情を見出せると感じて、個人的に随分興味が惹かれた。

 

 川瀬巴水の新版画は多くが風景画であるが、中でも「モダン」と評される作品の内には電柱が描かれているものが少なからずある。

 それらは当然、お約束として絵の中では伝統的に街道沿いに植えられたマツやらヤナギになぞらえれ描かれているものであるが、また一方で当然ながらそれらは街路樹ではないのだから、それらには特殊の意味があるーーはずである。

 この、巴水の電柱を考える上で、柳田の日本文化論・風景論というのは同時代のものでもあるから、当然避けては通れないのであるが、本稿は何か学術を気取るものではないから、一寸こうして留意するに留めて先に進もうと思う。

 

 柳田國男の話に戻るが、東北の各地で伝わっていた小正月の儀式の中に、カラスに餅を与え得る儀式があったというのに彼が痛く感動したーーという話も併せて聞いた。

 所謂、「鳥追い」の儀式であろうが、餅を人間が与えるという話は自分は初耳だったので、なかなか気前の良い風習もあったものだな、と感じた。併せて、さっきの標の竿の話といい、村落のシンボル・ツリーの話といい、そしておまけにカラスといい、自分の中ではそれが何やら、「電柱のある風景」にそろそろ肉薄している事に気が付いて妙な感慨を抱いた。

 

 先日、『電柱広告六十年』(亀田満福・著)という本を入手した。これは数年前に興味を持って、一度は入手したいと思っていながら、概ね高価で取引される為に手が出せなかった品が、偶然、千円足らずで出回っていたのを発見して急ぎ押さえた品である。

 その本が出版されたのが、昭和35年(1960年)の事であり、末尾に付された解説がなかなか読者を感発するアジテーションとして優れていると感じられたので、ものは序でに引用しようと思う。

 街頭に立つ電柱は言わば枝も葉もない枯れた立木とも言うべきもので、極めて無味乾燥なものである。故にこれに化粧して美化することが、都市美の高揚であり、それが電柱広告の真の使命なのである、この点より言ふも、警視庁が公安委員会云々を口にして電柱広告を排撃せんとすることは当らざるも甚だしい。また電柱広告の広告主は、主として医師、質屋等の小企業者が多い、つまり“庶民のための広告”である点を重視せねばならない、庶民は国の宝である、庶民は健実で健康である、ここに真の文化の花が咲く、都市美高揚の声は実に喧しい実に耳を聾するものがある。しかも来るべきオリンピックのために都市美を斎正せよとの声が高い、しかしわれらの住む東京都の都市美の高揚は、決してオリンピックのためでなく、ここに棲む都民の日常生活の内容充実のための都市美でなくてはならない。

ーー「あとがき」松宮三郎

 『電柱広告は我国独自のものである、電柱広告を育成し、その美化の高揚をわたくしに絶叫してやまない。』という文で締め括られた、この檄文まがいの後書きは、半世紀以上後の読者には、本文とは独立した、独特の魅力を放っているものに映った。

 

 農村のヤナギなり竿なりというのが、都市部の広告を帯びた電柱や、或いは各戸に掲げられた表札等と同じく扱われる筈もなかろうが、その両者いずれ共廃れた後の代に生きる者としては、カラスやムクドリやハトらが止まる電線や電柱を見る眼差しの源流といいものが、こうした今や失われた風景の中にかつて懐胎されていたものではないかーーという夢想を甚だしくする愚を、致し方なく行うのに少なからぬ嬉しさを感じるものである。

 

 柳田にせよ巴水にせよ、そして先の松宮の檄にせよ、何となれば、これはそういう「ありきたり」の心情に基づく見立てなのである。そこにあるのは、甚だ情けない人恋しさと切なさであり、それが何か自身が木枯らしの風のさんざめく木立の動揺するのを見て、群れ成して羽撃くカラスの鳴き声を聞いて感じる何がしかというのが、正にそれなのではないか、という「気付き」の手がかりを得て、ひと心地付かないと言い張ろうとするのはなかなかに難しい。

 今ではすっかり変容してしまったけれども、未だ未だその風景の命脈は保たれているのではないかーーという気分を抱かせる。それに十分な、彼らがあちこちに残した文なり画を継ぎ接ぎしていく事で、出来上がるのは不恰好で不様な、そして何より学問的手続きには背くものではあるかもしれない。けれども、それは端から学問の為にある景色でもなければ、生活でもない訳だから、何かそうした倫理や道徳にそぐわないから卑しいとは思われない。寧ろ、思う方が強引であるーーと幾らか強い調子でものを書く気持ちも昂然と起こって来る。

 それに自分は、何も過去の景色を追おうというのではない。今目の当たりにしている景色を風景として扱おうというのである。

 

 さて、そんな調子というのを、同時代の同世代人の諸氏は概ね冷ややかに受け止める事であろうとは思う。けれども、それを含めてそんな態度というものを無視して、自身は電柱と、そこに止まったカラスの鳴き声に耳目を傾注して、そこに人間の切なさの後始末を見出そうとするのである。何ぞ、ヤナギが立ち枯れて朽ちようとも、装飾を引っ剥がされて電柱が無味乾燥な立木と成り果てようとも、未だ人間はそこまで枯れてもいなければ、乾燥もしていない。

 そこに都鄙の別は無い筈である。

 

(2021/11/30)

 

機械と英雄と職人と――如是閑の英雄論について――

 ジャーナリスト・長谷川如是閑の年譜*¹の内、1914(大正3)年から1918(大正7)年にかけての5年間は、専ら勤務先の大阪朝日新聞社(通称・大朝)内外を巡る種々の揉め事に関する記事で占められている。

 その中に、大正5(1916)年の出来事として『大朝(だいちょう)』が『米人ナイルスを聘して宙返り飛行を催した』旨が差し挟まれている。これは年譜が、彼の著作集の付録である事を考えると、特筆に値する事項であると見て先ず、問題ないであろう。

 

 年譜に於ける此の「米人ナイルス」の曲芸飛行は、当時、大阪朝日新聞に向けられていた世間の「嫌疑」を一層堅固にするのに一役買ってしまった事項として記載されている。その「嫌疑」とは、曰く『「大阪朝日」が秘密に外国と通信する』という内容のものであった。

 ナイルスの飛行の前年、大正4(1915)年の記録は先ず、大阪朝日新聞が今日にも伝わる、「全国中等学校野球大会」――所謂、「甲子園野球」――の第一回大会の記事から始まる。

運動競技の奨励のため橋戸信氏を社会部に招聘して、全国中等学校野球大会の計画を立て、第一回を豊中グラウンドに開催したのが、今日全国を騒がしてゐる野球大会の初めである。その他極東競技大会予選会、東西対抗競技大会等、大朝社のスポーツ界への進出の基礎は全く橋戸氏の努力に拠るものである。

 東京朝日新聞が、その紙上で『野球害毒論』を掲載したのが1911(明治44)年の8月から9月であった事を考えると、大阪朝日新聞社の進出は、既に国内で全国的に相当な流行を見せていたスポーツ界に満を持して参入した感がある。因みに、長谷川は此の頃、大阪朝日の社会部長の席に在ったが、東京朝日の社会部長は実兄・山本松之助、こと笑月であった。

 

 同4年の記事は次のように続ける。

此月〔原文ママ、全国中等野球大会の開催月が8月であることから、8月か〕「大朝」主催で白耳義(ベルギー)救恤の慈善音楽会を北浜帝国座に開いたが、その時警察から刑事二名を派し、出演者のうちに犯罪嫌疑者があるので舞台裏で警戒するといったのを余は拒絶したが、後年に至って、それは「大阪朝日」が秘密に外国と通信するという嫌疑からであるといふ説を聞いた。「大朝危険思想説」はこの頃から胚胎されてゐたのであるといふ。

「白耳義救恤の慈善音楽会」というのは、当時、ヨーロッパで膠着状態に陥っていた、第一次世界大戦に於ける西部戦線の構築された現地・ベルギーに対してのチャリティーコンサートであったと推測される。さて、そのチャリティーイベントに際して、当日、会場となった劇場「帝国座」に警官2名が捜査の為に張り込もうとしたのを長谷川が拒否した、というのであるが、こうした行為が後々彼自身に捜査機関並びに当局の嫌疑が向けられる謂れとなった、とも果たして考えられよう。

