カオスの弁当

中山研究所blog

回数券雑景

2020/10/24

 Mのドリンク回数券、6枚綴り今日使い切る。最後に飲めるコーヒー、やけに上手く感じる。白き泡浮かぶ。口当たり良し。

 先日都内散策中に足の裏傷める。翌日、翌々日も痛むが、日中ずっと机に向かっているばかりなら、痛むのにも気付かず。立ち上がり、コーヒー淹れたり用を足そうとすれば気になるなり。散歩は三日ぶりか。図書館に寄り、本貸借。

 往来雑踏繁盛を見せる。五時前だが、店が早く閉まるのでこの時間が最も混雑する様子。

 時々路肩に立ち止まり、建物や電柱の写真を撮る。余所見する間、暫時コミュニケーションから離脱する。何枚か撮影して復帰する時、無性に人心地して妙に感動する。

 本屋に入る。今更、一番売れる場所に漫画が一番多く犇いていることに気がつく。最早メインは漫画也。旧時代の遺物が避けては、店の隅に追いやられて悲しいのも自業自得と反省する。大人しく一冊買って帰る。『風太郎不戦日記』。

 古本屋にも行く。通りから、びっこ曳きながら行く所為か、店の中が通りの延長線上に感じられる。屋内というよりかは、地下鉄の通路や駅の附属施設の中のような印象。出入り口が開け放たれているから余計にそう感じやすいのか。

 普段よりかゆっくり歩くより仕方ないから、其の所為で何だか異時空間に入り込んだような心地がする。タイムスリップした気分だ。

 歩幅が狭まり、せかせか歩くから子供の頃に戻ったような、或いは老人になった風でもある。兎も角、速度の違いは住む世界の違いでもある。そういえば、足の方ばかり気にする所為か、今日は図書館で子供に追突された。自分もしゃがんで棚の下の本を見ていたのだが、子供はカートを押していて前が見えていなかった。五才かそこらか、カートよりも背が小さいのだから、親も子供の方ばかり見ていたのだろう。自分も本ばかり見ていた。勿論、館内に交通整理員なんていやしない。

 幸い、満帆のリュックサックを背負っていたからダメージはまるで無し。双方に取ってこれが最大の利益也。

 Mに入る。老人が頑張って「フィッシュ」と発音しているのを小耳に挟む。いつか自分も難儀な日本語を話すに違いない、と感じる。それが少し楽しみでならない。

 揚げ物の香りを嗅いでいると、高幡不動に行きたくなる。大学時代、時々行った所為もあろうが、丁度今時分の不動尊を観に行くのが一番好みである。

 今年は灯篭祭りも紅葉のライトアップもないのであろうが、一人で行く分にはいつでも行っていい気がする。どうせ閑暇な身である。

 足を痛めたので単発の仕事にも入れなくなり不安はあるが、通りを歩いているとそれも忘れてしまう。回数券がなくなったのは痛手だが、それも左程煩いではない。使い切れた、という満足感が僅かに勝る。

 余り使う客が少ないものだから、特に新人の店員が戸惑うものが回数券だ。切符とかチケットというのは配る方は気楽かも知れないが、使う方はやけに気遣うものなのだ。

 然し、これは飽くまで切手である。にも拘らず相手の方は余りそうとは思っていないようだから困るのだ。自分は切手とサービス、両方買っている訳なのだが。

 古本屋に本を持っていこうかな、とも考えるも、いざ頭の中でピックアップしてみると何れも惜しくなってダメだった。馴染みの古本屋がなくなって、こういう時に頼れる相談相手がいないのは誠に心細い。

 その所為か、何処にいても屋外に居て憩いているような感じがする。居心地が悪い訳じゃないチグハグな印象であら。殊に店にいては、歓待されるので更にである。どうせならシュラフでも持ち歩こうか、という気分になる。

 「勝田文」氏は「かつた・ぶん」氏である由。以前、永井荷風を「にふう」と読んでいたのを思い出す。著者名を音読みするのは何か懐かしい感じがする。

 そういえば、以前本名を音読みされた、こそばゆい事があった。名札のふりがなにそのまま刷られていたので記念に持って帰った。其れも居室の何処かに潜んでいる事だろうが、何処だったか。

 道端に起伏ししている感じが不精を興進させる。良くない事だが、そういう性分なのだ。故に現金は持ち合わせず、切手や回数券に交換してしまう。融通出来る形で手許に置いておく事に不安を感じるのだ。

 何か大切なものというものは持てば不安になる。就中、我が身もそうである。ならば大切にしなければ不安は、単に動物的な極即物的なものしかなくなる訳である。勿論、其れは貧しさと表裏一体だ。

 価値あるものを直に地面に転がしておく訳にはいかない。小銭一つとってもそうなのである。自分が知る地面は全てストリート許りだから余計に、だ。そうではない土地は、誰かの家屋敷の敷地であり、駐車場である。価値あるものが其処に保管されている場所だ。

 兎角、置き場所のない代物には値打ちがないーーというのが、都市圏の価値観だ。これは存外一般には意識されてはいないが、無意識的に共有されている価値観だ。却っていえば、価値あるものは置き場所が与えられる。其の置き場所の値段というのが、保管されるものの値打ちを反映していたりもする。そして、都市においては如何に価値あるものでも、其の場所に留まり続ける事は更に難しい。ものを引っ切り無しに移し替えるーー畢竟、都市における仕事というのはコレが全てだ。

 その仕事の為の場所が都市である。だから、本当には自分のようなのが最も、都市生活者としてあるべき姿を見せているのかも知れない。誇るべきか、否かーー。然し、この見窄らしさは如何にも頂けない。貧しさや侘しさは、古刹の境内の紅葉も物悲しく見せる。

 物悲しさは畢竟、都会の辺縁にあって、ただ用もなく生きて其処らを彷徨いている事に因むのだろう。他の交通者は皆、用があって此処に来ているのだ。自分は何ら目的なく街路を彷徨っている。それが目的とも言えない。だから、他人の悲喜交交を見るにつけて、自分の所在なさを自覚させられて居た堪れなくなるのである。

