カオスの弁当

中山研究所blog

空気圧コンピュータSFの妄想ノート

 「空気圧コンピュータSF」てなアイデアを昨日の朝、知った。

→ これである。

https://twitter.com/fhswman/status/1590359678877282304?s=46&t=Xs_Tb6H93Ow9-kQbbuXGEA

 

 さて色々妄想は捗った訳だが、計算機をそもそも空気圧で動かそうという発想は、電磁気力があんまり頼りにされていない様な世界でないと中々出て来ないだろうもんである。

 そんな世界では、空気圧よりもより信頼性の高い、水圧の方が個人的には用いられそうなもんだとは思うのだが、何せ水は重たい。大量に用いるとなったら装置も巨大になる訳で、そんな沢山の水を溜め込むだけの貯水装置となると非常に堅牢に建造しなくてはならなくなる。実利面で非常に高くつくものである。

 となるとーー空気圧もとい圧縮空気の出番である。恐らくそれは水道管と同じく、ヨーロッパ的な世界観であれば矢張り古代ローマ的な文明の遺産を用いるであろう。

 モーター(ポンプ)のない段階で水を使った演算装置を作ろうとする世界は多分、相当密閉度の高い管やら容器を作り得るだろう。水をそれらの管なり装置の中に満たすよりも、気体でもって満たした方がずっとカラクリもスムーズに動くだろう。

 

 ……となると、結局、「ニューマチックパンク」は「スチームパンク」の亜種に終わるのではないか、という気もしてこないでもない。

 だが、敢えて「空気圧」に拘り、それを「蒸気」と区別するなら、スチームパンクの世界における主な燃料の相違に配慮すればいいのではなかろうか?

 詰まり、スチームパンクの前史としてのニューマチックパンク、である。

 

 この「前時代」において、燃料は専ら薪・炭であり森林資源である。それが当然ながら制約となって、理論的にはスチームパンクに後一歩、という段階にあって、足踏みしている状態が石炭の大規模な採掘によってブレイクスルーを経た……という様な筋を描けば、まあ何だかいけなくもなさそうである。

 更にいえば、そうした石炭の採掘に至る過程というものを想像するに、鉱山の開発における「送気」の問題が、スチームパンクもといニューマチックパンクのアクチュアルな場面として挙げられなくもない。

 

 芸術や宗教・政治の面では、パイプオルガンの様な楽器もそのテクノロジーの洗練に寄与するものであろう。だが、何よりか「風」を別のエネルギーに変換する装置とそのアイデアが結び付いて、空気圧コンピュータは誕生しそうなものである。

 風車による灌漑用水なんかが先ず、水圧コンピュータに導入され、そこから水車をモーターがわりにした吹子でもって稼働する空気圧コンピュータなんぞは割と「アリ」だろう。

 

 また、気圧差・高低差を利用したコンピュータが鉱山の地下深くで造られても面白い。

 ただ、あんまりそれは上手くいかないかもしれないーーというのは、空気圧コンピュータは注入した空気を逃す必要があるからで、その空気(水の場合でも)を上手く逃す装置も必要になるからである。それをなんとか上手いこと想像出来ればこのアイデアも可であろう。

 

 大規模な水圧コンピュータは高低差を利用した巨大な運河の様なものになるだろう。それより小規模になるとはいえ、空気圧コンピュータも大仕掛けになるだろう事は既に述べた。

 セントラル・ヒーティングシステムの様な、建物の内部に配管し、温度差も勘定に入れた設定で、その建物自体がなにかを「考える機械」に仕立て上げる様な、そんなアイデアも可能かもしれない。「温泉コンピュータ」もニューマチックパンクの世界にはあるやもしれない。(そしてそれは概ね、鉱山の直ぐ近くにあったりもするのだ!)

 

  小型の空気圧コンピュータはオルガンの様に人間が吹子を動かす事になるだろう。多分、それが「パソコン」の走りとして位置づけられ、馬や犬でも、兎も角、動物がモーターがわりに日がな一日ずっとカラクリを動かすものになるだろう。

 

 用途としてはコンピュータだから色々考えられるが、結局それらは「時計」や「暦の計算」、天文学占星術に用いられる機械になるだろう。商売でも用いられるだろうが、多分ソロバンにも敵わないのではないか…。

 空気圧コンピュータを動かす事自体が権力の誇示や、政治的・宗教的意味合いを持つ世界がニューマチックパンクの世界である。丁度、バッハのパイプオルガンの演奏の様に、それらを操作する専門の一族がいるくらいのーーだもんだから、それなりにエンジニア達は敬意を払われたりする存在になるだろう事は考えられる。

 

 「占いマシーン」という見方にややもすれば落ち着くかもしれないが、その可能性に気付いたものたちが、よりその性能やら精度を高めようとして、色々な気体を試したりする過程があったりして、これがコンピュータの「小型化」に繋がる流れを産みそうな感じもする。

 燃料問題が石炭の実用化に伴い力技で解決された後の進歩は省エネ化と小型化であり、その結果、進化した空気圧パソコンは、かつてビル一棟程の大きさのあった「温泉コンピュータ」の様に温度差を利用して湯気を出す事もなく稼働してそうなもんである。

 

 更に高速化の点でいえば、空気の体積の差を大きくする事で可能となる。方法は圧を強くするのと、温度差を大きくするのであろうが、これは管の一方をストーブに通し、もう一方をバケツに浸しておくような感じになるのだろうか?

 (なまじ筆者がド文系な為に、酷い文章である)

 

 機械式コンピュータに対する優位性は、多分、長年の蓄積に基づく信頼性と安定性にある気がする。無論、両者の競争は熾烈を極め、複合的な装置も登場しそうなものである。

 だが、なまじ省エネ化・小型化を企図した所で、空気圧コンピュータがバカにならない程、リソースを食う代物である事には変わりがなく、軍事面で機械式コンピュータが普及すると同時に、空気圧コンピュータはお役御免となりそうな気配がする。

 ただ、船などの乗り物や建物への組み込み等の面では、長年来の技術的蓄積で空気圧コンピュータが優勢を誇るだろう。移動の際の振動や衝撃は機械式コンピュータの大敵となりそうだ。

 船舶や陸上を移動する巨大な乗り物への空気圧コンピュータの導入は恐らく「据え置き型」(ビル一棟タイプ)よりは劣るだろうが、それはパソコンよりも物理的に大きい分、より高性能ではあるのだろう。

 

 複数のコンピュータを連結する技術は、空気圧コンピュータの成り立ちからは想像し辛い気もする。そうした分、余計に時間もエネルギーも消費するからであるが、例えば停泊中の船のコンピュータと港のホテル型コンピュータを繋いでいくような感じで有ればーー詰まり、相当近い距離を結ぶ様な形で有れば有り得そうな話である。

 

 この他、Twitterの弊アカウントでもぼちぼち呟いたが、取り敢えず、その後で考えたものはこんなもんである。

 とてもではないが、今の自分には書けそうもないジャンル(そもそもサイエンスのSの字も分からない)だが、いづれ何かしら筆を執る事がある日の為に取り急ぎ、投げておく。

 

(2022/11/11) 

 

魘床奇譚

 

 あんまり画筆を執らない所為で夢に見たのかも知れない。ーー筆者

 

 一

 あんまりに寒いので目を覚ますと胸元がすっぽり空いていた。最近は筋肉が落ちて代謝も減っている筈なのだが、どれだけ食っても腹が減って仕方がない。我ながら不安になるくらいすっかり身体が薄くなっている。

 知り合いに膝が痛いのだと相談したら、「太り過ぎ」だと言われた。こんな身体で、と訝しんだが、要するに筋肉が自重を支えるのに十分ないから痛むのだという。

 言われると、それもそうだという気になって来た。然し、これ以上何をどうやり繰りすればいいのか。訊こうと思ったが別れてしまった。余り仕事終わりに執拗く付き纏うものではない。

 「そうか、それじゃあお父さんとお母さんによろしく。さよなら」

 我ながら随分嫌な挨拶をしたものだった。

 