 記事では単に「慈善音楽会」とだけあるから、その演目次第は不明ではあるものの、同劇場が果たして1910(明治43)年に新派の拠点として川上音二郎により建築されたことを考えると、所謂、現在、我々が想像する音楽会、即ち西洋音楽を主とするものであったと考えるのが妥当であろう。

 

 スポーツに音楽、そして航空ショーなど、急激に成長した「小新聞」が興業分野へもビジネス展開していく目覚ましい様子は、明治期の「大新聞」の記者からキャリアをスタートした長谷川ら”古参”の新聞記者達にとり、肯定しかねる舵取りであった。然し、それは時代の風向きでもあり、最終的に長谷川らベテラン記者達は、大正7(1918)年10月に大阪朝日新聞社を去る事になる。

 この大正7年10月の出来事は、世間では一般に「白虹事件」の名で知られる、大阪朝日新聞社に対する当時の寺山政権下にあった当局の筆禍・弾圧事件の余波として認識されている。だが、事はそう簡単に片づけられるものではなく、既に以前から内部に生じていた新しい時代の経営陣と、明治以来の「新聞記者気質(かたぎ)」を体していたベテラン達の乖離が、それを期に破裂した側面もあるものである。

 

 さて、そんな事件の2年前に挙行された大朝の航空ショーがどんなものであったのか。

 先ず、年譜の内容を抜粋して確認していきたい。

「大朝」は米人ナイルスを聘して宙返り飛行を催したが、後に至ってナイルスは、その頃では無謀と考へられた東京大阪聯絡飛行の計略を提議して来た。これは余等社内の一二人の間で協議されたのみで、つひに実現されなかったが、これも後年に至って「大朝」は外人が軍事上の機密を探らんとするものに協力したといふ嫌疑の原因になったといふことをきいた。時代の幼稚さ加減思ひやられる。

 長谷川は果たして、この年譜の書かれた昭和初年に於いて、当時の様子を回想して「幼稚さ加減」に呆れた旨を明記している。だが、取りも直さず、こうした航空機の主な役割が、軍事上の重要性も大きな地形の探査や測量であった事、又実際にこの計画がナイルスより大阪朝日新聞社に持ち掛けられた当時、ヨーロッパ大陸の戦場では、これら飛行機が新兵器として登場して、着々と成果と知見とを日々人類に齎していた事を考えると、一概に彼の見解が宜なり――とは、本稿筆者には思い難い。

 寧ろ、当時、そうした嫌疑が生じるだけの脅威として、一部に飛行機が認識されていた事を、此処では窺い知る事が出来るだろう。

 

 その後の日本の航空機産業の進捗は既に巷間に知られる所である。

 そして、その機運の醸成に一にも二にも役立ったのが、取りも直さず、この1910年代の欧州大戦と並行して日本国内で行われた、外国人飛行家による航空ショーであった。

 『日本・民間航空の曙 1910年から1920年、民間のパイオニア達』(2021年11月6日20時閲覧:

日本の民間航空界の夜明けを翔ぶ人たち)によると、年譜にある「ナイルス」こと、チャールス・ナイルスは、1915年12月、東京・青山の練兵場で10万人の観衆の前で宙返り飛行を行い、大歓声を受けたという。その翌年、今度は弱冠24歳の気鋭、アート・スミスが同じく青山の練兵場で有料公開飛行を開催し、ナイルスを上回る20万人の観客を集めた。

 このスミスの曲芸飛行は静岡県浜松市でも行われ、これを観に行った少年時代の本田宗一郎は、将来の夢をパイロットに定めた、というのは広く知られた話である。そして、今一人、1916年のスミスの曲芸飛行に触発され、愈々飛行機熱を高めた人物に円谷英二がいた事も、よく知られた話である。

 

 ただ、こうした逸話が人口に膾炙したのは、その起承転結の判明さも去る事ながら、此の話が「腑に落ちる」人々が相当数いた為であり、そうした伝播の土壌失くして、彼等の物語は後世に伝えられる事はなかったであろう。

 

 時代のシンボルというのは、意外にも瓢箪から駒を振り出すものであり、それから紆余曲折を経て日本に特撮映画の泰斗として君臨する事になる円谷英二然り、彼の後世・今日への主にサブカルチャー全般に残した影響は計り知れない。

 そして、それが果たして元を辿れば、片や欧州大戦、片や曲芸飛行という二つを載せた新聞が撒いた「特ダネ」であった事は、振り返れば、時代の必然とでも言えてしまうのかもしれないが、その効果の波及する過程には深甚妙味が感ぜられるものである。

 二度の大戦後、テレビの登場が人類の宇宙航空研究・開発の進捗をより身近に人々の生活に報道するようになった頃から、この「瓢箪から駒」が実際に起こるのだ――という事は、殆ど常識”になったかに思われた。

 だが、その駒が世間に普及するに従って、その知見も単に歴史という物語に於いて示される「教訓」として単に眺められるようになった。果たして、それは「瓢箪から駒」という言葉だけではなく、その具体例の起爆剤足り得た諸々の装置も、それらに対する危険視乃至期待が、その安全性と信頼性を高める為の努力が高まれば高まる程に、それらに対する根本的な関心――或いは熱狂――は薄れる所となった。

 

 本や新聞、ラジオやテレビと言った放送もこの秋扇たる運命から逃れる事は出来なかった。それらが嘗て持っていた光輝は、後世に於いて最早、それらを目の当たりにした人間の言動からしか垣間見る事は出来ない。

 其々の時代・地域に於いて、そうした機会は様々に在り得るものであって、それらはそれらの光り輝く内に直視した人間に決定的な影響を与え得る点で、屡々物語に於ける「英雄」に準える事も出来るであろう。

 今日、21世紀は全く此の「英雄」の失われた時代である。そして、それは、往時に於ける英雄の地位を、最早人間が襲う事は有り得ず、代わりに機械が人間にとり、或る時代・地域に於いて決定的な役割を果たす――そんな事を意味している。それは恐らく今世紀前半に於いては覆る事はないだろうと思われる。

 これと同時に、それは、機械が成り代わった「英雄」の役割そのものを人間が忘れてしまう事を意味しているものと考えられる次第である。

 

 マシン、メカ、メカニズム――等々、呼び方は種々あれど、それらの名前が付される諸々の器物が人間の英雄足り得る現象は、未だ英雄が人間の職業であった時代に於いても振り返れば見出せるものであった。それが機関車であるのか、飛行機であるのか、ミシンであるのか、カメラであるのか、蓄音機であるのか、船であるのか、ロケットであるのか、自動車であるのか、バイクであるのか、コンピューターであるのか、――。それは、単に人間が其々が育った環境や遍歴等、その過程に依存しており、必ずしも一様とは言えない。

 例えば、長谷川にとってのマシンーー飛行機に相当する所の英雄――は新聞であった。だが、今一つ、彼の「英雄」は陸羯南であり、三宅雪嶺であった。ただ、長谷川は彼らを「英雄」とは呼ばずに「先生」と呼びならわした。それは、彼がその「先生」らに触れたのは新聞を介していた為であった。如是閑の中で、器物たる新聞と人間たる英雄は一致していたのである。

 その認識は彼の新聞記者としての姿勢、何よりも彼自身のジャーナリズムにその後見られる。曰く、彼が大阪朝日新聞社を退いて後行った「個人的ジャーナリズム」は彼と彼の言動を彼自身が自身の頭の先から爪先までを把握しようとするかのような、見方によっては、イヤイヤ期の子供の様な”幼稚な”活動であった。然りながら、それは彼の時代の、彼に影響を与えた「英雄」の姿を彼が真似たものであったと、筆者には捉えられるものである。

 

 彼の飛行機に対して現れた、今で言う所の科学リテラシーの「低さ」は、或る意味で彼の世代の新聞の占める地位に対する、前後の世代の感度の低さに相当するものであるだろう。

 長谷川にとって果たして飛行機は関心の埒外にあったのである。そして、彼の年譜に代わりに縷々記述されていたのは、只管に新聞というデバイス、或いは人間のガジェットと自分との関わりであった。