 店先にも路傍にも、皆用があって其処にいて、更にいえば其の用事というのは些末なものであって、その上にはもっと大きな目的があって動いている。車で道路を走るのは道路を走る為ではない。だが、歩行者は道路にしか居られないのだ。落ち着かずにブラついて、疲れ切った時点でバッタリ倒れて、其処に暫く止まるのだ。

 楽しくて其処にいるのではない。然し、其処にいて楽しいのも事実だ。其処から脱け出せないのだーー否、脱出方法は承知しているのだが、如何にも其れが消極的なので、余計に気後れしているのだ。

 回数券は、財布の中のその他のカードと同じように、所在ない人間の履歴を示す手形である。其処には住所なんて記されたものは入ってなくて、其奴がいつ、どこで恐らくは何をしていた、という事を仄めかす記録がパンパンに詰め込まれている。

 其れが捨てられてないのは、其の財布が自分の所在を示す唯一のものだと、意識下ではっきりと分かっているからだ。これをすっかり掃き出してしまった後に残るのは、定住者としての持ち物は何もない一個の人間だけなのである。其の事実に尚一層、居た堪れず、レシート集めに文字通り奔走しても、人間の構造がただ一本の管に還元される以上は、無駄な骨折りである。

 軽佻浮薄な人間の悲しさは何処か電線や電柱に引っ掛かりはしていないかーーとか、ファンタジックな修辞を自分は好む訳だが、マタサブローなり、カンタローなり、そんな奴らは定住者の前にしか現れないと決まっている。幽霊が見たいと思った人間の前に現れる事は極稀だ。

 そういう何か、自分と似たようなものを探す時、この手の輩は、野良猫や烏に友達になって貰おうとする訳だが、これは全く相手が定住者である事を見て見ぬ振りをした愚挙である。彼等は立派に生活者である。さもなくば生きては居られまい。

 甘んじて、諸々の事共に感傷し耽溺し、一喜一憂する、其の性を引き受ける覚悟が固まるまでは、路上をぐるぐる回遊するのも仕方あるまいーーと、自分に言い聞かせるのも、良い加減にしなければなるまい。

 ……そんな観念的な言葉を並べ立てていたら、コーヒーとゲートル、というモチーフが二つ並んで降ってきた。

 何だと考えて、「何方も、ぐるぐる回るもの」というしょうもないオチが浮かんだ。自分でもクダを巻き過ぎた自覚が浮かんだのだろう。

 マスクしていると息も思念も如何にも内向して仕方ない。

 二杯目のコーヒーはSuicaで支払った。お代わりは百円なのだ。随分、得した。

 

(了)

 

ノスタルジックになるまで/日本アニメ電線・電柱考

 

はじめに:

 コミュニケーションの道具というのは、人やモノの交通を援けると同時に、妨げるものでもある。「電話」もその一つである。もっと言えば、言葉それ自体もそうである。

 また、交通はそれが直接的であればあるほど、その暴力性を露わにしていく。時空間的に同期していればしている程に、交通は直接で乱暴なのである。

 

 電線とそれに付随する電柱――これは、コミュニケーションを支持する構造体としてそれらを見た場合の主従関係である――は、加えて電力というエネルギーを供給する設備としてのもう一つの顔を持つ。そのパワフルな印象が、狂気じみた交通の暴力性と二重写しになる事で、アニメに出て来る電線と電柱は時に恐ろしい外部・他者の表象として立ち振る舞うようにもなる。

 

 電力と電信(電気通信)が及ぼした影響は「世界改変」と呼んでも構わないもので、その影響と変化はエネルギーや技術を以って人間が人間に対して齎したものである。従って、電線と電柱は人対人の緊張関係のシンボルとして登場する。ただ、その緊張関係は、必ずしもネガティブなものとして扱われる許りではない。

 其の場合、詰まり緊張関係がポジティブに描かれる場合に於いて選ばれるモチーフは、人やモノといった有形物を運ぶのであれば鉄道や自動車などが、声や映像といった無形物――もとい情報それ自体であれば電線と電柱が選ばれる。とはいえ、後述するように、電線と電柱が担っていた電話のシンボルとしての機能は、今では時代がかったものになっている上に、飽く迄、音声や画像といった信号は電話機やモニターで漸く、確認出来るものであるから、それら末端の装置ほど”ライン”は「映える」ものではない。

 何処までも、それ等は物語の辺縁にある脇役である。

 

1:同期について

 同期の恐ろしさを描くもの――と言えば、就中、幽霊やストーカーの登場するホラー作品である。その場には自分しかいない筈の私的時空間に於いて、何処からか侵入してきた何ものかがそこで何かしている事を示す描写の凡例は様々であるが、室内で勝手に点滅する「電気」は、映像作品では”お約束の描写”だろう。

 所で、意外とアニメで立ち回りの少ないモチーフに水道(上水道)がある。ホラー映画では、締めた筈の蛇口から勝手に水が迸る等の現象が他者の存在を仄めかしたりするが、それは扨おき、筆者自身特に意識して観て来た訳ではないので見落としていたりするのであろうが、特に「水道の水」は、電気・ガスと並んで今日の日常生活を描く上で欠かせない。これについては、又別の機会に筆を割きたいものである。

 閑話休題

 専ら、日本のアニメ作品に登場する電線と電柱の意味づけについては、前回紹介した、物語に無関係な道化的なオブジェとしてよりも、情報化社会に生きる人間を取り巻く交通環境を象徴するオブジェの一つとして『エヴァ』や『lain』といった具体的な作品の名前と共に紹介される。自己の意識(私的な時空間)に侵入して来る他者の脅威を描いた作品の例には『パーフェクト・ブルー』や『パプリカ』もあるが、殊、電線と電柱というモチーフと縁が深いものを挙げると矢張り前二者という事になる。

 