 二

 ラジオを点けたら電話になった。

 男の声で、

「もしもしーーMさんですか? Kです」

という。

 本棚に見覚えのある俳優の名前が背表紙に幾つも見出せるのに、そのどの本にも覚えがなかった。

 K曰く、留守中に何度か家を訪れたらしい。

 最近何かと不品行の目立つ、謹慎中のKの事である。以前からそういう遊びをしていたとしても不思議ではない。

「いやあ、初めまして。でも、あなたも酷い人だ、幾ら訪ねても無視するんですから」

「最近流行っているんですか?」

 自分も自然と返事をしてしまった。すると相手には此方の声が聞こえているようで、

「詐欺だとお思いでしょう? まあ実際そういうのも流行っていますがーー私の場合、これは完全に趣味ですよ」

と、例によって甲高い、ガラガラした声音を響かせて笑った。その背後から、夜露に湿った植え込みの躑躅とかの揺れる音が聞こえて、今度は連れの女に替わって、彼女もまた自分に挨拶をした。

 

 成るべく気にしない様に、と思いながら、然し、何か記録に残すべきかと思ってキーボードを机の上に置いた。然し、キーボードだけで、それに何かを紐づける様な事もしなかった。此方のやる事は全部お見通しであるかの様な気がしていた。

 でも、それなら一興と思って、カタカタタイピングの音を聞かせてやろうと思うと、途端に緊張して指が強張った。昔鳴らした腕を聴かせようとして失敗する類の奴である。

 それも全部、彼と彼女の余興に過ぎないのだと思うと、畢竟、自分はKと同じく道化に扮するのが吉に思えた。そうして彼は門付の芸人宜しく、ことほぎの代わりにその日の寝床を得て、私は祝福を彼等より得るのであるーー……そう思えてならなかった。

 

 そうしてキーを押すと、小気味良く、小くて上質な豆菓子を指で指した様な感触が伝わって来た。

「コーヒー豆はキーに向いてませんな」

 そういうとKは心底、楽しそうに哄笑した。

 

 三

 催眠術にかかった男がいた。駅に近い、郵便局の前の辺りで、柳の枝に雪が積もっている。

 それを取り囲んで変装した軍人が何人も彼を問い質している。然し、実際男は男自身ではなく、先刻、軍人らが密かに山狩りをして殺した男の身代わりであった。

 小高い山の上から麓の町の人間を狙撃していた、その熊撃ちの男は随分長い事、山で熊を撃つ内にすっかり気が狂ってしまった。里へ降りるようになった熊を山から狙う内に、如何やら熊が人の皮を被っているという様な妄想に取り憑かれていたらしい。

 然し、彼自身は至って明晰で、「なめとこ山」とか童話や物語の印象ばかりで語られる様になって熊という動物の、その神性を徹底的に否定する現実主義者の一面を最後に発揮して見せた。だが、大声で大演説する彼の言葉は、寧ろ凶暴な獣物と成り果てた男の最後の化けの皮が剥がれた瞬間だと取り囲んだ軍人らには思われたらしく、彼らは早速男の身包みを剥いで、そっくり全部皮まで剥ぎ取ってしまった。

 

 それらは内々密に行われて、故に男の身代わりが必要であった。そこら辺を酒を飲んで憂さ晴らししていた、猟師とは似ても似つかない、メガネを掛けた優男の青年を送り込んだのは、1LDKの粗末な平屋の一軒家だった。

 ここでゴロンと縁側に寝かされた男の上には、剥がせれた皮の端切れの様なヒラヒラベラベラしたものがふよふよ漂っていた。それが、カルモチンだかメスカリンだか何だかをしこたま飲んだ男の終末期の幻覚であったか、或いは、その家の奥で屯して遊んでいる子供達ーー尤も、これらも誰かの妄想であったかも知れーーの観る夢であったのかも知れない。が、兎にも角にも、其の儘、男は毒に当たって死んでしまった。

 それから、その金魚の大群を追って子供達が銘々勝手に騒ぎ出した。

 或る男の子なんかは、自分の死んだお祖父さんの霊を呼び出して、海の底からもっと沢山の仲間を召喚して、家中を古生代の海にしてしまった。

 

 四

 又、同じ夜の事である。ガラスで出来たブブゼラを吹き鳴らしながら、追い詰められた男が坂道をゆっくり降っていた。最早逃げる気力もないらしい。

 刑事だか何だか分からないが、兎も角、彼は法廷に立つ暇もないらしい。だから最後にこの世の名残み一曲ーーというつもりらしいのだが、それが如何にも彼が吹奏しているのではないらしかった。

 

 自分は捕手の背後に立ってその様子を眺めていた。死に際の狼狽振りは如何にも演奏をぎこちなくさせる。然し、この際、もうその技巧の良し悪しは全く問題ではなくなっていた。

 男の体は後退りしながら、それでいて今にも仰向けに転げ出しそうになるのを堪える様に、爪先立ちで息を噴き出そうとするのだが、その様子がとてもではないが、楽器を吹奏出来る様子ではなかった。どころか、彼自身の顔にはっきりと、その演奏の音に恐怖している色が看て取れた。

 

 遅かれ早かれ、彼は死ぬ運命にある。然し、今は彼は必死に抵抗していた。彼の呼吸が悉くそのパイプに吸い尽くされようとしているのを観ていると、今にその類が此方に迄及ぶのではないか、と訳もなく怖気が増していった。

 それをそこらの石で打ち砕こうと思ってゆっくり近付いていくと、それはガラスでもなくて、よく出来たメイシャムのパイプであった。

 透き通った、白魚に似た色艶の楽器は確かにそれ自体から音を発していた。何処かの誰かがスピーカーから音を出しているというのでもないその演奏は、月夜にテラテラ光る路地の敷石と、その上で苦しげに足をガクガク震わせながら足掻く男の不恰好とによく似合った。

 軈て男は近くの建物の、鉄格子のついた半地下に連れ込まれて、パイプだけが道に放置された。残された楽器は首を切られた魚の様に、暫くまだ男が揺すっていた時の様に路上で、路面から一寸浮いた感じで、丸で爪先立ちでもしているみたいにボウフラみたいな動きをしていた。

 軈てその蠕動も静かになると、後にはけたたましい音声だけが深夜の街中に鳴り響いて止む気配がなかった。

 パイプはゆっくりと坂道をずり落ちていった。

 

 五

 家と家との隙間に身を潜めていると、街宣車よろしく、宣伝カーが直ぐ近くにゆっくりと止まった。「御用じゃありませんか、ーーいや、御用があるかと確かめに来たんじゃなくて、清算に来たんですよ」という声の主は、あのKであった。

 先程から寒くて何度か目を覚ましていたが、目を開けても依然部屋は真っ暗で、そんな時間に起きた所で身体に障るだけだったから寝付くとしたが駄目であった。

 

「然し、いい趣味をしてますね。歳は幾つですか?」

と言われたので思わず目を覚ますと、ぽっかり空いた胸元の辺りがまだ温かった。指の先で布団の中を探すと、骨張った痩せぎすの八歳位の色の浅黒い女の子が、碌に寝巻きも着ない侭で隅の方で蹲っていた。

 明らかにKの視線を感じていた。

 何歳かと問うと十八だという。絶対そんな事はないと思うので、もう一度質問すると、アストラルだかミストラルだか、要領を得ない事を言って埒が空かない。

 その内、障子の向こうが白んできて、赤い下着姿の下に浮かんだ骨張った身体と、その皮膚の下に減り込んだ黒い瞳とが陰影を濃くしていくのを認めた。Kはまだそこにいるのだろうか、と不安になった。此の儘、朝を迎えるのだけは何とか避けたかった。

「それで、その何とかいうのは抜きにして、精神年齢とかじゃなく、君は何歳なんだい?」

「それはお父さんがいつもいうようにーー」

 そんな問答を続ける内に、ピカーッと外で曙光が隣家の屋根の上に瞬いた。黒い髪はゴワゴワして、すっかり栄養失調というに相応しいのだが、矢張りそこには瑞々しい生気が宿った身体がそこにあった。

 