 だが、そうした彼と彼の英雄との関わり、自身に決定的な影響を与えた装置と自身との関係についての年譜は、後世に於いて、その装置から輝きが失われ、寧ろその魅力を何とか保持しようと権威化された時代に於いては、彼の伝えんとした時代の熱気、自身らの活況というのは伝染し難い事柄であると言えよう。それは、嘗て複翼機が見せた宙返りに浴びせられた歓声と嫌疑とが、今日にも、又当時に於いても、異なる時代に生まれた人間にとっては伝染し難かった事からも推量されるものである。

 

 如是閑自身の英雄観は、果たして未だ、機械が人間に取って代わり、その人間に対する決定的作用を齎す役割を占めるより遥か以前の、又、機械が人間に置換し得るという発想の萌芽が漸く生じた頃に形成されたものであった。

 為に、今日の我々読者は、彼の英雄が「職人」という語に代表される人間の姿である事は、その著作物を読めば一目瞭然であるが、その職人が如何なるものかを知るには、今一つ不明瞭な「英雄」という語について、それが何であるかを考えながら探る――逆説的なアプローチを必要になる。

 この如是閑の、その初期から晩年にかけて何度も繰り返し切々と彼が小説やエッセイ等の中で説いた内容について、筆者はこれを彼の、人間に対する愛着の吐露である――と乱暴に片付けてしまっている。

 

 人間に対する愛着とその吐露は、果たして彼が時代の中で取り残されていく”弱者”に対する評価・眼差しとして今日解されるものであるが、それは単に社会の中で冷遇され貧窮に喘ぐ人々に対するヒューマニズムというよりも、一ひねり加えられている。

 それは、人間の披露した仕事に対する愛着が真っ先にあり、それを成し遂げた人間の知恵と意思に対する熱狂が如是閑をして言葉を震わせるものであったと考えらえるものである。だが、そうであっても、彼が好んだのは『?』(『額の男』)や『アンチ・ヒロイズム断片』に登場させた、「煮たていんげん」とその職人や、サーカスの動物とその曲芸師、或いは言論に於いては「新聞」とその記者達――ジャーナリストであった。それは、彼等が彼の生まれ育った中で出会ったテクノロジーであり、メカニズムとしての人間であったからであり、これを彼は「職人」という語で呼びならわし、終生、彼自身が「英雄」について語る際に、これに置き換え、語ったのであった。

 

 先に、今世紀に於いて最早「英雄」はその概念すら忘却された、と書いたが、果たして如是閑が、「職人」の消失を啜り泣きしながら語ったのは、半世紀前の事である。

 今世紀に入って早二十年、久しく技術開発や基礎研究、福祉・教育の衰退や壊滅が伝えられる最中に在って、曲芸飛行の様なイリュージョンが我々の前に現れる事は、先ず以って、それらの曲芸に必要なデバイスなりを作り出し、或いは曲芸師を訓練する土壌である人間そのものを思い出す事が必要――とは、事ある毎に声高に主張されてはいるものの、果たして、一度忘れられ、失われたそれらの言葉が、再び世に現れる事はない。

 今世紀、果たして本邦の人間から失われるものは、機械の体せる英雄の像に限らず、技能、学識、並びに夥しい数の有形無形の財産であろうが、その亡失を杭い止める術は現在、全く存在しないものである。ただ、それでも此の長い長い午後の時刻に際して、可能な限り、それら諸々の所産の影が辺々に満ち、軈てすっかり暗夜に飲み込まれる、その刻限までじっくりと周囲を眺め渡し、その景色を目と記憶の裡に焼き付ける事こそが、唯一可能な現在、吾人に出来る最良の事と考えるものである。

 

 鍬をもつ すべだに知らば いづくんぞ 筆のごときものを われはとらんや

 

 鋤をとり 斧もつすべを 我しらば 筆をとらんや 筆をとらんや

 

――長谷川如是閑

 

 

*1……改造社現代日本文学全集41 長谷川如是閑集 内田魯庵集 武林無想庵集」1930年所収。p321-330

 

 

「lainを好きになりましょう」について

 テレビアニメ『serial experiments lain』の、最も「平成」らしさを感じさせる部分は、「けひゃっ!」おじさん、こと、主人公・岩倉玲音の父親・岩倉康男や、劇中のテレビで放送され“中継”されるニュース番組のアナウンサーの男性が登場する部分である。というのも、あの四角い眼鏡の、背広姿が様になる「おじさん」の存在こそが、20世紀末の「平成」という日本独自の時代区分を代表するものの一つだったからである。

 

 そんな「おじさん」は物語の中では際立った活躍することもないのであるが、しかしながら、その役割はそれぞれに中々重要である。

 ここでは、その重要性が明白な「父」・岩倉康男についてではなく、「アナウンサー」の眼鏡の男性について、小稿を奏したい。

 ただ、キーワードとして「おじさん」、並びに今一人の「おじさん」である岩倉康男についても、最後の方でキーパーソンとして触れるつもりではある。

 

 所でだが、彼・アナウンサーの発した名台詞の中に、

lain(レイン)を好きになりましょう」

という有名な一文がある。

 これは、インターネット世界「ワイヤード」で起こった異変が、人間の肉体の存在する現実世界にまで波及し、現実世界がいよいよ明確に変貌した瞬間を“中継”する場面で、彼が発狂したように繰り返す台詞である。(或いは彼が発狂したのではなく、彼を含めた現実世界そのものが歪み出した結果、繰り返されているだけなのかもしれない。)

 

 映画やアニメといった映像作品の中でニュース番組が枠物語的に挿入されるのは間々ある事である。が、概ね、20世紀末の劇中のニュース番組の内容の作品内での位置付けは、『ロボコップ』(1987)に代表されるように、それは「フィクション」の側面が強調される。

 「ニュースは現実を映していない」という事が屡々、そこではお約束として暗黙のうちに設けられ、その虚報の代わりに物語が「真実」として視聴者に伝えられる訳である。

 

 そして、屡々こうしたテレビ局や新聞などの報道者は、物語の最後ら辺で、自分達が好き勝手に編集して上手いことネタにしていたものによって滅ぼされる。

 『ロボコップ』もそうだが、『lain』と同時期に公開された映画「007」シリーズの『ワールド・イズ・イナフ』(1999)も、グローバルなテレビ放送網を獲得した通信社が黒幕となり、通信衛星を用いた情報操作によって国家間の戦争を勃発させようとして、ジェームズ・ボンドによって退治される筋書きとなっている。

 

 『lain』も概ね、こうした時代の産物である事から、同時代の視聴者にとっては自明の理である所の文脈というのは、果たして今更筆者が小稿を認める事柄でもないように思われる。

 だが、既に放送から20年が経過し、更に言えば筆者のような「非ーリア」勢も多くなった今日の状況を鑑みれば、ここに拙いながらも、そうした文脈が存在した事自体を記す事は幾らか読者公共体に資する事も有るかも知れないと期待するものである。

 

 さて、そうした同時的文脈の中で、『lain』でも例に漏れず、報道関係者は自分達がニュースとして扱って来た事項によって滅ぼされてしまう。

lainを好きになりましょう」

という台詞は、劇中のアナウンサーが発した台詞として今一つ、非常に知られたものとして、本多猪四郎の映画『ゴジラ』(1954)の

「いよいよ最期! さようなら皆さん、さようなら」

に並ぶものである。

 

 今日のテレビという娯楽の有する影響力は、20年前と比べると著しく低下したものであるが、故に2020年代初頭に於いて、1990年代末のテレビアニメに於ける映像ニュースの汲まれるべき影響力というものは、想像以上に大きい。

 さて、そんな訳で『ゴジラ』では生中継をしていたクルーは、その為にゴジラによって無惨にも殺害されるに至った訳だが、『lain』に於いて彼らがワイヤードからの「侵略」によって改変されてしまったのは、無線通信による報道を行っていたからに他ならない。

 