2:ある時代の名残として

 特に通信手段としての電話、ポケベル、ケータイ、インターネットの準・象徴としての電線については、それ等が使用された種々の事件や社会問題の記憶も、アニメ作品の中に反映させる為のゲートとなった。作品内で同時代の象徴として電線と電柱が登場するに及んで、それ等は後世に於いては当時の社会の価値観を垣間見る指標にもなっている。

 2017年のGigazineの記事にコメントを寄せていたスタインバーグの指摘は、90年代のテレビアニメに登場した電柱を、公衆電話や玄関口、鉄道の踏切などと並んで、当時の日本の日常生活に登場するオブジェの一つとして数えている。とりもなおさず、そのオブジェは皆、交通の道具であり、電話は言うまでもないが、玄関口には恐らく郵便受けや新聞受けが、表札と共に置かれているのであろうし、何ならガスや電気のメーターもその直ぐ脇に設置されている。集合住宅なら、玄関は連絡通路で接続されている。都市では極端化されているが、それは郊外でも事情は変わらない。

 例えば、郵便受けからは桁を増やしていく郵便番号と、それに伴う情報の増大と、この背景となった大規模な開発の記憶の残滓が読み取れる。情報の洪水は、温暖化に伴う海面上昇よりも遥か以前に、既に玄関先まで昂進していた訳であるが、それが脅威と見做される一方で、それは当時の豊かさの象徴として描かれていたであろう事は見て見ぬ振りをされるべきではないだろう。

 煩瑣な画面は、それ自体が魅力だった訳である。それ等は混沌としているように見えて、実際は並一通りではないアルチザンの技量で以って理路整然とした迷宮として構成された映像であった訳で、90年代の視聴者は喜んで迎え入れたのである。

 

3:ノスタルジックな電線と電柱へのシフト

 衒学的で香具師的なエンターテインメントとして色彩を基調としながらも、丹念な観察に基づく描写や、種々の専門知識やそれらを活用する都市論や文化史といった知識を活用した作品が20世紀末に傑出した事で、続く21世紀の作品はその手法を謂わば所与のものとして活用する事が出来るようになった、と筆者は考えるものである。

 2000年代に於いては、一例として道路標識や鉄道の表象が90年代の電線と電柱のニッチを埋めていった――と断言するのは勇み足だろうが、例えば交通のシンボルとしての電線と電柱が、そのニッチを占拠し続ける事が通信技術の進捗に応じて難しくなると、それに代わるシンボルと、それ等が適切に置き換えられたと筆者は考えるものである。そして、同時代的表象として捉えられて来た電線と電柱を制約から解放して、それ自体を道具として用いる工夫が生産者の中でなされるようになってきている――というのが近々の所見である。

 それが、昨今謂われる「ノスタルジーを喚起するもの」としての性質を電線・電柱が帯びるようになった事情であると考えられるものである。それは時代の趨勢に伴う帰結ではあるものの、その変化は勝手に起こったものではなく、相当に人為的なものであろう。

 

 

(続く、2020/10/20)

電気が隔てる内と外/日本アニメ電線・電柱考

はじめに:

 電線と電柱がアニメの中でどういう意味を持つのか、という事を考えるのに、差し当たり、用意しておくべき「問い」は、電線と電柱は何のシンボルなのかーーというものだろう。

 これについて、筆者はひとまず「電気」と「電話」のシンボルだ、という無難な回答を用意した。

 

 電気というのは、この場合、日常用語でいまだに残ってる、灯火を意味する言葉である。そして、電話とは広くインターネットも含めた電気通信全般を指すものとしてざっと此処では捕まえておきたい。

 大大論で始めるのは不本意だが、何分、自分の手分に適わない主題には違いないので、不器用な筆捌きでも読者諸賢には如何かご海容願いたい所である。

 なお、本稿は「電気」について一考を記すものとして、「電話」については次稿に回すものとしたい。

 (今回はきちんと用意をしております)

→前回(本記事を書くきっかけになった大元の記事):日本アニメ電線・電柱考(1)「エヴァ」と「lain」(前) - カオスの弁当

 

1:灯火管制の終わりと“電気”の回復

 『この世界の片隅に』のラストシーンは、正に電柱と電線がその本来の姿を回復した象徴的なシーンでもある。

 というのも、稍もすれば忘れがちになるのであるが、就中、日本語話者にとり、「電気」というのは、電灯の点す「光」に他ならないからである。

 電光の回復、就中、民家の明かりが綾なす「光景」というのは、群れなす電柱が担いだ電線を伝って届けられた電気の作り出した景観に他ならない。

 史実に於いて、本邦に於ける照明の、特に家庭に於ける室内照明の電化、詰まり電気が“電気”になるまでは、戦後なお長らく期間を要した訳であるが、その間にも、初め電球のソケットばかりであった電源の末端にも種々の機械が取り付けられるようになっていった。

 然し其れでもなお、今日の現実生活に於いても、引越した先の新居で先ず設置する器具というのが天井に取り付ける形の照明器具であったりする様な事を考慮すれば、電気即ち照明という構図は、日本のアニメ作品に出てくる電気というエネルギーにまつわるモチーフ、取分け日常生活の場面に出て来るものを理解する上で、押さえておく要点の一であろう。

 

2:室内照明としての“電気”について

 照明と結び付きのいみじき電気であるが、その光が家の中にあるか、外にあるかで、その性質は大きく異なって来る。

 端的に言えば、外に取り付けられた灯りは、街灯(常夜灯)に代表されるように「防犯」「防災」の為に設置された道具である。其れは統治の一方策であり、有名な映画『翼よ!あれが巴里の灯だ』で謳われた、パリ市の灯火は、遡ればルイ十四世統治下の1667年に設置された常夜灯が基であり、太陽王の「輝ける御代」は文字通り、昼夜となく人民を照覧するものだったーーという小咄は態々引くまでもあるまい。