 六

 「だから言ったじゃありませんか、斧(アックス)だかトロフィーだか知りませんがーーどうせ道具なら使わなきゃあー」

 そういうと電話の声はプッツリ途絶えた。部屋の中は暗くて、依然、障子の陰は青だった。

 ーー十七、プロモーション旺り、というキャッチコピーが直ぐに閃いた。それもKと同じく、自分の書架では見覚えがなかった。然し、妙に納得してしまった。確かに、斧もトロフィーも、飾るだけでは意味がない。

 

 起き出すと、外はもう後二度下がれば一桁台の寒さであった。

 

(了)

(4:54 2022/10/07)

 

或る日本人がみた英国王の国葬(1)

 1910(明治43)年2月上旬、大阪朝日新聞(大朝)社会部の記者・長谷川“如是閑”(にょぜかん) 萬次郎は5月から英国・ロンドンで開催される日英博覧会の特派員に任ぜられ、3月18日に大阪から浦賀へ、そこからウラジオストクに向かい、4月5日発のシベリア鉄道万国寝台列車にてヨーロッパを目指した。

 この間、彼が目指す英国の首府・ロンドンでは所謂「人民予算」を巡ってに庶民院自由党貴族院の保守党の対立が激化し、ときの国王・エドワード7世は前年4月から1月まで半年以上に亘り政務に忙殺された。その間の過労が原因で国王は気管支炎を患い、十分な休息を得られぬまま症状は悪化した。3月9日に漸く療養に入ったが間もなくアスキス内閣の議会法提出を巡って与野党間の対立が激化した事で、4月27日にも国王はビアリッツからロンドンへ戻らねばならなくなった。

 それから約2週間後の1910年5月10日、英国王エドワード7世は68歳でその生涯を閉じた。国王急死のニュースは丁度一か月前に到着していた現地特派員記者・長谷川如是閑を仕事に駆り立てた。当時を振り返った彼の年譜では、次の様に明治四十三年の冒険が描写されている。

三月此年五月ロンドンに開かれる日英博覧会に派遣さる。十日頃に決定して十九日敦賀を立ちシベリア経由で急行した。支度を整へる暇もなく、大阪で作った十八圓の背広でロンドンを押し廻った。途中ベルリンで初めて佐々木惣一氏に会う。氏は文部省留学生だったが、「大阪朝日」の篤志通信員だったので、伯林に着くとすぐシュワイドニッツェル・ストラーセといふ場末の新開地に氏を訪問したが不在だったので行先を訪ねて市中を通ってある街を馬車屋と二人でまごついてゐると、自動車に乗ったドイツ人が英語で話しかけて親切に世話をしてくれた。翌日佐々木氏と市中見物をしてゐると別の處で偶然またそのドイツ人に出会って二人で奇遇に驚いて握手したが、ベルリンも広いやうで狭いと笑った。十日ほど佐々木氏の部屋に同居して市中を案内して貰った。四月十一日ロンドンに着くと間もなくエドワード七世(しちせい)急死のため、その葬儀に関する通信に忙殺された。

 長谷川はこの特派の2年前、1908年に大阪朝日新聞社に先輩格の新聞記者・鳥居素川の推薦で入社し、編集部整理課兼通信課員の肩書で専ら「遊軍」記者として度々出張旅行に出かけては、そこでの取材を元に紀行文を連載・発表していた。それには社内で彼をスカウトした鳥居素川が率いる「鳥居派」と、彼と同じく当時、社内で看板を張っていた西村天囚頭目とする「西村派」の対立が関係していたものとも思われる。だが、彼自身がまずそのような外回りを好まなかったとしたら、とてもではないが続かない仕事ではあった筈だろう。

 又、長谷川の「大朝」入社の前年、長谷川の実兄・山本笑月も在籍している姉妹社・東京朝日新聞社東京帝国大学の講師であった夏目漱石が入社する。これは当時、人気と共に実力も蓄えて来た流行作家の囲い込みレースに、新興の新聞社である「東朝」が勝利した快挙であったが、これにも大阪朝日の鳥居が一枚絡んでいた。鳥居の大朝へのスカウトは失敗に終わったが、鳥居が失敗した翌年、恐らくは彼のアプローチも含めた世間の反応に自信を持つようになった漱石は、東京朝日の池辺三山の打診に応じて同社への入社を決意した。

 夏目漱石と長谷川は長谷川が入社した翌1909年から本格的に交流が始まった。長谷川は同年春に大阪・天下茶屋に居を移していたが、そこへ9月、夏目が満州旅行の帰途に際して立ち寄ったのである。長谷川の年譜では、その際、「共に濱寺に遊んで某亭で食事した」とある。

 

 所で、夏目は1900年のパリ万博にロンドンへの留学途上で立ち寄っている。そこで目の当たりにした種々の展示物、パビリオンの威容は彼を魅了し、又その刺激が入社直後、鳴り物入りで発表・連載された小説『虞美人草』の中で如何なく発揮されている。

 1900年9月8日に横浜を発った夏目は10月18日にイタリア・ナポリに至り、そこから鉄道でフランスに入り、21日朝にパリに入城した。その翌日から夏目は都合3度も博覧会を見学して、日記には多数その記述が登場する。

 牧村健一郎は『新聞記者夏目漱石』(2005、平凡社)で、この夏目の様子をして「博覧会漬けの漱石」と評している。だが、これは夏目に限った事ではなく、恐らくは世界中の至る所で、その様な人間が続出していた――それが世紀末転換期の世相であったろう。

 パリ万博から7年後の1907年、6月23日から『虞美人草』の東京朝日紙上で連載の始まった。それは東京・上野で催された東京勧業博覧会の会期終盤に重なるものであった。3月20日から7月31日まで上野公園を第1会場として、不忍池畔、帝室博物館(現在の東京国立博物館)西側を第2,第3会場にして開かれたこのイベントは、元々政府主催の第6回内国勧業博覧会が予定されていた所で、日露戦争後の財政悪化が原因で延期されたのを受けて、東京府(当時)が主宰して挙行される事となった、久々の博覧会であった。夏目はこの博覧会にも度々出没したそうであるが、そんな実体験と、過去に欧州で見た華々しい祭典の空気とを活かした文筆は、当時破竹の勢いで成長を続ける新聞紙面を飾る、毒々しいまでに艶やかな色彩となったであろう事は想像に難くない。

 

 ”新聞記者デビュー”を見事に成功した新聞記者・夏目漱石に対して長谷川が当時、どんな感情を抱いていたかは明確ではない。ただ、それは一概に熱狂し崇敬するばかりでもなければ、闇雲にライバル視するようなものでもなかったと思われる。

 漱石が亡くなった直後の追悼記事の中で、天下茶屋での邂逅の折、「夏目君の東京的の『カイ』といふ強いうちに懐かしみをもつたアクセントを聴いて紛れたお父さんに出逢つた子供のやうに、泣きたい位嬉しいと思つた」(『大阪朝日新聞』1919年12月18日)という位だから、個人的には同郷者として大いに好感を持っていた事が窺われる。

 然し、評論家・千葉亀雄は夏目を「ロマンチストであり、リアリスト」とし、長谷川を「ニヒリストである」と論じる。(『大正のいなせ肌』)

 東京・木場の材木商の家に生まれた長谷川は父の代で様々な事業に手を出すも、何れも最終的には立ち行かなくなった。その所為で20代を貧窮の中で過ごす羽目になった長谷川は、10代後半から20代前半にかけて、多感な一時期を浅草で過ごした経験もある。

 父の山本金蔵(二男・萬次郎は曾祖母の養子となり、長谷川姓を継承)は一時、日本最古の遊園地「花やしき」の経営者で、萬次郎少年はそこで「もぎり」のアルバイトをした経験もある。そんな彼の目から見た遊園地や興業・イベントの景色は屡々、観客の眼差しと、客を迎える・見られる側の眼差しとが入り混じった、舞台袖に居る人間から見た景色の体をなしているものであった。とはいえ、彼はすっかり芸人や見世物として展示される人々の内には含められず、寧ろ彼等を客に披露する興行主と、その手伝いをする側の人間であった。そこで感じた「よそ者」としての違和感は、ロンドンやパリで「異邦人」として他者からジロジロ眺められるのに辟易した夏目の経験や、そこで自覚された彼の違和感とも異なるものだろう。

