カオスの弁当

中山研究所blog

懐中時計と書棚

 東洋時計の懐中時計は、国産最後の懐中時計と呼ばれている。五百円玉を二回り大きくしたくらいのサイズで、厚みはコンビニで売ってる和菓子のア・ラ・カルトの中に入ってる茶饅頭ほどである。

 これともう一つ、最近手に入れた商館時計を見比べると、後者の大きさに随分と驚かされる。これも又、コンビニで売ってる、小さな月餅くらいの大きさがある。大体、百年くらい前の稼働品になる。

 本屋の棚の前で、着替えたばかりの秋物のベストのポケットから、前者の小さな時計を取り出して見ると、先ほどまで手に載せていた時計と親子ほど図体が違うので驚く。カチャカチャと音を立てることもなれば、恐ろしく大きな針の音も聞こえない。ただ、ほんの微かに指の腹に、シャキシャキと車の行ったり来たりして、回る動きが伝わって来て、それがあたかも耳元で聞こえているような錯覚をもたらす。

 

 岩波文庫の棚の前に立ってみれば、あれが欲しい、これが欲しいと目移りして、いつまで経ってもレジに向かう事が出来ない。中にはかつて持っていたタイトルも並んでいる。

 どうせ何年かしたら又売っ払う必要が出てくるかも知れないのに、いつ引くか分からない『ラ・ロシュコフー箴言集』とか、名前だけは大分前に聞き及んだ『白い病』とか、『嘘から出た誠』とか、図書館に行けばあるとは知っていながらも、それを自分の枕元に、或いは机の横に拵えた棚の中に加えたいーーという欲求は尽きる所を知らない。

 初めて持った文庫は何だったか忘れたが、岩波だと『パイドン』だった筈である。同じプラトンでも『ソクラテスの弁明』が売り切れていたものだから、同じ作者の別の本を買った次第である。それから随分と買った物だが、果たして読めたかどうかは随分と怪しい。

 恐らくこれからもずっと怪しいのである。だが、手元におかなければ、恐らく死ぬまで読む機会もないだろう本でこの世は溢れている。そう思うと、郊外の駅前の書店の棚にある物だけでも全部読んでしまおうという気にはなるのだが、それを読むのにも、何年かかるか知れたものではない。

 

 果たして時計を見る時間と本を読む時間は、何方が値打ちのあるものかを考える。時間単価で見れば、恐らく時計が初めのうちは優勢である。しかし、その時計が何年何十年も動けば話は違って来る。

 大体自分は、本を読むのに数年かかる人間である。一旦読んでも、又読む、それで未だ読んでない箇所に気が付いて読む内に、今度は別の部分を忘れてーーと、鶏の様に突き散らす物だから、読後に本はブックオフでも受取を拒否されるくらいにボロボロになる。

 すると、ずっと同じ本がどんどん棚を埋める様になる。そして、その同じタイトルを飽きずにーーと言うか、読んだことも忘れて又手に取るのである。

 

 それでも自分が、スマホを眺めている時間は、時計と本とを眺めている時間よりも恐らく長いのである。

 そんな自分の目が文字盤の上を離れている間も、針はゼンマイの続く限り動いている。数百年前の文章の上を走査する目も又、自分が目を離している内に動いている事なのである。

 すると、なんだか自分も達磨禅師にあやかって、せめて時計を四十眺めていようかという気分にもなってくる。というのも、それは恐らく誰もそんなにはじっと見ていないからである。別に誰からか、「今、何時だ」と訊かれるのを待つのではない。

 読書も蓋し、そんなもんである。

 

(2020/09/17)