 ネオン看板や工場のライトといった24時間操業を可能にする商工業的利用の為に用意された装置も、資本主義経済の発達に伴う管理の道具であるのは言を俟たない。

 これに対して、市井の人々が専ら私的に生活を営む室内に取り付けられた照明器具を、果たして日本語では専ら“電気”と呼び習わすのであり、外に設置された街灯や看板などの私的な範疇の外にある明かりは、例えそれが電気によって発光するとしても、其れを“電気”とは呼ばないのである。例えば、電柱に取り付けられた防犯灯が、暗くなって点灯したら『外の明かりが付いた』という表現になる。

 

3:“電気”が隔てる内と外

 2017年末のGigazineの記事に於いて引用されていた、『月刊少女野崎くん』の画像は、偶然かもしれないが、果たして“電気”によって隔てられた、私的な領域と其の外とが描き出されたシーンである。

日本アニメではなぜ徹底的に電線が描かれるのか?を海外メディアが推察 - GIGAZINE

 果たして、室内の光である“電気”が齎すのは、屋外の時間の推移に同期する夜の訪れに対する、人工的時空間の展開である。

 そして、其の展開によって出現した、隔絶された空間の内部では、街灯が点り時報が流れるような物語の舞台に当たる世界とは異なる時間が流れ始めるのである。窓の向こうに見える薄暮の中の電線と鉄塔は、時空間的に隔てられた私室の時空間的特異性を強調する。

 それ自体が時間の経過に応じて姿を変化させない性質が、電線や電柱を、異なる時間の経過を示す指標として、丁度日時計の様に機能させる。アニメ作品の中で規定となっている現実の時間の流れと、登場人物達の私的な時間の流れに対して、ニュートラルな、詰まりは物語とは直に関係を持たないモチーフとしてあるが故に、電線や電柱は道化的な地位を占めるものなのである。

 時間的跳躍を可能とし、剰え其の意味する所の其々の領域に於ける支配から自由であり、独自の時間を有する構造物の群れが電線と電柱なのである。そして、その構造物の群れが一つの量塊になると、其の景観は物語上、何処にも属さない空白地帯として、不思議な魅力を放つようになる。『新世紀エヴァンゲリオン』や『SSSS.GRIDMAN』に於ける遠景は、斯くなるものであると筆者は考えるものである。

 

4:“電気”の回復の意味するところ

 『この世界の片隅に』では物語の初めから終わりまで、私的な時空間に対して物語の規定となる現実の時間が容赦なく干渉して来る。

 だが、飽くまでも物語は、この干渉を受け入れながら、其れに応じた私的な時空間を少しずつ展開して何とか自分達の領域を守ろうとし続ける人々の定点観察を軸としており、其の視点は過ぎ行く月日を数え上げる形で物語の中で再三に渡り強調される。然も其れはカウントアップであって、時折遡る事はあっても、決して止まる事はなく、累々と積み重ね上げられる数である。

 灯火管制の終わりは、果たして彼ら登場人物の生活に私的な時空間の展開が回復されたと言い換える事も出来るだろう。それまでの時間というのは、謂わば国家に編成された巨大な時空間の中で、各人の領域も其の内に組み込まれていた訳である。これが“電気”の下に再編される時に、今度は其のスイッチの数だけ、謂わば時空間が存在する状態が地上に出現する訳であるが、そうなった時には最早、物語は「世界」という大枠を失い、本来世界がそうであったように無数の「片隅」の寄せ集まりとしての姿を回復するのだった。この「片隅」は「日常」や生活という語に置き換えても構わないだろう。

 

5:写り込んだもの達の物語ーー主題化するパワーグリッド

 電線と電柱は『この世界の片隅に』に登場する時も当然の如く脇役なのであるが、最初から最後まで其の物語世界の片隅にあり続けた、という意味では、主人公たちと同じ立場にあったとも言える。物語とは無関係に其れ等は登場するーーと先述したが、果たして史実の太平洋戦争の経過に基づいた物語の中では、電線と電柱も果たして他のアニメ作品の中の場合と同じように無関係に、全く道化的には存在し得なかったのだ、という事を筆者は本稿の最後に言及しておきたい。

 そして、それ故に『この世界の片隅に』では、小さな私的時空間に収縮・隔絶(と書くと何やらネガティブな感じがするが……)していく主人公夫婦と孤児の際先を照らすものとしての物語のフィナーレでの積極的参加も可だった訳である。

 これは『エヴァ』のヤシマ作戦のエピソードに代表される、アニメに於けるパワーグリッドの主題化の例の一として注視に値する。

 

Power Lines in Anime

 2017年のGigazine記事で紹介されていたブログ“Power Lines in Anime”でアップされる画像は、多くは運営者のwhitequark氏が言うように、『物語上の何らかの意図を持っている』のでもなく、『繰り返し登場するわけでもなく、強調されているわけでもなく、有用な意図は一切持っていない』ので、『誰かが外に出て写真を撮り、トレースして色をつけて完璧に仕上げる』、余白を埋める「箸休め的存在」として登場するものな訳だが、上に示した様に、作品の設定如何によって、其れ等は意外と物語に干渉していたりするのである。

 それは所謂「伏線回収」的な干渉の仕方であり、文字通り、見落とされがちな視界の端々に写り込んだもの達の、迂遠な、しかし見方によっては粋な仕方で干渉して来たりするのである。

 

(続く、2020/10/19)

 

懐中時計と書棚

 東洋時計の懐中時計は、国産最後の懐中時計と呼ばれている。五百円玉を二回り大きくしたくらいのサイズで、厚みはコンビニで売ってる和菓子のア・ラ・カルトの中に入ってる茶饅頭ほどである。

 これともう一つ、最近手に入れた商館時計を見比べると、後者の大きさに随分と驚かされる。これも又、コンビニで売ってる、小さな月餅くらいの大きさがある。大体、百年くらい前の稼働品になる。

 本屋の棚の前で、着替えたばかりの秋物のベストのポケットから、前者の小さな時計を取り出して見ると、先ほどまで手に載せていた時計と親子ほど図体が違うので驚く。カチャカチャと音を立てることもなれば、恐ろしく大きな針の音も聞こえない。ただ、ほんの微かに指の腹に、シャキシャキと車の行ったり来たりして、回る動きが伝わって来て、それがあたかも耳元で聞こえているような錯覚をもたらす。