 『lain』という物語は、言うなれば、深海底や未知の大陸の奥地など、人跡未踏の、未だ多くの謎に包まれた領域として、無線通信の領域を描いた作品である。

 その領域は、人類がインターネットやパソコン(「ナビ」)、個人携帯端末、電話やテレビ、ラジオなどを通じてでしか知覚出来ない領域であるとされている。そして、それらの技術を使って漸く「アクセス」出来るようになった広大な領域の一部を開拓して、築かれたのが「ワイヤード」という訳である。

 だが、飽くまでそこは人類が現在、アクセス出来る極限られた領域に過ぎず、それ以外の領域には未だ何が潜んでいるのか分かっていないーーというような設定が基層に横たわっている。

 丁度それは、19世紀の古典的なSFである、ジューヌ・ヴェルヌの科学冒険譚や、ポーの影響を受けたラブクラフトの20世紀の怪奇文学、そしてそれらを踏まえた、特撮ホラー映画『遊星からの物体X』(1982)からの文脈を引き受けたものであろう。

 それに加えて、1899年に発表されたコンラッドの小説『闇の奥』を翻案した映画『地獄の黙示録』(1979)などの「人間心理の闇」とでも言えるような要素についても、言い換えれば、人間の内面というのを、人間自身にとり、未解明な謎の領域として措定するような考え方は、当然『lain』にも引き継がれている。

 

 『lain』の場合は、来る新世紀を踏まえて、新たに人類が進出した領域として、それまで知覚されて来なかったーーその存在すら、実在すると認められて来なかったーー“サイコ”な領域を舞台にして、そこに進出した人類を見舞った、ある種の災難、そこにいた未知の存在とのエンカウントを描いた、「古くて新しい物語」だったと呼べるだろう。

 

 絵柄こそ比較的穏便であるが、『lain』は『エイリアン』や『物体X』と実のところ、同列に扱われてもおかしくはない作品なのである。

 とは言え、ご存知の通り、『lain』という作品は比較的穏便な幕引きを迎える。が、それは例えば『ゴジラ』がそれだから内容も穏便だったかといえばそうではないように、この手の物語の一番の恐怖は、実はそんな訳の分からない、理解を超えたものが潜んでいるかもしれない闇そのものが存在するーーという事を読者や視聴者に植え付ける点に存するものである。

 

 話をアナウンサーに戻すと、古典的な冒険譚の比喩でいえば、彼は丁度、探検隊に同行して中盤から最後らへんにかけて死亡する「シーフ」の立ち位置にあると言えるだろう。

 途中までは何とか上手く立ち回れるのであるが、矢張り履いている靴が違う為に、それで身を滅ぼすーー宿命を背負った狂言回しである。

 

 ただ、彼ら狂言回しの役割は、劇中に於ける視聴者・読者のアバターという重要なものがある。それは彼らが物語の中で「嘘を嘘であると知りながら、それを本当だと白を切り通す存在」だからである。

 そして、観客は、彼らが怪物に食い殺されたり、災害に巻き込まれて破滅した後にも生き残れる、或る意味で最も狡猾な「泥棒」な訳であるが、そんな身代わりを立てる事によって、観客は、正直者にしか辿り着く事の出来ないトゥルー・エンドに到達し得る訳である。

 

 それは正に、自覚すれば後味の悪い事なのであるが、この後味の悪さーーというのも、果たして、20世紀後半に屡々、情報の消費者に自覚されたものであったと言える。

 戦争や災害、危機に瀕した場所から伝えられる情報を得て、それに接していながらなす術がない事に対する遣る瀬無さを、現地でカメラを構えて取材をしていた人間にぶつける事例が現実に於いて屡々あるとするならば、謂わばその消費者の内に潜む罪悪感というものを浄化する役割が、劇中で逆襲されてしまう報道関係者という存在に託されているのかも知れないと、筆者には想像されたりするものである。

 

 殊に、20世紀末の1990年代後半には、通信の発達などで、リアルタイムで戦争や災害の様子がカラー映像等で克明に伝えられるようになった事もあり、こうして得られるようになった情報を、「観られるからと言って、それは本当に観て良いものか?」というような疑問を、テレビの前にいる消費者が考えてしまい勝ちな状況が存在していた。

 それも果たして、その後の大容量・高速通信技術の進歩等によって、人間の躊躇する心の方が、コンマ数秒単位で膨大に押し寄せて来る情報に流されて破壊されてしまった今日では、中々想像し難い事項ではあるだろうが、兎も角それは、急激に人間の前に多くの情報がーー今風に言えば、「情報量が多い画像・動画」がーー届くようになった時の、一時的な緊張と困惑と葛藤であったと言う事が出来るだろう。

 

 そして、その膨大な量の情報が押し寄せて来る中で、人間が最終的に自衛の為に取った行動が、一見して奇矯に映る場合、それは「発狂」と形容される事も有る訳だが、当該アニメのワンシーンについても、その「発狂シーン」を描いたものとして、多くの視聴者に印象的に記憶されいるものと筆者は見当する次第である。

 

 

 正確には時制が明らかではないものの、作品の内容と前後の関係から、『lain』のニュース番組は比較的夜遅いーー午後9時以降の時間帯のものと筆者は推量するものであるが、それでも、この物語内の不明瞭な時制は、時にアニメが放送されていた、同時間帯に放送される深夜のニュース番組であるかの様な印象を抱かせる。

 そして、こうした深夜の報道番組で伝えられる内容は、果たして「異常」なものと呼べるものが少なからず存在するのは、今日でも変わらぬ事情である。尚且つ、そもそも、多くの場合、眠っている筈の時間帯に伝えられる情報それ自体に対して、少なからぬ人間が不吉な感を抱くのは、今も変わらない事情であると推量されるものである。

 と言うのも。時ならぬ報せというものは、概ね不幸な出来事である事が屡々だからである。

 

 不意の出来事に対しても、取り敢えず、ラジオやテレビを点ける事から始める事しか出来なかった時代に於いては、屡々、深夜に於いては電話が鳴った後に、その報せを受けて電源が点けられるーーという事も屡々であった。人と人とが直に連絡を24時間取れるようになったのは、実際、21世紀に入ってからの事情である。

 加えて、その隔たりは今日も依然変わらず存在するものであるが、この隔たりを越える速度が果たして以前と比較にならない程に増大したのが、今日の状況である。

 

 そんな時代に、謂わばニュースキャスター、アナウンサーは電話交換手の様に、カメラの向こうとテレビの向こうの狭間にいる人間の象徴的に位置付けられていた。

 であればこそ、彼等のスピーチは一言一句正確に、澱みなく、一定のリズムで、感情を排した様な、「機械の様な調子で」あった訳である。

 そして、当時こうした話し方をして、

「テレビのアナウンサーの様に」

という常套句があった。これは褒め言葉ではなく、その態度をして「他者に対する同情に欠ける態度」として、相手を皮肉る言葉であった。

 

 そして、1990年代という時期において、こうした正確さと冷静沈着な対応を求められる仕事には、壮年の男性ーー即ち「おじさん」が相応しいという風潮が残っていた。

 これも今日からすれば、想像もし難く、又理解し難いかも知れない事柄かもしれない。だが、当時はなお、多くの人にとって大変な不幸を報せるかも知れない役割を担うのは、父性を有する男性が妥当だと考えられていたのである。

 

 ただ、それがどれだけ現実の報道と一致していたかは、定かではない。寧ろ、筆者自身の寡聞にして知る所であっても、多くの場合は、報道番組に於いては扇情的な語り口が採用され、それらはスポーツ中継の様に、刻一刻と更新される情報を、視聴者とその感情をシンクロさせるのに長けたアナウンサーが熱情的に捲し立てるものであった。

 故に、『lain』の登場人物である「おじさん」二人も、あれが当時のリアルな「おじさん」の姿であったかというとそうでなく、寧ろ、相当に理想的な「おじさん」であったーーと留保されるべきであろう。

 

 そして、そんな理想の典型的中年男性をしたアナウンサーが、発狂して最後に繰り返す台詞が

lainを好きになりましょう」

という、非常に扇情的で、且つ、視聴者に対して誰かに対して好意を抱くように訴えかけるメッセージであった事は、此処まで確認した内容を踏まえれば、意味深長に捉える事も可能である。

 