 

 そんな、同じ博覧会を見物していても視線の”擦れ違いそうな”二人であったが、同じ「朝日の記者」という立場で天下茶屋で相まみえた。長谷川は34歳、夏目は42歳、であった。それまでの二人のキャリアを踏まえると、当時の「新聞」及び「新聞記者」という職業の社会的評価が大きく変化していた事がよく表れている取り合わせである――それはさて置き、此処でどんな会話がなされたかは詳らかではない。然し、この翌年、長谷川は夏目が向かった同じ国・同じ都を目指して出立する。奇しくも、それは漱石の『虞美人草』が歓迎されたのと同じ時代背景を受けての派遣であったが、如是閑を迎えたのは「祭典」は「祭典」でも「葬祭」――国葬であった。

 

 

 『ミストル長谷川(はせがわ)、王様は崩御された(ゼ キング イズ デッド)』余が朝の食卓に着こうとした瞬間、向ふに坐った同宿の西班牙(スペーン)人フーコーといふ少年が突然斯う叫んだ。

 『ゼ、キング、イズ、デッド』

と覚えず鸚鵡返しに叫んで余はどかりと椅子に尻餅を突いた。

                   (「英皇崩御の翌朝」(一)、『倫敦』)

 先にベルリンで佐々木惣一と会った云々のくだりが記されていた年表の「明治四十四年(三十七歳)」の項には僅かに二行、「『倫敦』を「大阪朝日」に連載す。/春、兵庫県芦屋に移る。」とだけある。この連載『倫敦』は翌年、政教社から単著『倫敦』として刊行される。三方金、箱入りの豪奢な装丁であり、表紙にはロンドン市の紋章が押されている。

 後に「芦屋聖人」と渾名される彼、長谷川如是閑の成立は1910年の洋行後の事である。この渾名は恐らくは河合碧梧桐が記した『長谷川如是閑論』に依る所のものであろう。帰朝後の彼の様子について、河合は稍勿体ぶった筆致で

 其の大朝時代、芦屋の山中一軒家に、長らく孤独生活を送つていた彼は、運動の為めに、乗馬倶楽部に顔を出すだけ、さして隣人との交流もしなかつたのであるが、いつとはなしに芦屋聖人を以つて呼ばれてゐた。

と記している。

 長谷川の「運動」は乗馬に限らず、弓術や登山・ハイキングなど多岐に亘った。特に弓術と登山に関しては、前者は大朝に於いて社内でこれを奨励した挙句に弓場まで造らせた程である。後に又、『日本アルプス縦断記』(1914年)を記す基となった日本アルプスの縦走には先の碧梧桐を含めた仲間3人で挑んでいる。

 

 ロンドンから戻った彼を待ち受けていたのは、激烈なる社内の政治闘争並びに、それを又好機と捉えた当局の締め付け・圧力から来る紛糾状態であった。斯うした中でも一見して飄然たる風を誇示した長谷川を「聖人」視したのは河合ばかりではなかったが、長谷川も確りと社内政治に於いて鳥居派の一員として発言していた事が確認されている。取り分け、大正期に入ると素川の下、1914年(大正3年)末には社会課長に任じられている。

 斯うして、大正デモクラシー期に於ける立役者・長谷川如是閑の基盤は固められていくのであるが、一先ずそれは別稿を設けて記すべき内容であろうから以下省略する。

 

 ロンドン到着前のベルリンでの「親切なドイツ人」との邂逅は、後に舞台をロンドンに変えて、小説『ヘロデのユトウピア――一名強盗共和国』(1920年)の下敷きになっているだろうと思われる。そんな少し不思議な体験を経て到着した彼を待ち構えていたのは、過労に斃れた国王の死の報せであった。

 

 千九百十年五月七日の朝である。自分は少し早く目が覚めたので、直ぐ床を離れて窓掛を揚げると、薄墨色の靄を透かして鮮(あざや)かな青い空が見える。此の頃の倫敦にしては珍らしく朗(ほがら)かな朝であった。身装(なり)を整へてから、未だ朝食には少し時間があるので、余が日本から携帯して来た唯一の書物で毎朝食事前に日課として読む事に定(き)めて居て、定めたばかりで一向読んだ事もない淮南子を今日は一つ読んで見ようかと、机の上に転がって居る書物の塵を拂つて『太清(たいせい)無窮に問(とふ)て曰く、子道を知る乎、無窮曰く知らざるなり』とやり始めた。

 読み来つて『桓公書を堂に読む、輪人輪(りんじんりん)を堂下に劉(き)る』といふ一節の『臣試みに臣が劉輪を以て之を語らん、大(はなは)だ疾(はや)ければ即ち苦(しぶ)つて入らず、大だ徐(しづか)なれば即ち甘(くつろい)で固からず、不甘不苦(ふかんふく)、手に応じて心に厭(あい)て以て妙に到るは臣以て臣が子に教ふる能わず、臣が子も之を臣に得る能わず、是(ここ)を以て行年七十老いて輪(りん)を作る』云々の辺に来るとゴン〳〵と食事の銅鑼が鳴つた。

 で食堂に入ると未だ新聞を見る間もないうち、出抜(だしぬけ)に『ゼ・キング・イズ・デッド』を食(くら)つて覚えず尻餅を突いて仕舞つたのだ。フーコー君の音声は確か此方の耳に入つたのだが、容易に腹の底に落ち附かないで、頸首(えりくび)の動脈の辺でムズ〳〵して居るやうで、何とも云へぬ、妙な心持がする。無意識で傍の新聞を二つ三つ取り上げて見ると成程大抵全紙黒枠にして大活字で『皇帝崩御』とやつてある、覚えず知らず一座を見渡すと、向側の先生は大きい眼をむいて諾(うなづ)いて見せる。

                 (「英皇崩御の翌朝」(一)、『倫敦』)

 

 普段よりも天気の良い朝、それに釣られて普段なら読まない様な、然し折よくあれば読んでみようと思う様な本を手に取って暫く読み進めた辺りで合図され、階下の席に着こうとした矢先、無邪気な子供に脅かされ思わず尻餅を突いた如是閑”独特”の諧謔が満ち満ちたくだりである。

 彼が読んでいた『淮南子』は、前漢、淮南(わいなん)の王・劉安(前179-前122)の撰した百科全書風の思想書である。本当に長谷川がその本を携帯し、読んでいたかは定かではない。だが、此処では一先ず、彼が読んでいた『淮南子』のくだりについて確認しておきたいと思う。

 所で、そもそも『淮南子』とは、中央集権を推し進めていた漢の景帝の跡を襲った新帝・武帝に淮南王・劉安が要求して作らせた書物である。劉安は帝国内の諸勢力・諸思想の全てを容認しつつ、それらの緩やかな調和による統一を実現するべし――との提言を年若い皇帝になす者であり、『淮南子』は彼の下に集まった多くの賓客・思想家たちから齎された様々な思想を網羅的に採録した書物であった。

 

 劉安は年若い皇帝にこれから起こるであろう種々の政治的・思想的課題への「思考の道具」として『淮南子』を用意した訳である。そして、同書は長らく日本でも読み継がれ、長谷川らの世代が最後とされる「前近代的」教養の内に営々と継承されて来た知的財産の一であった。

 夏目漱石長谷川如是閑は果たして、漢文「素読」世代の最後の世代であり、これ以降の思想家や作家達とは屡々区別されて考えられている。四書五経を中心とする東アジア的教養を、身体化していた日本の知識階級の最後の世代、その代表的人物として屡々名の挙がる事も多い漱石であるが、彼よりも数年遅れて生まれた如是閑も又、ギリギリ此の「素読」世代に食い込んでいた。そんな彼の身体化された教養は文面から間々読み取れるものであるが、その年齢に比して、同世代よりも上の世代の人々にシンパシーを感じていた長谷川の周囲との違和感は終生抜ける事はなかった。

 