 

 岩波文庫の棚の前に立ってみれば、あれが欲しい、これが欲しいと目移りして、いつまで経ってもレジに向かう事が出来ない。中にはかつて持っていたタイトルも並んでいる。

 どうせ何年かしたら又売っ払う必要が出てくるかも知れないのに、いつ引くか分からない『ラ・ロシュコフー箴言集』とか、名前だけは大分前に聞き及んだ『白い病』とか、『嘘から出た誠』とか、図書館に行けばあるとは知っていながらも、それを自分の枕元に、或いは机の横に拵えた棚の中に加えたいーーという欲求は尽きる所を知らない。

 初めて持った文庫は何だったか忘れたが、岩波だと『パイドン』だった筈である。同じプラトンでも『ソクラテスの弁明』が売り切れていたものだから、同じ作者の別の本を買った次第である。それから随分と買った物だが、果たして読めたかどうかは随分と怪しい。

 恐らくこれからもずっと怪しいのである。だが、手元におかなければ、恐らく死ぬまで読む機会もないだろう本でこの世は溢れている。そう思うと、郊外の駅前の書店の棚にある物だけでも全部読んでしまおうという気にはなるのだが、それを読むのにも、何年かかるか知れたものではない。

 

 果たして時計を見る時間と本を読む時間は、何方が値打ちのあるものかを考える。時間単価で見れば、恐らく時計が初めのうちは優勢である。しかし、その時計が何年何十年も動けば話は違って来る。

 大体自分は、本を読むのに数年かかる人間である。一旦読んでも、又読む、それで未だ読んでない箇所に気が付いて読む内に、今度は別の部分を忘れてーーと、鶏の様に突き散らす物だから、読後に本はブックオフでも受取を拒否されるくらいにボロボロになる。

 すると、ずっと同じ本がどんどん棚を埋める様になる。そして、その同じタイトルを飽きずにーーと言うか、読んだことも忘れて又手に取るのである。

 

 それでも自分が、スマホを眺めている時間は、時計と本とを眺めている時間よりも恐らく長いのである。

 そんな自分の目が文字盤の上を離れている間も、針はゼンマイの続く限り動いている。数百年前の文章の上を走査する目も又、自分が目を離している内に動いている事なのである。

 すると、なんだか自分も達磨禅師にあやかって、せめて時計を四十眺めていようかという気分にもなってくる。というのも、それは恐らく誰もそんなにはじっと見ていないからである。別に誰からか、「今、何時だ」と訊かれるのを待つのではない。

 読書も蓋し、そんなもんである。

 

(2020/09/17)

シールとバーコード

 子供の頃に、スーパーとかで親が買ってきた野菜や惣菜の値札や商品シールを剥がして、腕とか服に貼っていると叱られたものだった。肌が痛むからとか、服につけたままで洗濯機の中に放り込まれると厄介だから、とかそんな理由からであったが、今から考えるとそれ以上に、何かもっと生理的な忌避感が彼らのうちに働いていたような気がしないでもない。

 お使いとか用事とかをマジックで掌に書かれた時は、おまじないでもかけられたかのようで気味が悪かった。また、ほんの小さな頃には折に触れて、掌拓を取られたものであったが、これもなんだか気分が良くなかった。生来人に肌を直接触れられるのが得意ではないという気質の所為もある。

「どうせメモとか渡しても失くすだろうから」という負の信用から、保護者は皮膚に直接、用事を書き込むのであったが、思えばその時正に厭うたのは、そんな親の監督者気取り、大仰な言い方をすれば支配そのものであった。

 

 テレビで見る地方の習慣で、子供の健康を祈っての宗教行事で顔料を塗り付ける儀式が紹介されるのを見る度に、自分はそれを「飛んだお世話だ」と感じずにはいられない。

 日焼け止めでもあるまいし、子供の方からしたら只々“大人しく”耐えるより仕方のない儀礼である。蓋し、そういう儀礼を何度か潜り抜けた末に、長じて、その生得的な感性を抑制する事を覚えて、子供は大人の仲間入りを果たすものなのだ。

 そんな前時代的な成熟のモデルを、ヒトの慣いとして受け止めるよう、自己に言い聞かせるようになって、果たして健全な心というものを保てるのであるならば、世間という奴は余程、不摂生な仕組みで動いている。無論、生来の感覚というのも長じて変化するものであるから、一概に当てになるものではない。ただ、つくづく思うのは、こうした人間の動物的な習性を、如何なる方法によっても把握する事は、随分と都合がいいものであり、それは知っている事を只隠しにし続けた方が余程都合がいい。

 故に、自ずから“大人”は悪となる。

 

 初音ミクの腕にはバーコードがある、或いは数字が刷られている、という情報は、十年も前にか、流行り始めた頃に自ずと知るに及んだ。

 初めはこれがてっきり人間から採取した声を合成する仕組みなのかと勘違いしていたので、如何にもマッド・サイエンティストの様な、気持ちの悪い事をするものだなあ……と頭から嫌いで遠ざけていた。だから、そういうマッドな趣味を反映しての、或いは同じくSF的な着想によって、その非実在性を強調する意味でも、バーコードとかシリアルを飾るに至ったのか、と考えるに至った。丁度、試験管やシャーレに事務用のシールを貼るような感じで、或いはひと目見てそれが「人間ではない」事を誰が見ても分かるような装飾としてそれらは採用されたものだろうと考えたものである。

 

 何よりこうした技術の産物の人間社会に与える煩わしさは、生々しさである。

 種々の記事を散見するに「リアリティ」だとか「身体性」だとか「現実感」だとか、色々な言葉が目に入ってきて、そのどれもが自分の関心事である「生々しさ」に言い当てるのに適切な様に思えて来る。ただ、いかんせん低劣な分解能から、それらは似たり寄ったりに見えるし、異なった文脈にあるようにも思われる。

