カオスの弁当

中山研究所blog

仰熒睨寱

 自販機は夜更し人間の止まり木である。

 帯に短し襷に流し、首を括るには丁度よしという塩梅の大昔に流行った黒くて長い蛇みたいなマフラーを二つ折りにして、その折り目に端を潜り通らせて、ぐるりと巻き付けると、何やら随分と髪を伸ばしたような心地になって気持ちが良い。

 すぐそこのポストに行くのも癪なので自転車に乗って街道沿いを疾駆すると、反対側の路地にパトカーが潜んでいるのが見えた。軈てバリバリとけたゝましく音を立てて、珍しく若いのが各々二人乗ったバイクが二台、ゆかしい長い白い背凭れを欹てたのが、伽藍とした幹線を下りていった。

 ポストの前では年嵩の男女が二人でロング缶の酒を飲みながら屯していた。信号のすぐ向こうにそれが見えたので、どうしようか悩んでいるうちに、今にも投函しようと思っていた葉書に未だ切手を貼付していない事に気付いて、これ幸いにとハンドルを右に切った後、コンビニへと急いだ。

 六十三円の切手を一枚買って、はたと水気のないのに窮した。普段なら、家にいる間なら嫌でもこの時期になると、指先に染み出してくる水が、寝不足と緊張とですっかり萎縮してすっかり乾いてしまっている。

 昔、まだ郵便局の前に警備員がいた時代、その老人から「外では、直に舐めるのではなく、せめて指で濡らすのだ」と、唾をつけた指先で裏面を軽くなぞる仕草を教わったのを思い出したが、今ではそんな事も随分憚られる。

 そこで、消毒の序でに出入り口に置かれたアルコールの消毒液に沾してみた所、これがうまくいった。

 そのコンビニのポストにパンのおまけの懸賞に応募する葉書を投函しながら、雪とアルコールの相似性は共に冷感と瞬時に蒸発してしまう所だ、とか考えている間にコーヒーが飲みたくなった。

 飲んだところで碌な事はないのだが、少なからず飲んでいる間は満足する。完全に中毒者の考えに至っている事に身震いしながら、頭を冷やす為に又少し自転車を漕ぐ内に、辺りの交通量はいよいよ少なくなった。代わりに甲高い声がよく聞こえた。

 こんな時でも酒を飲んだ人間の声は透るもので、それに対してガアガアと喧しい電車の転輪の音は、曇りの日でないと余り聞こえない。切り通しの間を走る所為もあろうが、上方に向かって放出された音波は、大気圏外へ放出された熱と共に、よく晴れた夜には天上遥か奥深くへ吸い込まれてしまって、サクサクと猫の踏む薮の跫くらいにしか耳に届いて来ない。

 駅前にあった金券ショップの自販機は、五月の自粛期間中に撤去されて、礎石だけがボルトの穴を遺して放置されている。

 流石に駅に近づくと人通りも増えた。が、然し最早誰しもが黙り込んでしまって、それがいっそ清々しい。

 銭湯で水風呂に浸かっているような具合で、行き交う人間が、皆、服を着て夜風に当たって満足気に身を凍えさせているのだと思うと随分おかしな風情である。明け暮れの冷え込みは正にそうした趣味に打って付けの気候に違いない。

 もう何年も前の話だが、駅前には夜になると軽トラに野菜や果物を乗せた物売りが来て、割合遅くまで怪しい品物を販いでいた。

 その内、自分は老夫婦のリンゴのトラックの常連であったが、傷んだリンゴを齧った後からは二度と買わなかった。ただ、その時に「変な味がするな」と言った自分に友人が、「それは傷んでいるリンゴだ」と言わなければ、まだ暫くは彼らも居酒屋やパチンコ屋のライトの下で凍えていたかも知れない、と思うと、彼の無神経さが怨めしくも思われた。