 1910年5月7日の朝、長谷川が読んだとされる『桓公書を堂に読む、輪人輪(りんじんりん)を堂下に劉(き)る』というのは『淮南子』に収録された寓話である。

 「桓公」とは春秋時代の国家・斉の君主であり、「輪人」(輪扁)とは車の車輪を作る職人の事である。物語の中では、この職人が桓公にどんな書物を読んでいるかを訊ね、桓公が古代の聖人が遺した教えに関する書物である、と答えてやると、職人はそれを「それは先人の残り滓だ」(「然らば即ち君の読む所は、古人の糟魄なるのみ」)と言って公を怒らせる。桓公は職工如きが君主の読書を邪魔したのに怒り、彼の意見を求め、これに満足な答えが出来なければ死を与えると告げる。それに対する輪人の応答が「臣試みに……」以下の内容である。

 その大意は、職人が自身の経験から「学びとは何か」を説いたものである。「物事の枢要は長年の研鑽の末に「身体化」されて漸く獲得されるものであって、そうした本当に大切な、経験によって得られた知識は言葉や文字で伝えられない」というのが、引用されている部分の大意である。

 「是(ここ)を以て行年七十老いて輪(りん)を作る」で、長谷川の引用は終わっているが、是には続きがあり、そこでは「古(いにし)への人と其の傳ふ可(べ)からざるものとは死せり。然らば即ち君の読む所は、古人の糟魄なるのみ」とある。

 ”身体化され、漸く獲得された様な知識という様な奴は、古代の聖人の死と同時に失われてしまった。後に遺された言葉なり書物という様な奴は、そんな死によって滅びて失われた、本当に大切な智慧の残滓に過ぎないのだよ――……。”

 嘗て「大新聞」と呼ばれた漢文的教養の薫陶を受けた人々の展開した言論活動の中に混じって、天下国家を論じる事を志した若者以上中年未満の長谷川の文章には、蓋し、この『英皇崩御の翌朝』の冒頭が端的にそうであるように、彼自身が喪失した諸々やその経験それ自体を反映する表現が随所に顕れている。

 彼が「ニヒリスト」と呼ばれる由縁は単にそんな感傷や追慕を言辞を弄して随所に織り込ませているからだろうが、その「癖」こそ正に彼が我が物としてしまった教養の残滓に過ぎなかったりする。

 

 咄嗟に長谷川が『淮南子』からそんな話を引用して来たのは、彼の思考の表現型にかくの如き偏向がみられた所為でもあるが、英国王・エドワード7世の死に際して引き付けて考えた彼の思想の一端を示しているのは言うまでもない。

 食堂に下りて来た彼であったが、新聞を手に取るとすぐに自室へと戻った。机の上にはさっきまで読んでいた『淮南子』が開かれた其の儘の状態であったという。

 一大事件に接した時、殊更何か自分の身に起こった、或いは観察した出来事と重大事とを結び付けてストーリーを創作したがるのは割に一般的な人間の性向であると言えなくもない。だが、そうした人間性来の癖を抑制する事が今日では求められる職業の第一に数えられるであろうジャーナリストも又、人間である事は免れ得なかった。寧ろ、当時に於いては、乃至は今日に於いても、著述家という者はそんな「等身大の人間」である事を求められている節さえある。

 専ら今日、「知識人」と呼ばれる人達が世間にそうであるようにか求められているが如く、漱石然り、如是閑然り、彼等はその著述に於いて事実と同時に物語の語り手であり、その作家である事を嘱望された。そうして、その様な読者の期待によく応えんが為に俄かに職務に忙殺される事となった長谷川の眼に映ったものは、片っ端から本国――もとい、「本社」への通信のコンテンツとなった。

 これが果たして、彼のロンドンでの最初の大仕事となった。そしてこれが彼のその後のキャリアに大きく貢献するものにもなった事を鑑みれば、エドワード7世はその死を以って一人の異邦人の人生を大きく変えた、といっても過言ではない。

 

 そんな「英国皇帝」に対する如是閑の評価は『翌朝』の中で明快に纏められている。幾分長くなるが該当箇所を全て抜粋する。

 エドワード陛下も少壮時代には兎角の評判もあつたが、何しろ六十歳に満つる迄皇太子として部屋住の身分であつたのだから、少しの不平や我が儘は有勝の事で、のみならず、其のお蔭で下情に通じて、世間の酸いも甘いも心得た一廉の英国紳士となられた訳である。然も帝位に即(つ)かれてからは、帝王として又模範的紳士として衆庶の渇仰(かつごう)する所となつた。英国の君主の政治上の地位といふものは随分厄介なもので、其の不文の憲法を擁護するのは全く皇帝其の人の性格に憑依せざるを得ないやうな歴史になつて居るが、エドワード陛下は其の点に於て亦(また)模範的君主として、如何に英国の君主が其政治上の範疇を守るべきかを後世に垂示した趣がある。先女皇ヴィクトリア陛下も誠に聡明ではあつたが、流石婦人だけに個人的好悪があつて、グラッドストンのやうな大久保彦左衛門的老爺(おやじ)をすら時々手古摺らせたが、エドワード陛下に至つては、所謂皇帝(クラオン)の政見(オピニオン)といふものを些かも外(ほか)に現した事がない、従つて時には往往皇帝を利用せんとする傾きさへ生じた政界の危機に際しても、皇帝は全く超然として其の不文憲法に半点の汚染をも止(とど)めずに仕舞つた。又外交上に於ても其各国元首に対する社会的地位(ソシアルポヂシヨン)の優秀なる事を極めて道徳(モーラリー)的に利用して、欧州列国間の平和を維持する上に於て、千百の大政治家が頭を鳩(あつ)めて経営惨憺しても到底為し能はなかつた所のものを成し遂げられた。欧米人が陛下を呼んで『エドワード・ゼ・ピースメーカー』といふに至つたのは決して偶然ではない。

 所が陛下の件の事業は全く陛下自身の人格の事業、即ちエドワード七世其の人の道徳的勢力に基づいた事業でもある。其の政治上のに於ても外交上に於ても、将(は)た社会上に於ても不即不離の間に、憲法上の君主として、又国際上の元首として、且(かつ)は一箇の紳士として、何(いづ)れも模範的の地位を占められた手際は所謂学んで到る事の出来ない、人格の事業でもあつた。即ち此処にある淮南子の輪人(りんじん)が所謂『不甘不苦、手に応じ、心に厭(あい)て以て妙に至る』もので、帝(てい)以て之(これ)を子に教ふる能はず、帝の子も之を帝に得る能はずともいふべきである、輪人は『是を以て行年七十老いて輪を作る』といつたが、偶然にもエドワード七世陛下も亦寶算(ほうさん)七十、今朝余が滅多に読みもせぬ淮南子を読んだのも何かの因縁ではないか……なんかんといふ事は何(ど)うでも好いとして、兎に角陛下個人の道徳的勢力が外交上にも政治上にも爾(しか)く重き為しつゝある今日、此の老帝を失つたのは、英国に取つては勿論絶大の損害であるが、一般欧州の為にも予期出来ない不幸になりはしまいかと案じられる。

 

               (「英皇崩御の翌朝」(一)、『倫敦』)

 

(つづく)

 

(2022/09/09,20:10)

インコの羽

 南米奥地アマゾンの密林の中で男が一人、インコの羽を纏って死んだそうである。その死体が発見されたのは死後数十日が経過したあったそうであるが、男は彼の部族の最後の生き残りであった。

 こうして彼の死を以て、彼の部族もこの地球上から絶滅した。インコの羽に彩られた男の死体は、正に南米大陸が織り成した文学幻想の綾錦の様である。だが、これが彼の地の現実である様である。

 

 風邪を引いた時に、或いはこれから自分が熱を出しそうだと悟った時に自分で着替えや食料を用意する。それは何の不思議もない、それが密林の奥であれ、京浜工業地帯の辺縁であれ、ただの日常の生活の営みの一に過ぎない。

 男がどの様な信仰や世界観の下にインコの羽を纏ったのかは今や地球上で誰も知る者はいない。だが、その魔術的な死装束も、所詮は他人が想像する程には空想的でもなく、恐らく指紋の跡がくっきりと見える、生身の生活の一部に過ぎない。

 

 もし密林の奥地で一人死んだ男の死に様が何か特殊に見えるとするならば、それは彼の生きていた現実が彼の生命と共にこの地上から、それを支持していた彼自身と共に消え去った為であろう。