 ただ、それが他人と多分、共有出来る話題だという実感はあって、兎も角それが厄介なものであると同時に、商品としての価値を持っている事も明らかに知れるのである。そして話題になって、わんさと活字になっている位だから相当な高でもある。

 

 バーコードと数字の紋章は初音ミクの生々しさを減ずる事を期待して貼付されたものだと自分は解釈していた。だが、これが却って生々しさを助長する事にもなったらしい事を最近、偶々他人の意見に触れて、呻吟したものである。

 そもそも、あれが人型をしているのは、人の声音を発するソフトのキャラクターだからであろう。人の声音を真似た音を出すものだから、人の形に作られたろうものだと自分は解釈した。別に単なる箱でも壺でも良さそうなものだが、それだと愈々気味が悪いだろうという配慮があっての策であったろうに、全くそれは良く出来過ぎたソフトだったのだなあーーと熟思わずにはいられない。

 以上を踏まえると、存外自分の関心事である「生々しさ」という奴は、「可愛らしさ」と言い得るかも知れない気がして来た。

 現時点で、自分ではこの言葉が一番シックリ来ている。

 

 やがて自分自身が合唱に嵌るようになって、初音ミクへの好かん気はなくなった。何より、人間の成熟で重要なのは変声期だろう。

 人の声音というものは作意的であり、その意味では土台薄気味の悪いものだ。それを知るのに変声期程、強烈な経験は先ず無いだろう。

 作為は声変わりをしてからは通常の仕様となる。機械に頼らずとも、以降は常に用いているのも同じなのだ。

 それから何年もして、今度はVチューバーなんてのが流行り始めた時には、既に自分は声変わりをしていたので、「バ美肉」だろうと何だろうと、それは抵抗なく受容する事が出来た。男女の別なく、人は剃刀を当てるものだし、床屋には行くものだ。オンライン会議で自分の背景を弄るのと、それは何ら変わらない虚飾であるーーとはいえ、装飾に嘘も本当もあったものではないだろう。それは端から作り物、即ち偽物、虚構である。

 

 バッヂやシール、バーコードといったものが人間に与えられ、剰え貼付されるような事は、人間性の剥奪の象徴として今日、広く知られる所であるが、全くそれはそこで言われる人間という価値の虚構性を暴露してしまうからこその禁忌なのであろう。

 小児の顔や手に書くサインや、彼らに持たせる札や徽章は、彼らをして誰の持ち物であるかを他に示すものであるが、それらが果たして何事もなく正常に機能して彼らに「加護」が齎される時には、正にそのモノである事実が彼らを照らし出した恩寵の影として露わになってしまう。

 如何にも、猫や犬がどれだけ可愛らしくてもそれはモノである。首輪や、皮下に注入されたICチップは正にそれらを適切に「動物」として人間が管理するのに役立っている。子供が持ち物に名前をかくように言われるのは、未だ彼ら自身が自らの持ち物をきちんと管理出来ないのを周りの人達が補佐する為に必要な情報だからであろう。そう考えた方が、幾分気持ちも楽である。

 何方に付くかといえば、矢張り支配する側に回った方が心休まるものであろう。

 

 

(2020/09/13)

 

 

コスプレから作業服へ/長谷川如是閑初期文芸作品に託けて

 背広はサラリーマンの作業着である。成る程、其れならば、背広の格式なんぞはすっかり作業の過程の中に繰り込んでしまえるから、着心地は大分改善されるものだろう。

 人間、着ているものに相応しいものに身を包んでいる奴は先ずいないーーとは、若き日の如是閑の言であるが、果たして其れが仕事着となれば、話は別である。似合っていようがいまいが、其れ服に袖を通す事が仕事の一ならば、何を着ていようが、其れはお仕着せなので、其の下に貧相な肉体があろうが、全くそんなのは自明であり、そうであればなおの事、敢えて気に病む事はない。もし気を病む事があるとするならば、只管にそのお仕着せが苦痛を与えるものでしかない場合か、或いは自分が着るような服がもっと他にある筈だと思っている場合であるが、葛藤する若き日の長谷川如是閑は、自身に本来、用意されていたであろう品のいいドレスに袖の通せない事への不満を抱いていたようである。

 『ひとりもの』と題された小説の中で彼は自嘲を交えて、己が境遇を愚痴たりしている。

 彼をして、ジャーナリストに向かわしめたものを、生家の没落に求めるのは強ち間違いではないだろう。それは些か安直かも知れないが、しかし彼のキャリアを「成り上がり」と「返り咲き」として見る時に、本人も又、アンチ・ヒロイズムの立場を鮮明としている事を考慮しても、其の「他愛のなさ」は一考に値するものと筆者は考えている。そして其の側面は、彼自身を時代の風物の一つたらしめている。

 

 人を使う立場にあった大阪朝日新聞社会部時代の如是閑というのは、何だかんだで彼自身が本来納まる筈だった、大店の番頭に近しいものであっただろう。彼の青年時代通った東京法学院も、そんな地主や商家の次男坊が多く通った私立学校であった。彼自身も多分に漏れず次男坊であった。

 とはいえ、独立して一ジャーナリストなった後にも彼から其の服と肉体の不調和が解消されたかというと怪しく、彼の「今ここではない何処かに納まるべき座のある者」ーーこれを最も辛辣な表現を用いると『無冠の帝王』になるーーという態度は、いよいよ鮮明になっていく。だが、彼の上には今日、文化功労者の栄誉と文化勲章の輝きが与えられており、死後半世紀が経った今日迄も其の栄誉は続いている。其れが果たして彼の望んだ、自らに「相応しいスーツ」だったかについて、文化勲章の制定時に寄せた彼の文章から推し量る事が出来るだろうが、其れは曰く、「勲章といえば大抵は軍人や政治家のものというのが相場であるところ、文化に貢献した人物に与えるものというのはフランスにある位で、多くの国に他国に先んじた素晴らしいものだ云々」というものである。同じ頃の岸田國士の同じく文化勲章へのコメントと比べるとなかなかに穏当な印象であるが、其れは果たして以前からナチの文化政策の批判などを通じて、積極的に「文化」の保護・奨励の世論形成に従事していた当事者の一人としての活動があっての事だろうが、そんな如是閑の活動に下心がないと判ずるのは、それこそお仕着せというものである。