 此処でアナウンサーが好きになれ、と熱狂的に高らかに唱導するのは、概ね男性である偉大な指導者等ではない。寧ろそれは、謎の存在・Xなのであるーーが、視聴者の多くはそれが、孤立した一人の少女(の姿をした、人間とは異なる未知の存在)の名前である事を知っているのである。

 その、未知の存在ではあるものの、社会性動物であるヒトの、殊に十代の未成熟な少女の姿をした存在に対して、何か同情を寄せるように訴えかけるアナウンスに、視聴者は思わず、熱狂的に同調したくなるーー筈である。

 

 然し、そうしてその言葉に同調してしまえば、最後ーー果たして視聴者も、物語の中で少女・玲音を追い詰め、苦しませている圧力の一に加わる事になってしまうのである。

 

 このセリフと描写程、果たして視聴者にとって、『lain』という作品の中で残酷で露悪的な場面もないーーと思われる。

 そして、此のシーン程、同アニメ作品でインタラクティブな場面も無い、と考える次第である。しかも、そのインタラクティブなギミックは、果たして放映当時のみならず、今日視聴可能な「円盤」ーー非同期なソフトーーによっても体験出来る、優れたトリックである。

 

 発狂したアナウンサーはそこで、自分達が普段行っている事を露骨に宣言しているに過ぎない。

 即ち、それは視聴者に対して自分達が支持するように共感し、同調し、従うように命じているのである。それは、或る意味で彼らが視聴者である消費者のニーズに応じた結果でもある訳だが、この時、アナウンサーは最早、深夜にニュース番組を観る消費者の希望する、「アナウンサー」の姿をしていない。

 それは、すっかりもう父性的な面持ちを崩壊させ、自分達の利益を貪ろうとする「盗賊」の醜悪な姿である。或いは、人の不幸や大規模な災害、現実の崩壊する危機を見世物として、荒稼ぎをしようとする、ヒューマニティーの欠如した態度を、その弄している言葉とは裏腹に明らかにしている者の姿である。

 そして、繰り返しになるが、そんな劇中の報道関係者というのは、視聴者・観客の代理人にして、鏡像なのである。

 

 

 アナウンサーが発狂したシーンは、言うなれば、彼の居るスタジオ自体が、そのネット回線を通じて、ワイヤードから波及した現実改変災害に呑み込まれたシーンと観る事も出来るだろう。

 然し、そんな生々しい災害の描写ーーであるにも拘らず、恐らくは観客がアナウンサーに同情する事は愚か、寧ろ滑稽に感じるのだとするのであれば、それは、因果応報のテーゼが顕現したからではなく、幾らか頭が冷やされ、興醒めしてしまったからであろう。

 確かに、一側面としては、そこでは因果応報が実現されたのである。

 ただ、その場面で彼が狂ったように叫ぶ言葉の内容は、実際、視聴者の感想として少なからず植え付けられていたものであった。成る程、確かに、主人公の岩倉玲音は救済されるべきであり、誰からか愛の手が向けられるべき対象である。

 ただ、その気持ちを言い当てた上に、アナウンサーは執拗に、「今此処で同情し、共感せよ!」というような言葉を繰り返すのである。これは丁度、よくある映画やドラマのCMやポスター、電車の中に掲示された書籍の広告と全く同じ軽挙である。

lainを好きになりましょう」

とは、最悪のタイミングで挟まれる掛け声なのである。

 それは、オペラの舞台に心底没入している最中に、突如、クライマックスで客席から放たれた、「ブラヴォー!」の掛け声と同質の、忌まわしい宣言である。その絶叫は、今まさに自分が絶頂に達した事を報告する呻吟に他ならない。気色悪い事、この上無い。

 

 

lainを好きになりましょう」

は、同作を「視聴」するという行為そのものを通じて、何か・誰かを「見る」ことの暴力性と、その暴力を(集団で)楽しみ、尚且つ、その嗜虐対象に自分達が同調して、その悲痛のクライマックスに合わせて自分達自身も示し合わせて絶頂を迎えようとしている事を、まざまざと思い知らせる名台詞である。

 

 なお、こうした集団で一緒のエクスタシーに到達しようとする試みの描写自体も、ヒッピーブームの影響を避けては通れない20世紀後半の文脈や、何よりも、1980年代から90年代にかけてのオカルト・ブーム、そして特筆すべきはカルト集団によるデモンストレーションの記憶などが色濃く当時残置されていた時代状況を踏まえて置かなければ、単に悪質な視聴者への嫌がらせーーとして解釈されてしまうシーンであるだろう。

 又、同様に、こうした「罪悪感」が意識されるような背景には、放映当時からは然程昔では無い時代に、世界各地で多くの戦争や虐殺、災害などのセンセーショナルな出来事が相次ぎ、そうした現地からの生々しい映像がテレビという媒体で「お茶の間」にまで届けられる事に対しての問題意識や、危機感が強まっていた事も十分に理解されていなければならない。

 

 所で、表現規制や自粛などの措置については様々な議論が日夜交わされているものであるが、そもそも今日の規制や自粛といった事柄が、これら前世紀末よりの経過の中で措置として設けられていった事は、議論の際、都度に回顧されても構わないーーと個人的に筆者は思う次第である。

 

 

 最後に、ーー同作の主題歌『Duvet』のレコード(!)が数年前、発売されるに当たって、プロモーションの為に或る小売店が商品紹介のページで、劇中の再現をしながら、この

lainを好きになりましょう」

という台詞を引用していたのが、筆者にはとても印象的に記憶された。

 この「lainを好きに〜」という台詞は、今どきではSNSに於いて、「ハッシュタグ」として非常に使い勝手が良い文句で、であればこそ、20年経った後にでもマーケティングに採用されたのであろう。

 

 ただ、個人的にはーー本当に、極私的な感想ではあるのだがーー、同作の代表的な台詞として、このアナウンスが人口に膾炙するのは、如何なものか、と思う次第である。それこそ、「この“不謹慎厨”が!」と言われたら、その通りなのであるが、ただ同作の最も視聴者にとって辛辣な台詞でもあり、救い容赦の無い描写の一つが「拡散」していくのにはーー、それこそ何やら気まずさを感じるのである。

 その言葉やパフォーマンスを字義通りに受け取ってはいけないーーというのが、果たしてジョークや冗談を楽しむ際の「お約束」なのだとしたらーー又もやーー、個人的にはそれは、字義通りに受け止めるのが難しいような言い回しである方が宜しいと思うものである。

 詰まり、

lainを好きになりましょう」

というのは、あんまりに字義通りに受け取ってしまいたくなる甘言だ、という事である。

 

 

 ーーで、此処まで書いてしまったなら、最後の最後に、その代替案を挙げても今更、遠慮もないであろうと思われるものであるからして、差し支えはあるかもしれないが、筆者としては、最終回・ラストシーンの玲音の台詞を推したい。

 又、余分ながら、一番好きなシーンは、同じく最終話の玲音と康男が話すシーンである。この、自分の「おじさん」好きについては、本当に旧時代の遺物であると失笑を禁じ得ない。

 

 手に余る事柄も引き受けられる丈夫さと寛容さと、何よりかじっくりと時期が来るまで確りと待つ忍耐強さ、優しさとか何やらに対する憧憬は、温い日向の陽光のように、自分にとっては中々離れ難い感じを抱かせるものである。

「いつか又会おう」

という台詞に対して、

「いつでも会えるよ」

と応答をしようと思えば、多分にそうした素地を持つ事が先決なのであろうーーとは、流石に穿った見解ではある、と反省するものではあるが、そう思いたいものである。

 

 

(2021/11/01)

 

 

 

 

栞一片

 昔、本に挟まってた栞をとにかく集めていた。大体90年台から収集していた2000年台のもので、色んな形やら内容やらがあったのを記憶している。

 久々に色々な用事が片付いたので、寝ることができた。頭の中が常時動いているので、夜中も満足に眠れない。そんな中で懸案が一つ、ごっそりとなくなった。

 建て込んだ住宅地の中では、一軒のあばら家がなくなるだけで、ぽっかり急に池が出来たように空が見える。それを自分は、何の捻りもなくポンドと呼んでいる。

 宙に浮かんだ正しく空虚なのだが、うっかり曲がり角とかでそんなものに出会してしまうと目を奪われてしまい、暫時呆然としてしまう。疲れていると余計その傾向が強い。

 空き地だけではなく、そこに何か突然飛来して来ても、ポンドは発生する。それが例えば着陸体勢に入った自衛隊の輸送機だったり、クロアゲハだったり、塩辛トンボの類だったりする訳だが、その出現と同時に見えない空虚がボカンと陥没して自分の中に落ち込んでくる。