 そんな事を思い出していると、両手にそれぞれ片方ずつ靴を持った、若い、パーマをかけた、クモザルみたいなメガネの男が、軽快な足取りで道路を遮った。見たところ酔った風でもないし、靴も確りとその足に履いているのに、彼の荷物は両手のそれだけであった。

 羽振りのいい者は、その着のみ着のままが一番、値打ちがあるのかも知れないが、にしても随分不用心なものだと思いながら、交差点を過ぎて、一本別の道に入ると、意外にもカウンター・バーが盛況であった。

 最近出来た店で、父親が「こんな時でもなければ、覗いたかも知れない」と通りすがりに言ったのが梅雨の前だったから、この情勢下によくもまあ生き残ったものだ、と熟感心しながら、少し速度を落として様子を伺ってみると、二間半位のカウンターの前にはズラリと客が犇めいており、そこから溢れた客が店先のピロティの前で杯を傾けているーーといった有様であった。

 兎も角、今夜はその時間、そこだけが人間の屯場であるのは明らかであった。果たしてこんな傾向の人間達が、この近所にいたのか、と思うような柄のニット帽やジャケットを着込んだ客が、当たり障りのない軽薄さで酒卓に花を咲かせている。外にいる連中は、喫煙する様子もなく、寒酒を愉しんでいる様子だった。

 自転車はギコギコ音を立てるでもなく、時折、過積載で歪んだアスファルトに乗り上げた拍子にバネが鳴る程度で静かなものだった。

 ライトがダイナモ式からLEDに変わったのはいい事尽くめであったが、ただ一つ、夜走るのに静か過ぎるという点で難があった事に気付いた。その他の音は、鼻歌を含めてただ疎ましいものであるが、必要から起こるものであるダイナモの戦慄きは、如何かすると正体を失いそうになる夜の一人道で、今自分の足がペダルを漕いでいる事を知らせてくれる器械の声そのもののようで安心させる効用があったのだ。

 段々と眠気も増してきて、そろそろ危ないと思った所で、目前の丁字路で如何やら車が停まっているようなのが分かった。曲がり角の、もう直ぐそこまで差し掛かっているのに、何故かバックする気配すらしない。客を待つタクシーでない事は確かだった。

 嫌な感じがして、止まらないように、然しいつでも停車出来る速度で恐る恐る前進すると、何のことはなかった。横断歩道のあるそこの街灯だけが、より強力な照光を放つLEDに交換されていたのだった。馬鹿馬鹿しくなって、加えて本当に眠いのだということも悟った。

 用も済ませたので本当に家に帰る事にした。そしたら、決心した瞬間にどっと疲労吹き出して来て、それが全身に覆い被さって来た。出掛けるから、と未だ風呂にも入っていないのを思い出して急に何もかもが煩わしくなり、うんざりした所で、遠くに白く輝く自販機の光が目に飛び込んできた。

 切手を買う時に確認したのだが、今小銭入れの中には十円玉がダブついていた。これを消化するにも、ここで一缶開けるのはいいかも知れない……。

 

 そんなこんなで、今夜もまた既にこんな時間である。何もかも、そこに立っていた自販機が悪いのである。値段の問題ではなく、売っているもの、それを売っていたことが問題なのである。

 実際、その自販機は、モンエナとご奉仕価格のボトルコーヒーだけが売り切れていた。詰まり、私だけではないのだ。結局、自分はショート缶を一本仰ったに過ぎなかった。

 「いらっしゃいませ」と喋る自販機も珍しくなったが、それは結局、人間が自販機というものの性質を忘却して久しくなったから、搭載されなくなった機能なのである。すっかり鈍磨した頭と舌と鼻とで、その大して美味くもなかった風味を我慢しながら嚥下する間、自分はそんな思い出せもしないような昔の事柄を思い出そうとしては捏造して、その物語に恐らくは満足しているのだった。

 詰まりは、全くこの一時の快楽の為に自分は又々端金を落としたのだった。ただ自転車に乗って走り回るだけで満足出来た昔というのは、最早遠い遠い昔の話である。

 

(2020/11/14)