 国家からの栄典を受けるに相応しい人物・功績がある、と主張する如是閑に「あわよくば、自身の上に桂冠を」という下心があったとしても、蓋し、其れは彼だけに留まらないアクチュアルな問題でありえた。栄典に相応しい地位である文化人・知識人というものの中に如何に自分の様な氏素性の人間を割り込ませるか、という長谷川の問題は、彼自身の問題であると同時に、階級間の移動の問題など、種々の問題を内包していた。江戸城のお城大工の末裔ーーという出自を多年強調し続けたのも果たして、彼の上昇志向の現れと見て差し支えはないだろう。其れは、「お城」の権威をかさに切るのと同時に、階級社会の中での職人という身分の向上を図る事にも繋がるのであったが、なによりもそうした実践的な活動を通じて、自身の社会的身分としての「新聞記者」「評論家」の評価を向上させようとする野心が見え隠れしている。そして、其の野心を飽くまでも前面に出さない強かさを、町人に仮託して語ったりする辺りが、如是閑の「コンプレックス」である。

 

 文化勲章が授与された当時の内閣総理大臣と個人的にも昵懇だった如是閑の、そんな腥い一面は若き日の憧れから一貫しているものだろう。彼の若々しさは、果たしてそんな野心が源泉だったとも言えよう。又その野心は、相応しくない服を着たまま不本意な生を遂げる事への危機感にもつながり、其れが葛藤の源泉ともなり、又思想家としての思索の端緒、動機ともなったと考えられる。自身に相応しい姿をーーという欲求は、彼をして、あるべき理想の社会の姿、文化や歴史、常識についての著作を「描かしめた」とも。それは、創作の限界や、又は「あるべき姿の追求」という事自体の空虚さに対する危機感を反映したものかも知れない。

 

 彼はペンネームの「如是閑叟」に相応しい要望、年齢になった頃、漸く落着の趣を冠するに至った。極端にいえば、彼はその将来と可能性が殆ど潰える年齢に達した事で、長年の「不本意な死」からの煩悶より解放されたのであった。

 そんな死を齎らすものは彼の持病と虚弱体質であったが、彼はその境遇の多くを当該事情に求める所が甚だしく、其れにより多くを断念しなければならなかったのは事実であったろう一方で、そんな自己像を早々に形成した事で彼自身のキャリアが相当な制約を負ったのも事実であろう。

 如是閑を脅かしたものには果たして、彼自身の思い込みとしての自己像もあったろうが、結果としてその思い込みによって彼と彼の周囲は、92歳という驚くべき長命を保つ事に成功したと信じていた。その為、彼は自己像を反省する段階まで到達出来なかったーーというのが、現時点での筆者の理解である。或いは、反省出来たとしてもそれを公に出来ない状態に彼が甘んじていた事も十分に想像される。

 この点については、今後更なる調査を要する。だが、敢えて一言を付せば、彼が命を存えたのは果たして彼や周囲の尽力もあったろうが、所詮は「運」というものに依存する所が少なくないだろう。「楽観的」と自称した如是閑の性格は、謂わば不安の裏返しであろう。だが、そんな彼も80歳を過ぎた辺りで、漸く「ソン」な自己像から解放されたような事をエッセイの中で書いている。果たして、当時の基準からしたら、実に長命であるがその歳になるまで恐怖に怯えていた事がそこでは端的に語られている。ダンベル体操に弓道、早駆けに散歩、登山までして肉体を健康に維持しようとし続けた彼の強かさには、彼の思索の中で追い求めた「伝統」(或いは「国粋」)と同様に、常に背景として脅威があった。

 そんな逃走が、生活者としての絶えざる「闘争」と、音だけではなく一致する所が合ったので後世から振り返るとヤヤコしいのであるが、初期の文芸作品に於いての彼のテーマは生活を端に発する「生活からの闘争」ではなく、「生活」もとい「不本意な生からの逃走」であった。

 処女作『ふたすじ道』にしても、話の筋は主人公のスリの少年の、カタギと言われる生活からの逃走である。彼がカタギのゴム屋になりたくないのは、そうしても自分の意中の女性と一緒になれないからであるが、彼が英雄的盗賊にもなれないのも、その逃避行の端緒に恋した女性を連れていけなかった点にある。しかも其れは単に相手の女性から拒否されたのではなく、よりヤクザな金貸しにより、借金の方として奪われたのであり、主人公はヤクザ者・ゴロツキとしても幸先の悪い「失敗体験」を負ってスタートを切ることとなったのである。

 果たして、「羽織ヤクザ」と呼ばれた新聞記者としてのキャリアの末に、文化人という栄誉あるスーツを自ら仕立てるようなことまでして、其の最高の栄誉を頂くに至るまでの作家・如是閑の軌跡は、カタギになりきれなかった処女作の主人公のその後に幾分か救いのある様な事を示唆している。ただ、世間はやはり煌びやかな栄誉を見てしまいがちで、陰の点については目を逸らしがちか、或いは偏見を持って見てしまうものである。腥い描写が割愛されるのは、御伽噺ばかりだけではない。

 

 翁のかんばせには、親しみやすさや優しさばかりではなく、狷介さや生命に対する並々ならぬ執着が宿っている。その「醜い」とも「おぞましい」とも形容し得る顔に大宅壮一は流石に相応しい“スーツ”を与えている。

 〔...〕如是閑のこの写真を見ると、樹齢何百年という古い榎の大木のななにすみ、しめなわをはられて神格化されている大狸が連想される。“生きている文化財”というよりも、大切に保護されねばならぬ旧“東京八景”といった感じである。

(「現代を創る顔」3)