 そして、その現実が傍目にはどれだけ夢幻の様に見えるとするならば、それは彼の現実が彼自身により相当強固に維持されていた証である。それは既に彼以外にそれを支持する仲間のいなくなった現実を男が一人で固持し続けた証である。

 

 そして、その様な強固な意志で支えられていた現実も彼自身の死によって「インコの羽」に変貌した。もう誰もそれが何であったかは誰も分からないし思い出す事もない。

 人間の現実なんてものはそうして生きている間にその人が支持している夢想に過ぎないーーというのは、極あり触れた思想である。けれども、その様な故事すらよく忘れられた時代にあって、遠い海の向こうに大変な人がいたものだとつくづく関心する限りである。

 

(2022/09/03)

https://www.bbc.com/japanese/62710641

 

 

AIで創作する

 呪文を唱えてAIで画像を生成するのも立派な創作行為である。だから、創作活動全般に通用しているであろう倫理なり何なりをそれにも適応していこうーーというが本稿の大意である。

 「アレが作品と呼べるのか、創作活動、藝術と呼べるのか?」

という意見は、ある意味至極ありふれた反応である。然り、既製品に一筆署名しただけで「作品」になるのかーーという話と似たようなものであろう。

 権利の帰属や利益侵害などの問題は一先ず扨措き、この1ヶ月足らずの間に生じた問題の多くは、概ね画像生成プログラムに指示を与えて画像を生成する行為を、実際そのソフトを用いるユーザー以外の、その画像を見る部外者までもが「創作活動」として認識せず、故に又、その所産も「創作物」として認めないのが禍していると見受けられる。

 

 そもそも、創作活動に携わっている者は普段から自明のものとして随分慣れ過ぎている為に肌感覚として敏感に、或いは鈍感に過ぎるのかも知れないが、創作活動とその所産物は概ね紛争の火種になり易い事物である。

 日々の練習活動にしたって、隣近所との軋轢を産み易い性質のものであるし、息抜きの散歩や気晴らしの趣味にしたって大分世間からみれば胡乱な、いかがわしさを孕んだものである。大体、そんな風に少なからず自身の内にその様なゆとりを持たせてブラブラしている事が生活の中に組み込まれている手合いというもの自体が、古今東西人間社会に於いては「不審な存在」であり、相当「いかがわしい」事を自覚しないでは創作者の風下にも居ないも同然である。日陰者ではないにせよ、はぐれ者としての自覚は先ず持っていないと、石を投げられても文句は言えない。

 

 他人の家の生垣の花を愛でるのも、公園で屯する群衆を眺めたりするのも、創作者とそうではない一般の散歩者とでは全然別な行為である。

 広い意味で人間社会の営みも自然の一とし観察するのは、ルネサンス以来の絵描きの嗜みであると言える。或いは、文人墨客の一種の「高貴な義務」に属するものだーーとも言えなくもない。

 だが、そうした岡目八目的態度で蓮池の辺りを歩く釈迦如来的態度で生身の人間が天下の往来を遊歩するのは傲岸不遜の至であると難じられて当然である。

 全く世間には、そんな暢気な画架を担いだ暇人の認知の外にある道理というものが幾重にも交錯していて、知らず知らずのうちにそれらを侵犯し、去りながらその無知無礼はそれぞれの道理の範疇にある側の者から目溢しを受けて、這う這うの体で災を免れているに過ぎない。

 そういう一方の寛恕のあるのを知らず、今一方が他人の尻尾を踏むか、或いは逆鱗を撫ぜたるを以て体当たりを食らった時に憤慨するのは、中々に痛々しい様である。

 

 蓋し、薔薇の花に棘がある事や、蝶の前身が芋虫である事を知らず、それが指に触れて漸く気付いて俄にギャアギャア騒いだとて、必ずしもその声を聞き付けて諭してくれる様な大人が何処にでもいるとは限らない。

 そういう不幸な接触も含めて、何ぞ観察の一環であると思って、自分の白衣を朱に染め、或いは泥に染ませるのも一興と思われねばとても藝術とかそういうものを嗜むのは困難である。又、自身もその生活の中で襟に垢染みを造らずに生きられる様な天人天女でもある筈もないのだから、擦れ違い様、他人が蹴散らした泥で裾を汚されたとしても、それは多少の目溢しをしなければ往来を遊歩するのは中々に困難である。

 人跡の途絶えた、或いは未踏の地を行くにも、結局そこには人ではない何かが潜んでいるものである。或いはそういう環境では、自然そのものが荒々しく旅人を滅茶苦茶に揉みしだき、塵や埃の一片に風化してしまおうとする。

 そんな場所へ人間が進むのに、4WDの自動車を駆使して行くのを面白く思わない「読者」や「視聴者」も世間には五万と存在するであろう。だが、自身を使い捨てカイロと同じく青山の石に準えて山谷に投棄するつもりなら話は別だが、そうまでしなければ生身の人間は、大抵密林や秘境の玄関口から帰って来る事すら出来ない。

 ランドクルーザーを駆らない選択肢は更に困難な途となるであろうが、往々にしてその様な苦労は紙面やモニターの向こうに座す読者・視聴者の多くを楽しませるものではない。そういう苦労話を有り難がる勢がいる事も否定はしないが。

 

 嘗て「公式」からの供給に満足せず、自ら「自炊」の筆を執った者達が、今度は模倣の対象となった時代の潮の目を観る程に、その栄誉に預かる事を自覚するよりかは、寧ろ公に自らの存在が明らかにされる事を否ぶ様に硬化している今時の状況は注目に値する。

 批評もそうであるが、自由な言論、自由な表現とは元来、その様な無節操な剽窃・論難・紛争の坩堝を指すものであって、その火中にあるものは決して心地よいものであるとは言い難いものである。

 

 然りながら、その赤熱した炉の直ぐ傍で、皮膚を炙り、遠からず失明する恐れさえあるにも拘らず、その炎の虜となって色を確かめる様な者でなくては、とても「創作活動」に従事し得るとは言えないだろうーー。とは、全く、電化される以前の、外燃機関が未だ地上を疾駆する略唯一の乗り物だった時代の人間の言種である。(或いはそうした時代の人間への憧れを強くし過ぎた人間のアナクロニズムである)

 そんな危険は冒さずとも、愉快な活動にお気軽に親しめる時代が来たーーというのは、どの活動についても何れ訪れるであろう変化の一様体に過ぎない。

 如何にも、AIを駆使して画像を生成するのは、絵筆を執って何かを描くというのとは、全く別の作業であるのは一目瞭然である。

 ただ、いつか機械を意の侭に操縦する為の呪文を開発する人々の言葉が詩となって聴こえる様にならなくては、多くの人々にとっては実に勿体無い事態である。それは昔話に出て来る魔法使いの秘儀に他ならないからだ。文法が未だ魔術の域に留まっていた時代の再来は、既に今日露見する所となった訳だが、それは既に半世紀近く前から始まっていたのである。

 

 極論すれば、AIのオペレーターも芸術家も、同じパルナッソス山を望む者らに過ぎない。それを先ず確認する必要がある。その上で、「世俗的」な人間社会に於ける問題は解決せねばならない。そう考える事自体が大分古臭い、と言われたらそれまでである。然し、人間の営為は常にそんな古臭い物の見方と、新しい産物の齎す価値観との間を機織り綾なすものではないか、と、これまで古臭い、そんなものはもう価値がない、と言われたら筆者はもう、お手上げである。

 自分達の切り拓いたルートをブルドーザーで登って来た連中を詰るより、自分達がこれまで辿って来た道程を踏み固めて来た者達へ追想する瞬間を今、我々は迎えている。

 そして、何より今現時点でいる場所は決して頂上なんかではない事を示すべき時宜でも「今」はあるのだ。

 

(2022/08/30)