 ただ、この上、何かしんみりと感情に波が寄るーーというような事は、ポンドについては起こらない。気付いても気付かなくても問題がさしてない、それがポンドである。水溜りとはその点、大きな違いである。

 無論、呆然としてしまう事には弊害がない事もない。ただ、それ自体が即危険かというとそうでもない。元より、彼是荷物を満載にした背中自体が危険なのである。疲労困憊した状況そのものが櫛の歯の様に間隙だらけで、そこには既に色々な塵やら汚穢などが引っ掛かって、悪臭を放っている。

 

 うたた寝の最後ら辺に、栞が一枚出て来た。固定電話の台にしている、透明な抽斗の一番上の段を何の気無しに引っ張ったら入っていた。竪型のデザインで、十四五年前の映画の栞だった。

 その映画の宣伝は、よく書店のレジに並んで絵柄を一生懸命全部揃えようとしたものだった。だが叶わず、それらは同じく集めていた弟に全て呉れてやってしまったのだった。

 所で、その映画の栞は全て横長のデザインだった筈であった。なので、竪型の、しかも白地に人物だけが一人切り取られて配置されてる様なものは、自分の記憶に全くなかった。

 その齟齬がはたと目醒めるきっかけになった。集めた栞の大部分は、その後手ずから捨ててしまった。大分惜しいと思ったものだが、同時に今でも、持て余してしまうであろう数十枚の栞は、彼に呉れてやった分だけが恐らく、処分していなければ、当時の記憶の裏付けとして存在するものであろう。

 そして、漸く思い出した事には、その初めて見る栞は、映画の新装版のポスターデザインによく似ていた。それは全く偶然なのだろうが、果たして、その栞は全く栞らしい栞だった。

 結局、いつも心当たりがないのである。

 

(2021/09/16)

「園」の思い出

 動物園とか遊園地とか、兎に角、「園」という名の付く場所が苦手だった。今でも、背の高い門扉と敷地をグルリと取り囲む大きな柵を見ると、忌々しい気分になって自然と顔も歪んで来る。

「言うこと聞かないと、サーカスの虎の餌にしてやる」

と言うのが、母親の口癖だった所為もある。サーカスと動物園は、幼い自分からしてみれば何方も忌々しい檻のある施設でしかなかった。ペットショップを見るのも嫌で、公園の池にある鳥小屋や、白鳥の横で甲羅干しするアカミミガメを見るのも何だか気味が悪かった。

 

 だが、何より自分の具合に悪かったのは、そうした園内には逃げ場がないーーという事実であった。決まった出入り口からでないと行き来が出来ない、それが如何にも不安を誘って仕方がなかった。

 

 親や教師に連れられて動物園の檻の中にいる動物を見るのは、丸で

「お前も言う事を聞かなけりゃ、こうしてやるのだ」

と脅されている気がして嫌だった。そうでなくとも、敷地を囲繞する柵と巨大な門の存在が、自分らをいつでも、目前の見せ物になっている禽獣と同じようにしてやれるのだと言われているかのようで、終始落ち着かなかった。駐車場にいる束の間、息がつけた。バスの中は退屈だった。

 

 物語ーーフィクションーーというのが持つ、本来的な恐ろしさ、脅威というものについて考えるうちに、そういえばそんな事を思っていた時期もあったな、と思い出した。

 元来、お話というのは、「園」と名の付く施設と同じく、一度入場して仕舞えば、一巡りする迄、逃げ場のないものである。退屈でも、お腹いっぱいでも、どんなに素晴らしい花畑でも、お化け屋敷でも、一旦、入り口から進入して仕舞えば、出口を潜る迄は引き返す事が出来ない。目を瞑る事は出来る。「これは作り事だ」と心の中で念じて白ける事は出来る。だが、一方通行のルールは守らなければならない。騒いでもいけない。況してや「これは作り物だ」云々、扱き下ろしてもいけない。ただ見る事が強いられる。それが苦痛なら、その門を潜ってはいけないし、敷地には立ち入らない選択をするべきである。

 また、ゆっくり歩く事や一時停止する事は許されても、ずっと止まる事も許されていない。そこは自分の居場所ではなく、自分の恣は許されていない。

 

 俗に「オタク」というのは、こんなルールを守る事が忍びない鑑賞者の内、開き直って不作法を尽くす者である、というのがものの序でに思い出した、大昔の自分の中の定義だった。

 逃げずに暗がりの向こうに寝そべってじっとしている得体の知れない結末に向かって進んでいく事の出来ない人間が、真っ暗がりの中で掟破りの懐中電灯とかを点灯して、ガラス張りの向こうに潜んでいる者を明るい光の中で見ようとしたり、今来た道を逆走したりする。そんな「意気地なし」を、自分は心底、毛嫌いしていたが、その度胸のなさ、怖がりなのを悪く思うのではなく、自身の臆病さを認めず、今し方見て来たものの「化けの皮」を剥がしてやろうと息巻いたり、そしてそれを「虚仮威しだった」と嘲って、己の器の小ささから結末なり何なりを受け止めきれずに、物語から逃げ出して来た事を、作り物の出来の所為にしようと頑張る様子を見るにつけ聞くにつけ、うんざりしていたものだった。

 ただ、これはもう随分前の事である。だから、今でもそんな事を思っているかというと、状況もすっかり変わっているので、そんな事は丸でない。偶々、そういう人達がいた場所に出会してしまったので、逃げ出して来たーー末が今の自身の位置である。

 

 「園」という場所は、見たくないものをも見る場所である。怖いもの、醜いもの、側においておく事が到底出来ないものを見に行く場所でもある。だから、そんな施設の外へ、園内のものを持ち出したり、或いは園内の様子をやたら滅多に外で吹聴するのは厭わしく忌まわしい事のように感じられていた。物語はそれら忌まわしく厭わしい物事を封印する場所でもある。

 

 今ではもう、そんなに一々目鯨を立てる事は略々ない。だが、全くない、完全になくなったとは言い切れない。それは完結した柵の向こう側に閉じ込めてあるものだから、安心なのであって、わざわざ現実の、白昼白日の下に曝して確かめようという気持ちの更に起きないものだとは今でも感じられる。

 

 そんな出入り不自由な「園」よりも、今は果てしなく生活の隅々まで張り巡らされたサーカスの幕の内が居心地良くて、大勢の人気を集めているであろう事は知っている。実際、自分も普段、その陣幕を見て見ぬフリをし続けている。それが出来ているという事は、少なからず、それらに親しめているという事でもある。それを恥じる気持ちは余りない。誇れる事でもないけれども。

 だが、つくづくそうなってしまっているのを思うにつけて、昔はあれ程毛嫌いしていた、「園」と名の付く施設の雰囲気が懐かしく思われて来てならない。

 

 最近は、映画館に行くようになったが、昔と比べたらシアターの中もロビーも建物内全体が随分、明るくなったと感じられる。それはそれで大変結構な事だと感じる一方で、「ここも、か」と思わず溜息をついてしまう事がある。久しく、真っ暗闇の中に沈み込む感覚というのはないもので、それ自体は実に有難い。

 だが、そんな暇がちっともない、というのは不安の因にもなっている。一体、それはこの頭上の巨大なサーカスのテントの存在に思いを来たせばの事である。

「一体、自分はいつから此処にいて、何処から来たんであったっけかな…?」

とか、唐突に思い抱く事も屡々あれば、愈々間断なき意識の流れというものに対して疑いが生じる。

 真っ暗闇は、サーカスの内にあっても自分を一時的に、その外に放り出す、「古典的(幼稚な)」手段である。

 物語は、そういう時に便利な道具である。

 よく出来た物語なら、それを鑑賞している間は、振り返ってみるとボッカリ、記憶に穴が空いていたりする。その記憶には、「物語を見た」という情報の代わりに、物語それ自体が嵌まり込んでいたりする。