 この前段で、大宅は失われた東京の、嘗ての面影は「榎町」や「狸穴」という地名に偲べない事もない、と語った上でこういうのだから、容赦がない。同時代のものが尽く死滅した後に生き残った大狸は、当時手厚く“友人”らに保護されていた訳だ。

 大宅の指摘は、専ら如是閑に対するものよりも更に其の保護活動に勤しむ者たちへ当てられたものだったろう。即ち、其の眷属である「狸穴」の「狸」達に向けられたものだったのだろうが、さてこそ彼らの化け方がうまかったか、化かし方が上手かったのか、古狸と彼が呼んだ老翁は其れに相応しい壮大な弔いが彼の友人らによって挙げられ、歴史の殿堂に葬られたのだった。

 蓋し、狐と狸の化かし合いの様な話だが、大宅の鼻は、同じく腥い如是閑の其れを鋭く嗅ぎ取ったのであろう。ただその指摘自体が、自身の正体への疑いを招く事になるのを恐れて、普通「人」は其の口を噤むものである。

 

 そんな如何にも「臭い」話をしようものなら、筆者は自分までもがそんな臭いを発して来そうなので、長らくこういう記事を書くのもイヤイヤしていた。

 だが、ジャーナリストというのは、詰まる所、そんなイヤイヤ駄々を捏ねる人間に、己の放つ臭いを自覚させる事を生業とするものなのかもしれない。だとしたら、其れは全く、疎まれて仕方がない気持ちもしないではない。なまじ人は、常に人であろうとして、その余りに自分の正体すらも欺こうとするからである。だから他人が、必死に化けようとする仕草を見て居た堪れなくなり、指摘される段に及んでは真っ赤になって怒り出してしまうものなのであろう。

 最近では、服の似合っている・似合っていない、相応しい・相応しくないーーという問題は、最早それを評する事自体がハラスメント(嫌がらせ)だとして倦厭される向きがある。

 確かに其れは結構な事であるが、しかしながら又近時の状況からは、そうは言っても人間から好悪の感情は如何しても拭い去れないものだという事も明らかになっていて、其の板挟みにあって葛藤する人々の様子を見ていると、筆者は如是閑の「ジャーナリズムとは何か?」という問いへの答えについて、流石に彼も上手い事を言うな、と思う次第である。曰く『対立意識の表現』というのが、彼のジャーナリズムを一言にして示した所である。

 

(2020/09/01)

 

 

 

22世紀外観

 タラップから降りた人間は、単なる人間である。馬の上の人間は単なる馬の上の人間に過ぎず、それがどんなものかという経緯については、さして誰も関心がない。

 概して人間という奴の関心が行く場所は決まっていて、やれ鼻の高さはどうだった、だの、目の色は何色だったか、だの、そんな事ばかりが気になって仕方がないのである。

 故にか、そういう人目につきそうな部分を装飾する事で人間は自身を、他人にあれこれコントロールされないように防御する訳だが、それが結局、お呪いとそう変わらないのは、有志以来ヒトはヒトのまんまだからであると言えよう。これが人間が蜘蛛の糸を吐き出すようになるようになったとかすれば話は別だが、精々が所、生身の人間が出来る事とするならば、煙を吸い込んで吐き出すとか、其の程度の事でしかない。

 牙の代わりにタバコを加え、目の色を隠す為にサングラスを掛けてみたりーーと、あの手この手で人は外敵を寄せ付けないようにするものだが、其れは誠に動物としての習性であり、これが重要な限りに於いて人間は、バーチャル空間に受肉したとしても、ヒトであり続けるだろう。

 ヒゲもマスクもカツラもファンデーションも、所詮はそんなお呪いである。かつて装いが、それぞれ呪術的な意味合いを帯びていたのが、今更何か変わった訳では全くないのだ。

 寧ろ、前世紀から続く「科学」は、これらお守りのご加護を徹底的に肯定して、其の効用を制約から解放したのである。特定の信仰、即ち物語からアイテムを他所に持ち出せるよう、融通の効く形へ改造したのである。

 それでも、結局、流通させるーーという段にあっては、従来通りの手法で、即ち、お守り・お呪いに再び作り替える必要があるのは、何故かと言えば、それがヒトにとって至極、受け止め易いからだろう。況や、其れは使用に際して、「所詮、お呪いであるから」「作り事であるから」という、心から其のお呪いの効き目を信じていないから、何かあっても自分は関係ないーーと、安心出来るからである。此の無信心の効能は、裏返せば、信心への信頼の未だ厚い事の証左である。

 思うに、日々の労働でゴリゴリと摩耗していった精神が行き着く先に、果たして、此処200年ばかり、一部の人間が願った「解放された精神の世界」があるのではないか。

 即ち、それはただ外部からの刺激に機械的に作動し続ける呪動的機関の産物であって、そこでトランス状態に陥った人間は、今日の様な気の滅入る生活からは隔絶される筈である。

 既にして明らかなように、労働は肉体から精神を自由にする有効な手立てである。其の最中で、解離した肉体と精神の一方が、或いは其々が破綻するかも知れないが、果たして其れは未だ其の心霊技術が未熟な故に起こる事であって、今世紀中には肉体は精神と永久に分離する事が可能となるであろう筈である。そして、其れは前世紀からの継続して今世紀に至り、今後益々発展していくであろうお呪いの科学によって実現される事と考えられるものである。

 今でこそ、果たして其れは恐怖として語られようものであるが、いづれは現在も、今日の中世“暗黒時代”同様に、否定的に語られる時が来るに違いない。……とはいえ、其れは寧ろ、資料がポッカリと抜け落ちた、或いは尽く黒く塗り潰された、という意味に於いての暗黒時代かも知れないが、兎も角、人間は、己が幸福になる為に、各時代各時代に於いて最善を尽くそうとする生き物である。其の結果として、大抵の場合、開始時点からすれば頽落としか思えないような状況に進んだとしても、其れは紛う事無き適応の一形態なのである。

 斯くして筆者は人類史に於いて、22世紀は今世紀同様に光輝に満ち溢れているものと考える。

 

(2020/09/01)