ピグマリオン・ジェネレータ

 適当なキーワードを入力して機械に生成・出力させたデータをそれ以上のものだと捉えて享受するまでには、一跳躍の歩み出しが必要である。

 昔、坂田靖子の漫画にピグマリオンの伝説をモチーフにした短編作品があったのを今朝ふと思い出した。パソコン・インターネット黎明期の只中で描かれた坂田の諸短編作品は、正に今、読まれるべき作品郡であろうと思うのだが、それはさておき、同作の(タイトルは失念してしまったが)主人公は天才芸術家(男性)で、自身によっての「最高の女」を欲するのだが、その衝動のままに鑿槌を振るうと、その芸術的衝動が表現されてしまって、一向に「女」自体には辿り着けない。

 そこで彼が相談に向かうのが、コンピュータの研究開発を行うラボである。出迎えた研究者らも「ここはコンピュータのラボなのですが」と困惑するのであるが、札束で頬を叩かれた研究者は諾々とアーティストの注文を受けてしまう。

 そして(ネタバレになってしまうが)、ラボの面々が考案したのは、一種の催眠プログラムであった。具体的なその描写は芸術家のセリフで止まるが、如何やら延々と幾何学的図形の画像やら、所謂、当今私たちが「ヴェイパーウェイブ」とか聞いて思い浮かべる様なシュールな映像みたいなもの(動画なのかは不明)がモニターに表示されるプログラムとして描かれている。

 そして、この催眠導入プログラムの最後に表示される画像の女性を「理想の女」として満足する様に作られたプログラムが、ラボが開発した『最高の女』なのだーーと、担当者は助手の若者に語って物語は終わる。その画像というのがボッティチェリの『ミロのヴィーナス』とダ・ヴィンチの『モナリザ』と後2点くらいあった筈だーーが、何分読んだのが随分前なので思い出せない。『裸のマハ』か『オランピア』であった気がしないでもないが、確証はない。

 

 兎も角、この漫画が描かれたのが1990年代(自分が読んだのは2000年代の後半であったが)であった様だが、当時これを読んだ人もそうであったろうが、それから十数年後に読んだ私も、この男の愚かさを滑稽に感じたものである。

 だが、それから更に十数年経って、俄かにその滑稽がフィクションの装いを失して自分の目の前に現れた時には、一週間程、件の物語を思い出すまでに時間を要した。

 

 別に、画像生成Botで遊ぶのに水を差すつもりもないが、それが生成した画像をすわ「絵」だと即座に反応するのは、如何にも20世紀後半の「コンピュータ万能論」じみた愚かさと滑稽さを感じさせる。ただ、そんな感想自体も2020年代には時代錯誤的でもあるだろう。

 

 例えばだがーー、丸山健二の小説が原作で、そこにオリジナル要素としてコンピュータが弾き出した結果に従って任務を遂行するーーという(見方によっては稍SFチックでもある)オリジナル要素を加えた1984年のクライム映画『ときめきに死す』(主演・沢田研二、監督・森田芳光)が、詰まるところ当時の世相に滞留していた「万能機械」への「期待」を批判する内容になっていた事は、映画諸共、文字通り、遠い過去の出来事として忘れ去られている。

 その割に、2010年代には、P・K・ディック的な世界観のクライム・アクション作品がアニメを革切りに小説化もされて色々マニアの間で持て囃されたりしたが、いざ、そういう予行練習でもって繰り返し注意を呼び掛けられていた事象に関して、初めて接するに際しては中々機敏に反応するのは困難の様であった。

 

 Botの生成する文章(それを文章と呼べるかは分からない)や画像を、何か詩や絵なのだと捉えるのは詰まる所が芸術家の男の様に「最高の女」に対する欲望とそれに基づく行為とが伴っていればこそであったろう。ただ、目の前のタイムラインに流れてくるだけの画像を見るだけでは、これまでも、またこれからもそんな理想の記号さえ認識するのは出来ない事であるだろう。

 

 だからと言って、端からそんな理想や対象を渇望しない者程こそ、「これでもう絵描きなんて仕事は不要になった」と嘯くのだろうーーとは決めつけてはならない。

 それは鑿や槌を握るまでもなく、大理石の塊に向き合う事もせずに漫然と過ごしている人間がアーティストを気取って垂れ流す戯言かもしれないが、一方では、これまで散々大金を彼等に支払って来たにも拘らず、その衝動の表現しか見せ付けられて来なかったパトロンが、漸く理想の奴隷を見付けた時の満足な溜息に伴って出た一言かも知れないからだ。

 それは「理想の買い物」ではないかも知れないが、少なくとも、これまでうんと敷居が高く、おまけに全然自分の言う事を飲んでくれない人間よりもずっと理想に近付ける夢のマシンであった。

(しかもBotであれば、注文主である自分を陰で嘲笑する様な事も絶対にしないから!)

 

 実際、他人を使って何かを得ようとしなければならない人程、真摯に己の「最高」に向かって邁進するのかも知れない。そして、存外自力で何とかしてしまおうという人間程、「最高」ではなく「最善」を尽くそうとするのかも知れない。そこには自ずとズレがあり、「最善」を尽くすが故に「最高」に一歩及ばぬーーという事も起こり得るのかも知れない。

 画像生成Botは、強いていうならその「最高」と「最善」の間を取って「最良」を目指す手立てかも知れない。それは人間が描いた絵ではないかも知れないが、人間が描いた絵では満足出来ない人にとっては、それらを元にした「最良」の選択肢かも知れないのだ。

 また、芸術家からしてみれば、その画像は所詮、顧客を満足させる“だけ”の信号に過ぎず、“そんなもの”を描くのに時間を割きたくない芸術家の作業を随分軽減してくれる福音として評価し得るものになるのではないだろうか。絵描きが画像生成Botを活用する利点は何よりか、その様な面倒に割く労力を減らす点にあるだろう。今時便利なツールを使うのに抵抗のある絵描きなんてのは廃業するしか道がないものである。蓋しいつの世にも「クリエイティブ」な仕事をする者程、新しい道具を直ぐに使い熟せるようになる能力を必要とされるものであるーーと言えるかも知れない。

 

 ピグマリオン・ジェネレータとは、正しくピグマリオンを生成する装置であり、「理想を実現する装置」ではない。飽くまで、その願いを叶える道具は願い自体を創造するものではないのだ。

 故にだが、この装置を用いるのは半ば神懸けた誓いを立てる様な行為が出力の際に必要となるのではなかろうかーーと思われるものである。

 無論、冒頭に紹介した、坂田靖子の漫画に出て来るアーティストの様にーー本人としてはそれに不満を抱いているのだがーー自身の仕事としては「芸術的衝動の具現化・作品化」を創作する事を旨としたい人々にとっても、ピグマリオン・ジェネレータは「マシン」として活用可能である。

 何せ、ピグマリオンは自分の為に創作を行ったに過ぎないのであって、決してそれは仕事ではないのであった。別に彼は彼自身に対価を支払うでもなく、ガラテアをピグマリオンは何かで買った訳でもないのだった。

 その意味では、画像生成Botは全く、誰かの提供するサービスであり、それは仕事として成立しているものだから、正しい意味では「ピグマリオン・ジェネレータ」とは言えぬかも知れない。だが、それが「絵描きが失業するかも知れない」と、だからこそ、言われるが由縁である。

 

 何か理想とか人間の求める対象というのは、それ自体、永遠不滅の様に人間には感じられるかも知れないが、その知覚というのは同時に、渇望する人間に己が有限性を無慈悲に示す事柄でもある。

 人間はそれに気が付いたら、早々にそれ自体を求めるのを止めて、手近な所にある「最良」を見付け出す必要があるに違いない。

 ただ、それに際して最も重要なのは機械の性能や渇望の高ではなく、意外と美神への加護の誓願、切実なる信仰と絶えざる期待なのかも知れないーーが、その滑稽と悲惨に耐えられる人間というのはいつの時代も逸材と呼べる希少なものであるだろう。

 ただ、その愚かさを治さずにはいられない、余計なお世話を焼きがちなのが、いつの時代・地域に於いても見出せる一面としての人の性であろう。

 モニターの前で催眠術にかかっている間は、全く世界の半分は見えていないのだ。

 

(2022/08/11)

 それはよくある光景だった。電車の中でひたすら窓に向かって口角泡を浮かべて喚き散らしている、大抵は年齢よりも随分と老け込んだ男が一人、周囲に無視されて放置されていることへの当て付けからか、列車が速度を増すに連れて愈々声量も大きくなる。