 それで却って、自分は昔、本を読んだりした後は安心したりしていた。

 それは自分が「園」の外に帰って来た証であると同時に、自分の普段いる場所を確認する証拠でもあったからだ。

 その安心を得る為に物語を摂取していた、と言っても過言ではない、そんな時期も大昔にはあったにはあった。

 意識していたかは怪しいものだが、今振り返ってみると、その様に語り得る。

 だが、この所はそれが如何にも上手く出来なくなっていた。動物園も遊園地も映画館もすっかり怖い場所ではなくなったのは良かった。だが、「園」を取り囲む柵や、自分を閉じ込める門や鍵がなくなった訳でもないのに、ただ恐怖だけが薄れていったのは、自分がすっかりノイローゼになってしまった所為だったのであろう。

 

 不図した切っ掛けで思い出した記憶は、そんな不感症になっていた怖さに対する反応を誘発した。

 

 蓋し、物語作家は「罠」を仕掛ける者で、それは人間が人間に対して設えた罠である。「園」もそんな罠の一つであり、緩々と入り込んできた客を操作一つで閉じ込めてしまう事だって、施設管理者は出来てしまう訳だ。

 花壇の不気味さや、額の中に収まっている描かれているものの薄気味の悪さが、見ている人間達がそもそも、その場の中に閉じ込められている事を忘れさせようとして来る、その見せ物の放つメッセージや小細工に対しての鑑賞者の意図しない反応であるとするならば、それらを仕掛ける者達は、必ず何処かに彼等を出口へ誘導する標を何処かに設ける道徳的な義務があるーーとか思われる。

 無論、そんな事しなくても構わない、賢明な「大人」許りを客として相手して遇せれば越した事はないのかもしれない。だが、人間常にそんな「迷子」にならない保証なんてのはない訳だ。不意の事が起きないとも限らない。だから何処かで必ず、合図が必要で、例えば、閉園時間を告げる園内放送の音楽とか、そういう配慮を講じるのは真っ当な仕事だと言える。

 ただ、それを却って、「囲い込み」の合図に利用しようと思えば出来てしまうのが、また、サイレンの怖い所である。実際、園の敷地の外に居並ぶ防災無線や街頭時報の数々は、サーカスの天蓋を支える無数の支柱の一々でもある訳だ。

 

 最近の物語は、端から「園」的な閉鎖性を無くして、野天興行を旨として繰り広げられるものも少なくない。建前としてはそれは、参加者各位の自律性に依拠している。だが、所詮、建前は建前に過ぎない。

 臆病者の扱き下ろし大会は外側から「園」の門柵を揺さぶって、倒壊させたのである、という風に自分は野天会場を見ていると、つい意地悪く思ってしまう。

 それでーーじゃあ、「園」は、物語は怖いものでなくなったかというと全くそうはならず、サイレンの音は遂に見境なく四囲に木霊するようになってしまった。「帰れ」という合図だった音声も、今やその方向性を失ってしまった。

 

 「帰る場所」も、そこを起点として何処かに発つ人の現在地ーーという意味に解される始末だ。だがそれは、「帰る場所」が元の意味に復しただけとも言える。

 何故なら、「帰る場所」は、そこから何処かへ出掛け、その何処から引き返した後に向かう場所だからである。

 ボッカリ空いた記憶の伽藍堂は、今来た道を思い出した時に完成する横穴で、決してトンネルなんかではなく、何処かで引き返すタイミングが必ずあって、それを用意しておかなければ、どれだけ良く囲ってあったとしても、出口のない「園」は人間を虜にする悪どい罠でしかない、と判じられる。「園」の出口は常に入り口のもう一つの顔に過ぎない。

 

 他方、野天会場には罠も出入り口もない。餌だけがある。すると、悪意のある罠がない分、平和かというとそうでもなく、寧ろそれは随分と恐ろしい状況が白日の下にあるので、引きで見たり、うっかり足を踏み込んでしまった事に気が付くと、大騒ぎしたくなる程に恐ろしい光景を呈していたりする。何よりか恐ろしいのは、その光景は際限がない事である。

 自分の目や耳にそれらが触れる限り、その「敷地」は、自分の足元にまで延びて来る。そうでなくても突然、伸び掴み掛かって来る可能性さえあるのだ。

 だからそういう時には、黙ってゆっくりとそれとなくそこから距離を置いて、只管逃げる事が略唯一の手立てとして残されている。

 

 そして、その逃げ場として元来機能するのが、「園」であり、物語であったと、「帰る場所」を発見する場所であったと思い至るに当たって、今迄単に恐ろしく、不愉快であった場所が、随分と頼もしく有難いものに感じられる様になった。だが、矢張り、そこは恐ろしい施設であって、脅し文句で用いられるのが相応しい……。

 

 と、ここまで考えて、自分は自分でその「園」を造ろうかと考えた時に、どんな風なのがいいかという事を考えてみた。

 そして、そこで考えた場所は、詰まる所、自分自身をも閉じ込める檻であり、且つ、閉じ込められた人間が、

「さっさと此処から出してくれ」

と最後の方に思うような場所であれば結構だと思われるようになった。

「こんな場所よりか、元いた場所に帰った方がまだマシだ」

と思い来す位の目に合って、次の逃げ場迄辿り着く程度の気休めの場になれば、十分である。それが自分の求める「園」でもあるからだ。

 

 だが、そんな「園」も、たった今の所は、自分には必要がない。というのは、そんな作り物よりか、普段眺めている景物が十分に見事だと感じられるからだ。

 然しながら、これらの景色もいつまで悠長に見ていられる事やら分からないのが現実問題としてある。今自分が目にしているのも、恐らくは「園」である。いつサイレンが鳴るかは分からないものだ。

 物語ーーフィクションーーが本領を発揮するのは、いざという、その時である。倒壊する柵やら天蓋の下敷きになる事程、阿呆らしい事もない事はない。

 だから、ポケットに収まる大きさの地獄巡りでも、竜宮城でもいいから、何か物語を拵えて置くのは悪くない方策だろう。その際、又、それら普段目にする景物の「模倣」がベターであるとも思われる。

 

 なまじ景色は喪失してからがなお、思い出として美しい。フィクションは端からこの世にない、だから、物語は摂取して忘れて、片っ端から忘れれば不意に思い出す機会も多ければ多い程に、思い出したその矢先、忌々しかった「園」の記憶が知らぬ間に、素晴らしい財産になっている事に気付けもするだろう。

 

 無数に見た夢の中でただ一つに固執したが故に夢現の間で「迷子」になったならば、よろしく蝶であれば「花から花へ」、人であれば「園から園へ」遷移すれば良い。夢か現か、に拘る必要がなければ、それだけで済むーーという話である。

 

(2021/08/25)

 

エレクトーンの音

 自分の中で90年代の音といえば、ずっと切れ目なく放送されるBGMのエレクトーンの音だ。

 夜、少し眠ろうと横になり目を閉じると、何処からともなく、その日の気分次第で、しかしそんな気分とは関係なく、すぐそれと分かるが、誰の手とは感じさせない曲が始まる。
 曲の出だしというのがそもそも何処からなのか、分からないのが果たしてエレクトーンのBGMの印象である。誰かが建物の何処かで弾いている訳でもなく、MDかCDに録音されたものが延々放送され続けているのであるが、その一曲一曲が実際非常に長いーーの割に、いつまで聞いていても飽きない。時間を忘却させる音楽の音色が自分の、エレクトーンの印象である。

 

 ずっと屋内にいると、段々そのBGMの有り難みが分かって来た。否、むしろそれに対する渇望が日増しに大きくなっていたりもする。

 一体何処の誰がマラソンを続けていたのか分からない音楽だった。それは或る意味で恐ろしく、また気味の悪い現象だった。終始明るい室内が、或いは清々しい青空と五月の心地よい風が不意に恐ろしく、何かを隠しているかのように感じて不信感を惹起するように、エレクトーンの軽いキーボードの調べは、その「物を忘れさせる効果」をして、普段なら気付きもしない“背景”について想起させる契機でもあった。

 