 周囲の沈黙が男を押し潰し、磨り潰して消し去ろうとするのに彼はなかなか居なくならない。それどころか、靴の中に入った小石の様に、いつまでもそこにいて自らは動こうとしない。だが知らぬ間に彼は居なくなっているものだ。単に声がしなくなっただけなのだが、男の特徴はただその支離滅裂な言語、耳障りな独言しかない。

 こういう手合いの奴は、実際何処にでもいて何処へでも出没する。そうと気付かない、気付かれないのは彼らがいつでも声を発している訳ではないからだ。各自それぞれの事情と判断によって彼らは信号を発し、啓発する。彼ら自身が何かを受信しているのではなく、彼らはひたすら受け取り手のいない情報を発信しているに過ぎない。彼らの一言は長く、冗漫で、要領を得ない。故にいつまでも送信が終わらない。「更新中」と「交信中」のアイコンが彼らの頭上には見えずとも常に回転し続けている。その負担が彼らを余計に苛立たせる。結果として暴れ出す時、彼らは自身が草した文章を喪失している。宛先は勿論、送り主も判明ではない。

 

 その壁がユーザーの一人だと気付くのにはそう時間は係らなかった。然し、その中に人が入っている事、何かのバグで埋まってしまっている訳ではない事に気付くまでには数十秒を要した。全く詰まらない冗談だと思った。

 そういう、一発芸的な面白さを求める奴が屯するには未だ少し敷居が高過ぎるーーが故にそういう事を仕出かす、自己満足的な奴が出て来るのは、いつ何処で何が流行っても起こり得ることだった。

 壁には文字が浮かんでは消え、そして端の方からビッシリと今までにそれが表示した文言が一覧となって表示されていた。その一つひとつにリンクが貼られていて、そこから個別の「記録」にアクセス出来る。掲示板と伝言板の合いの子みたいな、然しそこには壁以外、誰も書き込めないし、別にルームの記録を付けている風でもなかった。

 

 > なんでここにいるんだよ。

 

ーーと屡々、煽るユーザーに対しても壁は沈黙していた。その内、この「壁」はチャットの監視用のアバターで何者かが延々と個人情報を抜き去る為に設けたロボットではないか、という嫌疑が自然生じたが、通報され、凍結されたと思いきや、直ぐにも解除され、相も変わらず「無害」な文言を表示し続けた。

 

 すると、次にこの真似をする輩が現れ始めた。もうその頃には、サービス自体が新鮮さを失って、新規が続々と押し寄せて来るタイミングに移行していたから、見切りを付けた「古参」連中からさっさと退場して次の遊び場を見付けていった。

 果たしてそこにも彼は出現した。最初に気付いたのは、イヌになり切って遊んでいたユーザーだった。用を足そうと、隅の方に並んだ電柱の一本に狙いを定めた所、その根元によく出来た三色スミレの花が一株植わっているのを認めた。

 これに関心を示したイヌは直ぐ様、友人らを連れて此の花を観察した所、その花弁のテクスチャーにはビッシリと犇くアブラムシのアニメーションが投影されていた。然も、この虫達の姿はいちいち何か文字らしき画像を浮かべては瞬間々々に消えていった。

 その花自体も又、暫くして枯れてしまった。ただ発見されて以降はその様子が確りとユーザーらに録画された為、その内容から恐らくアイツだろうと推測したコミュニティーの面々は、全く水をさされた気持ちになって心底ウンザリさせられた。

 

 彼らは「壁」の不届きな宣伝行為に憤慨した。喫茶店で店を開くマルチやカルトの所業であると彼ーー何故か、「彼女」ではなかったーーを非難した。「壁」は、誰かが思い出して話題に上げる度に地味にランキング入りを果たした。既に壁は壁でなくなっていたが、最初に現れたアカウント自体は依然としてそのルームに存在していたが、既に寂れた観光名所化していた。既に彼は伝説の、即ち過去の存在となっていた。

 だが、イヌが(此のイヌは、自分が用便を果たそうとした所に件のスミレがあった事に啓示を受けて、以来、フィールド内に隠れていた「壁」を次々見つけて行った)その後に見付けた彼の独言は様々な形態を採っていた。

 蜂の巣だったり、蜘蛛の巣だったり、屡々昆虫に自らを仮託しているかの様に思われたが、その次は疑似大気の密度を調整して、ある角度からライトを当てて見てみると、そこに陽炎として独言が浮かび上がる様な場合もあった。

 当然ながら、そんなだから終いには彼を本当に崇拝する連中が出て来てしまって、その中には嘗てあったサービスに早々見切りをつけて渉り歩いていった様な賢いユーザーもいた。

 最初に現れた時から既に三年が経過していた。するともう好い加減、「壁」を無視し続けるのも大概面倒だと思う人間が出て来ても無理はなかった。他方で頑なにそれを憎んで非難し続けるユーザーもボチボチ徒党を組み始めたが、これも結局は消耗した結果、その様に彼ら自身が変質したーーというべく他になかった。

 

 壁はもう壁ではなくなってしまっていた。最早どれが「本物」の壁だかも分からない程に、その模倣子とコピーとが、何処も彼処も埋め尽くしてしまっていた。

 或るユーザーはーー最近、如何やらパートナーができたらしいーー、

 

 > 如何にも、これが目的だったんだろう。

 

と分かった様な事を投稿していた。

 ただ、矢張り「専門家」から言わせると、壁はパフォーマンス・アーティストの一であり、然しながら真の狙いは虚無僧の如く、簾越しに狭い世間を観察する事であるのだそうだった。

 

 > 「壁に耳あり障子に目あり」

 

 この、恐ろしく古い諺をただ体現するだけの為に作られたアートが一人歩きした結果が今日である、というのである。

 ミームを拡散しようとする意図を感じ取るユーザーは、二番目に彼が採った形態を根拠に自説を優位に置こうとする。だが、それに対しての批判は、そうなると彼が最初に「壁」の姿をして現れたのと辻褄が合わないーーというものであった。

 

 観光名所化した壁は保存され、その更新はゆっくりではあるが長らく継続していた。

 だが当該サービスの終了が告知された翌日正午から、その更新はぴたりと止んだ。解析の結果、それは最初から「壁」にプログラムされていた、自動的な反応であった。

 無数の魚拓やアニメーションが「壁」を保存したが、最新の壁の所在は、斯界の泰斗に君臨するイヌを始め、トレーサーにも見付けるのが困難になっていた。

 フォーラム内のスペースに報告される代物が、果たして独語なのか、それとも単なるシミなのか否かの見分けはとても素人には付けられなくなっていった。最早、全くイヌ達の鼻だけが頼りという様な有様になっていった所で、七年が経過していた。此の間に、イヌは何度か入院しており、その後継者が度々内ゲバを起こしてはアカウントを凍結される騒動が起こっていた。

 

 そうこうしている間にも、惑星表面の地表はジワジワと水底に沈みつつあった。日差しは野山を文字通り焼き尽くして、炎は赤々と民家の甍を沸騰させ、丸裸になった山肌は滝の様に滑り降りて、麓の街と水源の湖とを悉く埋め尽くした。

 社交の宴は相も変わらず盛況であった。他方で飢えた子供達は所構わず矢継ぎ早に透明になった。穀物倉庫は爆撃され、相変わらず空は清々しく、海は満々と水を湛えて、遠目から見る分には然程変化は見られない様子であった。

 壁に書かれた独言は余りに長過ぎて誰にも読めなかった。又、余りに更新の頻度が屡々なので記録者は整理の度に困窮した。平文で書かれたそれらに読むだけの価値を見出した者は彼の崇拝者以外いなかった。それすらも読むというよりかは「占う」のに近かった。

 

 誰かがそれを「風」に喩えて、自身らを屋根の上の風見鶏に喩えたのに対して他のユーザーが揶揄し、返信した。

 

 > それはお前だけだ、気持ち悪い。一緒にすんな。

 

 さてこそ、パーティーはこれからも盛況である。壁の居場所は杳として知れない。

 

(2022/08/04)