 ぼーっとしている間に無意識に食べ終えて仕舞えば良いが、溶けたアイスクリームが指を伝ってズボンの上に染みを作った後にはもう遅い。

 パーンか、或いはハーメルンの笛吹男か、兎も角、実際に人間を陶酔させる音楽というのは、何か物凄いものであるかといえばそうでもないーーと考えて仕舞うのは自分の経験に照らしての事であるが、この手の音楽はこの頃十年位の間に、すっかり耳にしなくなってしまった。

 今でも聴こうと思えば、例えば昼休みの時間に、午前の取引の模様を伝えるテレビ番組や、明け方の地方局のチャンネルにチューニングすれば、聴けないことはない。だが、聴こうとして聴くではなくて、それは向こうから勝手に此方まで無方向に流れて来るものを自分が掬い取るのである。

 気が付いた時には垂れていた涎の様に、それは我にかえれば恥ずかしくてきまりの悪いものである。だが、そうしたうたた寝の瞬間というのが、この頃の自分には一入懐かしく思われる。そんな歳でも未だない筈なのだが。

 

2021/08/02

21:15

 生き物の生きた証は何じゃらホイ、という話を友人と昼間から延々三時間くらい電話した。

 結局、化石になる様な組織だろうなという話になって、成る程なあーーと思った。

 

 腕の重さや足の重さ、というのを意識することが間々ある。それは普段、如何しても生活の中で運動不足気味になって衰えやすいものだから、日々の簡単な動作であっても一寸の事で感じてしまうという事であって、褒められた話ではない。

 今一つには、時折覆い被さって来る感覚の験しに覚えがあるからだが、それに骨が出来た始めたのは、ほんの四、五日前の事だ。

 

 それまでは何だか、取り敢えず、肌で感じる刺激に精々止まるものであった。文字通り、掴みどころのないガスの印象だった。

 考え事やら悩み事やら多い時の疎ましい感覚が澱り重なって出来た、それは幻覚なのだったが、分かっていても何やら疲れている時にやおら正面からだらしなく凭れかかって来る感覚には、その無気力さ故に、妙に共感して同情してしまった。

 身の丈は少なくとも150センチくらいは有るのだろうか、時々もまちまちであるが、重さの感覚は全体で40kgから50kgの間で、その重さから身長も推し量られた。

 

 疲れていると、自分であったって兎に角それ位、何かに身を凭れさせたくなる時はある。全身が強張って、しかし如何にもその格好を崩せない怠さと忌まわしさに、何もかもかなぐり捨てて逃げ出してしまいたいとは、文章として頭には浮かぶけれども、身体は、とうの昔にそんな衝動に付き合う気持ちをなくしている。

 疲れた。兎に角休みたい。しかしその口実が自分の中に見出せない。

 寝ると決めても、風呂に入るまでの時間が掛かるのは、そんな事より他にする事があるんじゃないかとか、翌朝の未だ明けやらぬ内から起きて始めなきゃいけない事共が脳裏に次々浮かぶからであった。

 どうせこの身は一つしかないのに、欲張りなこったーーと自分自身に呆れて嘲笑するのも自分なら、ムキになって何でもかんでも解決しようとするのも自分であった。

 

 そういう二進も三進もいかない状態の心理的産物ーーと呼ぶのもおかしいが、八方塞がりの状態の中で凭れ掛かって来たのが件の腕であった。

 だらしなく、頸の辺りまでぐるりと回して、ぺターンとエプロンか前掛けみたいに突然ぶら下がって来る。そうかと思えば、肩の上からダランと、頭の上にのし掛かって来る。

 犬や猫も飼った事がないので分からないが、その大きさや重さーーといっても実体のないものだから、重さも大きさもないのだがーーは中々、泡食った精神を落ち着かせる作用があるように感じられる。

 

 別に払おうと思えば退かせられる程度の圧なので、それが来て居座る内は取り敢えず、もうじっとその場で動かない事に決めた。そうして、自然飽きてそれが離れる迄の間は、バスの中だろうが駅で立ってる間だろうが、目を閉じたりしてボーっとする事にした。

 よく考えたら、それもそれで危ないのかも知れない。然し、それは自覚がなくとも酷く疲れていると思われるタイミングでやって来るのだった。数分でも暇があるなら構ってやる事にした。結局、それが実際的に自分の為にもなった。

 

 そんな暇な時でもなければしがみ付いたりして来やしない。

 合図も何もないのだが、ただ取り敢えずそれは来て、自分を椅子の代わりにして使う。そして、そういうので、一かな構わないと思うので放置しておく。

 そうして幾らかの年月が過ぎ、数日前から何かその腕の感触に変化があった。重さに芯が出来始めた。

 捉えどころのなかった感覚の靄の内に濃度の更に高まった所が感じられ、軈てそれが肩の上にグーっと突き出されて、天秤棒みたいにボサッと置かれた。仕事の終わった後、椅子に座ってボーッとしている最中だった。

 今は腕だけだからいいが、これが徐々に脚や胴体の分まで来たら中々面倒だぞ、と思ったのは正直な感想である。というのも、それが自分の疲労と機を一にしていると考えられた為である。

 

 骨の感覚の去った後、考えた事には次の様なのがあった。

 最終的にそれが全身丸ごと自分に圧し掛かって来た時の事を思うと、その状況は中々に悲惨であった。何やら、屹度その時には自分は自力で動く事も困難で、疲労が本格的に全身を麻痺させている様な、そんな容態が想起された。出来たらーー否、それは極力回避したい可能性の事態であった。

 そんな状況にあってはもう自分はそれを「起きるのに邪魔だから」と追い払うだけの力もない。

 そんな想像が浮かんで来ると、それまで一寸も怖いと感じなかったそれが急に実は恐ろしい、死神か何かの様にも思えて来た。

 

 でも、そこまで考えて、然しながら、今までの奴の行動を思い返すと、そこまで脅威と見做す程のものでもないように思われもするのであった。

 奴はただ、自分に寄り掛かって来るだけのものなのである。そして、これまでもそのタイミングは、自分の状態に関係なく、本当に時折、「打つかって来る」だけであった。

 なら、自分の方で用心する事は、精々、その時に吃驚して倒れたり、ホームや階段から転げ落ちないようにする事、その為の体力を維持すれば良いーーそういう結論に落ち着いた。

 

 

 幻覚なら幻覚で、それはそれでわざわざ無くそうとか自分は思わない。ただ、それが如何にも恐ろしい、煩わしいものでなければ、まあそういうものだと受け入れて放っておくのも手ではあろう。無理してそれを失くそうとしてしまう事が、却って自分には、今でさえ十分そそっかしい自分の余裕を失くす事にさえなるのではないかと思われたりする。

 何かトンチキな故事付けをする必要もなく、ただ一身上の事実と見做せば済むもので、他人と融通しようとさえ思わなければ、それは雲や花を見た時の感想と変わらない。

 

 そんな事を一頻り思う間に、そうは言ってもこの話題をーー骨の話をーー誰かに振ってみようという気持ちになって、友人に電話して話してみた。その流れで冒頭のコンセンサスにも達した。

 そして、最後の方で友人は、気になっていたらしく、髪の事を訊ねてきた。曰く、髪の感触はなかったのか、と。確かに、骨よりも髪の方が有り触れた話の種である。

 

 その時は話さなかったが、実を言えば、最初にそれが凭れかかって来た時、自分の肩口に押し当てられたのは、火照って汗ばんだ額と髪だった。今みたいに腕を広げて来るでもなく、棒立ちになって、そのまま近づいて来て、何の前触れもなしに、ただ、ボスっと頭を打つけて来た。

 ただそれだけで、何も言わず、泣きそうな子供がよくするように俯いていた。初めは自立していたが、段々に重心が前のめりになって来て、此方が少し押すようにしたら動きが止まった。

 

 その時はその場で突っ立っている事しか出来なかったが、以来、それがきっかけで度々打つかって来るものだから、強いて自分はそれ以上、深掘りする様な気持ちも起こらないし、基本放置しているのだった。

 骨が出来たとしても、その事情に変化はない。

 

 多分、それで良いのだろうーーと思うのは、全体何やら懐かしい感じがするにも拘らず、それに自分が全く心当たりがない為である。

 

 

(2021/07/24)